第三話 フォビオ、ご褒美にありつく
備品室で羽根ペンを入手したフォビオは、井戸の洗い場に来ていた。
「――それにしても危なかった。俺が汚したのがバレたら、また皆にからかわれるところだったよ。先生が俺の名前を言う前に、わざと失敗して注目を集めれくれるなんて……やっぱりエラーソさんは優しいね。羽根ペンが折れちゃってた時もそうだよ。まだ使えそうなのを俺のためにわざわざゴミ箱から拾ってきてくれるし。感謝しなきゃね。――さてでは証拠は隠滅、隠滅……っと」
フォビオは呟きながら水を汲み、水桶に石鹸を溶かして洗濯水を作った。呟いた内容は鈍感力を遺憾なく発揮したエピソードであるが鈍感故に深くは考えていない。
洗い場にローブを広げ、洗濯水を胸元に掛けようと、柄杓でその水を掬ったところでベルモンドの言葉を思い出す。
「そういえば先生、水魔法を使えって言ってたな……。ふむ」
フォビオは柄杓を水桶に戻すと、腕を組んでしばし考える。
「先生が言ったのは確か……『水魔法をうまく使え、ローブを傷めるな』だっけか。ということは……いつも洗濯で使う【龍の水流】は……駄目か。乾燥に使う【地獄の業火】もたぶん駄目っぽい……なら――」
フォビオはローブの襟元に手を入れ、書付用の帳面と棒を取り出した。棒は自作の魔法杖だ。
魔法杖には身の丈ほど長い長杖、腕ほどの長さの短杖や棒杖があり、書生が使うものは通常ワンドである。しかし、フォビオのものは手のひらほどの長さの小杖であった。
フォビオはその場に座り込むと、タクトで頭を掻き掻き、膝に乗せた帳面をぺらぺらと捲る。一般的な冊子を四等分にしたその帳面もまたフォビオの自作であり、捲れるようにきちんと片側が綴じられている。小さな紙面にこれまた小さな文字でびっしりと文字が書き込まれている。
「こういうときにこれが役立つね。誰かが四つに切ってくれたお陰で、小さくて持ち運ぶのに丁度いいサイズだよ。いつかお礼を――お! これいいんじゃない、【霧の幻影】」
フォビオはタクトを耳に挟むとまたもローブの襟元に手を入れ、今度は綴じられてないバラ紙を取り出してそのページに挟む。
「やっぱりエラーソさんお勧めの杖は小さくて便利だよ。耳に挟める杖なんて画期的だよね。しかもリグナ・バイタの木ってのがいいね。鉄みたいに硬くて、削るのに苦労したけど丈夫だしさ! 表面に彫った神聖文字がすり減ることもない。また磨いとこ」
エラーソの細やかな指導により、綺麗な正六角形に削られた直径二センチのタクト。その六面全てに神聖八十八文字と言われる神聖文字が、これまたびっしりと正確に刻まれていた。フォビオは毎晩そのタクトを布で磨き、その六面に彫った全ての神聖文字を、誰かに折られた――いや、折れてしまった羽根ペンの軸で磨くのが日課だった。これも当然ながらエラーソの勧めである。
「んー。乾燥なぁ……」
フォビオは耳のタクトを外して指で摘み、弾くように指の付け根でクルクルと回しながら考える。
「火だと万が一があるし、地はさすがに汚すよねぇ……。水は問題外だし、やっぱり風かな。じゃあ【暴風】……は、強過ぎ――」
回していたタクトを鼻の下に挟み、口を尖らせたままページを捲る。
「――! これだ! 【雀の翼】にしよ。そうと決まれば……」
フォビオはまたもバラ紙を取り出すと、先ほど備品室で貰ってきた羽根ペンを洗濯水に差し、バラ紙に水で模様を描き始める。魔法陣だ。インクで描くと再利用できないから水で描くといい、とエラーソから助言され、フォビオはそれを守っていた。
しかし。
エラーソにどのような思惑があったかは問題ではなかった。
フォビオは二枚の魔法陣を水で描き切る。
灰汁で作られた石鹸の、肉眼では判別できないほどの極々薄い灰色が溶けた洗濯水。それで十分である。魔法陣に必要なものは色の濃さではない。
魔法陣に必要なもの。
魔力の源泉たる魔。
その魔を縛る正確な神聖文字。
それを中心に描く。
威力を調整する神聖文。
それは内円に。
効果範囲を計算した神聖式。
それは外円に。
フォビオにとって魔法は日常。神聖文法に触れ、魔法で課題や雑用をこなす。
そう、文字通り熟し、熟達したのだ。それに費やした時間は八年余り。押し付けられた課題を押し付けられたと気付かず、雑用という名の大小様々な嫌がらせの数々にも気付かず、己の糧になったのにも気付いていない。そしてやり遂げるたびに精神力が磨かれる。鈍感力はまさにフォビオの武器そのものだった。
「これで――よしっと! さて詠唱、詠唱……」
フォビオは洗い場近くの地面に一枚目の魔法陣を置き、中心にタクトを当てて詠唱を開始する。
「ブツブツ……ぼそぼそ、ブツブツ、ぼそぼそ……」
隣りに居ても恐らく聞き取れないほどの小声。これはベルモンドの教えである。万が一、魔法士同士が戦うことになれば、詠唱は弱点となる。攻撃手段と内容を相手に伝えるのと同意、という考えからである。
「――ブツブツぼそぼそ、ブツブツぼそぼそ――【霧の幻影】ッ!」
水桶の洗濯水がみるみると霧となり、ローブだけを包み込む。大量の霧が狭い空間に圧縮される。通常であれば水に戻るはずが、霧の状態を保っているのは魔法故である。
フォビオは時間を見計らい、魔法を解いてローブを確かめる。魔法の霧にしっとり優しく揉み洗いされたローブに、汚れは残っていなかった。
「んー、良い感じ! お次は――」
二枚目の魔法陣にタクトを当て、またも詠唱を始める。
「ブツブツぼそぼそ、ブツブツぼそぼそ――【雀の翼】ッ!」
しかし何も起こらない。
フォビオは気にした風もなく、手にしたローブをひょいと放った。ローブは地に落ちることはなく、空中でくるくると回り始める。ローブだけを巻き上げる竜巻がそこにあったのだ。
フォビオが鼻歌を歌いながらひらひらと舞うローブをひとしきり眺めていると、視界の隅で連絡通路を歩く人影に気付いた。見ればベルモンドであった。
「あれ、先生だ。――先生ー! ベルモンド先生ー! どこか行くんですかぁ?」
「なんじゃ、よりによってフォビオに見つかったわい。じゃがそれはワシの――そうか、フォビオが洗っておったのか。まぁ皆顔色悪かったしの」
「そうそう。俺、優しいからさ」
「ふん! 元はお主が汚したんじゃ!」
「まぁそうだけど――っと」
フォビオは魔法を解き、ローブを回収するとベルモンドに駆け寄った。
「で、先生はどこに――あ、この時間!」
「どこでも良か――」
その時、昼八つを告げる鐘の音が聞こえてきた。
「先生、おやつ時ですねぇ」
「……。ンもう! 仕方ないのぅ。……試験前じゃのにローブを洗った褒美じゃ、ついて参れ。――皆には内緒じゃぞ?」
「やった! ――口は堅いですよ!」
「なら良い良い。楽しみじゃのぅ」
師弟は並び、甘味を求めて食堂へと向かっていった。
タクトの素材、現実世界では「リグナムバイタ」と言います。
硬く、丈夫な木材で、一説では世界一硬い木材だそうです。
中世では車軸やベアリングとして活用されたとか。
中世ファンタジーに興味がある方、是非一度検索してみてください。