第7話「庶民の遊び方」
日も暮れた頃に酒場へ引き返せば、昼間よりもずっと活気に溢れていた。さほど広くないが人気なので、いつも夜は客でごった返す。エルザには新鮮な光景が目に飛び込んできて、思わず興味と感動で言葉を失った。
「ほら、カウンター席が空いてるから行こう」
「……はっ。すみません、そうですね!」
誰かに席を取られてしまうと座る場所がなくなってしまうので、部屋で食事をする事になる。それではせっかく連れてきたのに面白くないとレオンティーナが手を引いて速足で歩く。
「おおぉ、可愛いお嬢ちゃん、こっちで一緒に喰わねえか」
客の一人がエルザを見て真っ赤な顔で手を伸ばす。酒の匂いがする息を吐きだしたのをレオンティーナが強く睨む。
「おい、酒飲みのクズ野郎。人の女に手を出すと痛い目見るぞ」
「ぬうっ……!? こ、こりゃすまねえ、レオンの姐さん……!」
馴染みの酒場は常連が殆どを占めている。当然、レオンティーナの顔見知りは多く、彼女がいかに恐ろしい相手かを理解しているので、目が合った瞬間に不興を買ったと分かれば、回っていたアルコールも瞬く間に抜けて顔を青くした。
「ちっ、馬鹿め。正常な判断も出来ないほど酒を呑むなと前にも言ってやったのを覚えてなかったのか。これだから酒飲みは信用ならん」
やっと椅子に座って、カウンターに肘を突きながら悪態を吐く。
「まあまあ、レオン。そう怒らずとも私は大丈夫です」
「お前は大丈夫でも俺は気に入らんのだ。アイツは毎回ああだからな」
大概の事は大目に見る。しかし、今回絡んだ相手が自分ではなくエルザだったのもあって、ここで叱らねばいつ叱るのだと口先を尖らせた。
「ワイン片手にチーズをつまむ程度なら許したさ。しかし、たまには注意もしてやらんとアイツのためにならない。酒に溺れるのは勝手だが、見ていないところでやってほしいものだよ」
やれやれと呆れて首を横に振る姿に、エルザが微笑ましくなった。
「優しいんですね、レオンは」
「はあ? 俺が優しいわけがない」
出されたメニュー表を手に取って開くのをぴたっと止めて、なんとも不服そうな表情で大きな声を出す。喧騒には勝てず、静かに吸い込まれていった。
「馬鹿馬鹿しい。俺が優しいのであれば公爵家でさえ聖人になろうとも。いつか俺の事が恐ろしく思う日が来る。そう遠くないうちかもしれないぞ」
「だとしても、私はあなたを恐れません。助けてもらったんですもの」
メニューをまじまじと見つめながら、エルザは続けた。
「伯爵家も公爵家も、私の目に映る全ての人たちが恐ろしかった。数百人の敵の中で何年も何年も孤立し続けてきたのです。いまさらあなたが人を殺したとしても、きっと驚いたりはしないし、受け入れる準備もあるつもりです」
意外と気丈夫な娘だと感心する。暗い過去から解き放たれて、こうも人間とは変わるものかと長年生きてきて初めての学びにもなった。
「さて……。俺はぶどう酒とブルーチーズのサラダ。ステーキも頼んでおくか。この際だから、お前も残すくらい多めに頼んでおけよ」
ぎょっとしてメニューから視線が瞬時にレオンティーナに向かう。
「いいんですか? お店の人ってそういうの嫌がりそうですけど」
「ここがどこだと思ってるんだ。振り返ってみろ」
言われるがままに酒場を見渡してみる。
誰もが無法地帯でありのままに生きているかのように自由だ。酒の瓶は床に割れ、グラスを倒して机を濡らす。ひとたび口論が始まれば机の上にあった皿も投げ出して、どっちが強いかを腕一本で競い合う光景。
乱暴だが、どこか嫌いになれない空気があった。
「……ふふっ、そうですね。ちょっと上品に残したくらいでは文句なんてひとつも言われなさそうです。ここではそれが普通なんですね?」
「その通り。呑み込みが早い。これが庶民の遊び方という奴さ」
椅子にもたれかかり、楽し気に言った。
「砂だの泥だのに塗れて過ごした日々を忘れ、いっときの夜を楽しむ。金が無くても、ひと口の酒で満足できる。気が済むまで馬鹿騒ぎしたら、また明日を生きていく。謀略だらけの上流階級とは違って、こき使われてもアイツらは素直に笑っていられればそれで幸せなのさ」
庶民の感覚は分からない。ただ、瞳に映った全てが、今のエルザには羨ましく映った。これが彼らの生き方なら私もそのように生きてみたい。豊かな明日への祈りを捧げ、笑っていられる日々を送ってみたい、と。
「それより、いつまでメニューを握ってるつもりだ?」
「……あ! ご、ごめんなさい、今注文します!」
慌ててメニューに視線を戻した。
ひとまず酒と肉料理を注文してメニューを返す。
「ここの料理は美味い。酒は安物なんで、お前の口に合うかどうかは分からないが、俺たちのように飲んで騒ぐだけの人種にはうってつけなんだ」
「ふふ、楽しみです。楽しく食事が出来るだけで嬉しいですから」
いちいち後ろに暗いものが見えて来る、とレオンティーナは額に手を当てながら天井を仰ぐ。それほど苦労を重ねてきたのは事実なのだが、あまり聞いていて気分は良くならないので、早く彼女の思い出が塗り替わってくれる事を願った。