六十日後
ジルが先生として週に六日、エドヤに訪問するようになってから二カ月が過ぎた。
三十路過ぎの勉強ではどうなるものやらと思ってた俺のモルダラ語勉強だが、俺が優れているのではなくて、ジルが教師として教えるのが上手かったお陰で、何とか簡単な文章は読み書きできるようになっていた。
そしていま何が切ないかっていえば、うちの子たちが俺より全然優秀だと気づいたことである。
最初はジルが動物や植物など絵のパネルを見せながら、
「これは犬っていってね、こういう文字を使うんだよ」
などと少しずつ教えており、木製の知育玩具のパネルにはないものは、動作で教えたり、オリジナルでパネルを製作したりもした。
俺は基本的に三人の勉強が終わるまで後回しなので、彼らの様子を眺めていることが多いのだが、一般的な果物や肉、魚など、生活に必要な言葉を覚えるのは早かった。
ジルは彼らに絵を見せながら、木から切り出した文字のパーツを使い、こういう綴りだよ、と言われるとじっと眺めており、バラバラにしてから直させると、みんなちゃんと正しく文字を作るのだ。
ダニー以外は翼なので、くちばしだったり足で器用にずらしたりするのだが、俺よりよほど理解力がある。自分たちの名前も初日に覚えたのには驚いた。
思わずジルと抱き合って喜んでいたら、ウルミが力尽きてその後すぐ寝落ちしたので、その日はそこまでだったが、この調子なら会話できるようになるのも夢じゃないと思った。
ただ、文法的なものが今一つ難しいようで、単語と単語という感じで理解する。
これは俺も似たようなものだが、英語のように、
「私は行きます テーマパークに 友だちと一緒に 今週末」
みたいな文章が行ったり来たりするような文法ではなく、
「私は 友だちと一緒に テーマパークに 今週末行きます」
というわりとストレートに伝わるものなので、俺としてはまだ覚えやすい。
仕事終わりに風呂と食事をして、眠る前も一時間はひたすらノートに書くということをしていたら、だんだんと絵本の内容も分かるようになってきた。
ジルにそれをいうと、
「オンダはモルダラ語だって流暢に話せるんだから、読み書きだってすぐ覚えるだろうよ」
と当たり前のように言われた。
いや、俺が話しているのぜーんぶ日本語なのだ。
でもこの国の人は俺の言葉をモルダラ語として受け取ってくれるのである。
俺も恐らくモルダラ語で話をされているのだろうが、こちらは日本語として聞こえている。
本当に不思議だが、トランクの中身が減らないことも含めて、別世界に放り込まれた人間がいきなり「詰み」の状態にならないよう、神様的な人たちのルールがあるのかも知れない。
──いや、こっちのお金は無一文だったので詰むところだったけども。
マジで詰むところでしたよ神様! これは心の中で強く訴えておこう。
本当に、俺が営業マンだったから何とかなったようなものなのだ。
だいたい、未だになんで俺がモルダラにくることになったのか全然分からない。いつかはこれも分かる日が来るのだろうか?
「誰かをケガさせたり、意地悪をする人を『悪い人』っていうんだよ。例えばジローが食べているご飯を誰かが勝手に取ったりしたら、取った人は悪い人なんだ。分かるかい?」
三人は『〇✕ボタン』の〇を押した。
これは、質問に「はい」「いいえ」で答える内容が多いため、毎回パネルを持ってくるのが大変だろうと、屋敷でジルが木づち片手に作ってきたものだ。
踏み板が二つあり、〇なら右、✕なら左のボタンを軽く踏めば、ぴこーんと押されたパネルが起き上がる仕組みだ。ちゃんとボタン部分の木材もやすりをかけて、うちの子の足に傷がつかないように気配りをしている。
ジルは昆虫の捕獲箱や折り畳みの丸椅子なども作ったりしているらしいので、こういう作業が得意なのだと思う。羨ましい。
ジローもウルミも足で踏めばいいだけなので楽だし、普段は手を使っているダニーも(いや、いつもだいたい二本足で歩いているので手だと思っているけど、これも前足になるのかな)足で踏めるのが楽しいらしい。
もう〇✕で問いかけをする分には普通に答えられる。
ついでにずっと気になっていたことを聞いてみた。
「なあジロー、ダニー、ウルミ。お前たち同士は言葉が分かるのか?」
少し考えた三人は、〇を押す。
「迷ったのは、全部が分かるわけじゃないってことかな?」
全員〇。
「なるほど。じゃあ分かるってより意味を感じるってことかな?」
全員〇。
「ちなみに俺の言葉も、簡単なのは分かるけど、分からない言葉もある感じか?」
ジローとウルミは〇、ダニーは✕。
「ん? ダニーは大体分かるのか?」
ダニー〇。
「おや、お利口さんなんだねダニーは!」
様子を見ていたジルが褒めると、ダニーは嬉しそうに鳴いた。
『キュッ、キュ!』
「うん、えらいえらい」
俺が頭を撫でると、ジローとウルミも頭を差し出した。
「お前たちもえらいよ。普通はできないんだから、こういうやりとりなんて」
一緒に撫でているうちにウルミの電池切れが起きたので、今は教室代わりの部屋の端に置いてあるウルミベッドに寝かせた。
「ジローもウルミもまだ完全な大人じゃないからねえ、種族としては。まあこれから色々覚えるだろうね。ダニーは一番お兄ちゃんだから、二人のことを頼んだよ」
『キュ!』
ジルはふと壁の時計を見て慌てて荷物をまとめ出した。
「いけない、アマンダのところの手伝いに行かないと。それじゃオンダ、また明日ね」
「お気をつけて」
ジルを見送ると、パネルなどを片付けてウルミのカゴを持つと、ジローたちをプールに連れて行った。ウルミはプールの近くに置いて、目が覚めたら入れるようにするためだ。
だがもう夜は暑さが和らいできているし、いつまで入るのかな。ダニーはともかく、ジローもウルミも秋冬になってからもプールに入っていたら風邪を引かないだろうか? 今度聞いておこう。
「じゃあ店に戻るからまた後でな」
『ポウ!』
『キュ!』
エドヤに戻ると、ナターリアが常連のお客さんの見送りをしているところだった。
「あ、オーナー、今日の勉強終わったんですか?」
「そうですね。どうです今日の売り上げは」
「まあいつも通りですね。母は帰りましたか?」
「いや、アマンダさんのところに手伝いに行くらしいです」
「ふふ、最近あの二人、仲がいいですね」
「まあ間は空いてたようですけど、以前もよくお茶してたみたいですしね」
アマンダのテイクアウト専門店「レストランエドヤ テイクアウト」ホラール店はオープンからかなりのお客さんが来ており、テイクアウトの気軽さで一人暮らしの人などが、
「自分で作る手間もなくて、キッチンも汚れない。安く済むし栄養も考えられてる」
と喜んでいて、毎日のように買っていってくれるお客さんもいるようだ。
事前にある程度の数を作っておいて、これが売り切れたらおしまいという形にしているのだが、何とかならないかと泣きつかれるとアマンダは弱いタイプである。
在庫を見てくるていで、作り置きしてあるおかずを弁当に詰め合わせて、
「残ってましたよ!」
とやるらしい。そんなことをしているせいで早々に手が足りなくなり、知り合いのバイトを探していた若い奥さんを雇ったのだが、彼女が休みのときはジルにヘルプ要請がくるようだ。
「まったく、あの人はしょうがないねえ」
などといいながらジルもいそいそ手伝いにいっているので、お互いに反りが合う関係ではあるのだろうと思う。
サッペンスのジェイミーからも電話が先日きたが、どうやら「レストランエドヤ」サッペンス店も繁盛しているようで、さすがにもうアルバイトを雇わないとダメかも知れません、と嬉しそうに愚痴をこぼしていた。
アマンダのところでは肉じゃが弁当と豚の味噌漬け弁当が特に人気で、ジェイミーのところはカレーライスと魚の味噌漬けセットの注文が多いらしい。町によって人気が偏るのも面白いな。
そろそろ新しいメニューを教えて欲しいと二人からも言われているのだが、他の町の様子も見に行きたいし、なんといっても一番大きな町である王都ローランスにも行きたい。
調味料も他の町に普及させられたら、モリーも儲かり俺も儲かる。そして、美味しい店が増えると。
読み書きができるようになってくると、むくむくと行動意欲が増すのである。
ああ、体が二つ欲しい。