最終話『二人の旅路』
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翌朝、港にはレオンティーナが一人で立っていた。片手には大きな本革のトランクを持って大きな私掠船の前で、陽が昇りきる頃に彼女は小袋に詰まった金貨を、船の持ち主である髭面の濃い顔をした男に手渡す。
「今日はよろしく頼むよ、キャプテン・ネビル」
受け取った男は袋の中身を確認してから眉間にしわを寄せて困った顔をして、分厚い手で頭をがりがりと掻く。
「魔女の頼みとあっちゃあ断れないが……。船に乗せるだけでこの額たぁ、流石に気前の良い奴でも二の足踏むってヤツだ。他にも頼みが?」
彼女が乗ろうとしている船は最も巨大な私掠船、キング・クルージーン号。ネビルは今年で五十代半ばを過ぎようという長年の経験を積んだ船長だ。差し出された額に難色を示すのは当然で、大概の事は全て自分一人で十分に済ませてしまう魔女の願いなど預かって問題でも起こせば、と額にひやりとしたものが伝う。
「別に。ただ気の済むまで乗せてくれて、命さえ守ってもらえれば構わない。お前の船員が俺に無謀な事をしたら、そいつが魚の餌になると思うが」
「……まあ、それは仕方ねえよ。契約書を交わしておこう、後で言った言わなかったで揉めたくねえんだ。貴族なんぞならまだしも、あんたは話が違う」
面倒くさいと思ったが、口には出さずスッと差し出した手の中には、契約書がある。ご丁寧に羽ペンまで用意されて、男はやはり魔女は海賊よりもずっと常識に囚われず怖ろしい生き物だと感じながら名前を書く。
「ご厚意をどうも、レディ・ウィザーマン。にしても、どうしてわざわざ魔女様が俺たちの船なんかに乗りたがるんだ?」
「いやなに、連れと別れる予定なんだが会うと寂しくなりそうでね」
たかが少しの間、ちょっと気遣ってやるくらいのつもりで連れ歩いた娘を、どうして欲しがってしまうのか。だが、どれだけ一緒に居ようとしても叶わない。かつて愛した人がそうだったように。
その人が遺した後悔が、未だ胸の中に刻まれている。
「俺が連れ回すのは申し訳ない。そいつには自分の人生を歩んでほしい。……もう契約も終わった。なのに魔女が傍にいては自由などありはしないだろう」
「そういうもんかねえ。何百年も生きると、そう見えてくるのか?」
どうだろう、とレオンティーナは困った笑顔を浮かべた。正しいとは何か、それは魔女にも分からない。生き方など千差万別だ。だからこそ、自分の生き方に付き合わせてしまうのは嫌だった。
「もったいねえなあ。あの白銀の魔女様が他人を想って悩むなんざ、よほど気の合う奴だったんだろ。そいつも寂しく思ってると思うぜ?」
「だといいな。俺と同じ気持ちだと嬉しいと思うよ」
風に靡く髪をやんわりと手で押さえながら、空を飛ぶカモメを見つめた。
『拝啓、親愛なるレディ・ローズへ。突然、目の前からいなくなる事を許してほしいと思う。お前との契約はもう終わった。誰もが過去のお前を忘れ、新たなる人生の道は切り拓かれた。おめでとう、エルザ。期待を裏切ってしまうようで申し訳なさばかりが込み上げて来るが、こうでもしなければ、いつまでも巣立ってはいけないかもしれない。雛を育てた親鳥としては寂しい気分だが、どうか新しい生き方を見つけて欲しい。お前らしい、何者にも染められない美しい人生を。────レオンティーナ・ウィザーマン』
一通の手紙で想いを伝えるのは難しい。だが、かといって悠長に長々と語るのもらしくない。エルザの歩んできた道は荊に満ちていたが、今は満開の花々が咲き誇る世界へ踏み出した。自分の残すべきものは、その足にしがみついて立ち止まらせる事ではなく背中を押してやる事だ。
「では今日からしばらく厄介になる」
「おうとも。あんたがいりゃあメシが腐る事もねえ」
「任せてくれ。俺も二度とごめんだ」
────どうかお幸せに。俺は俺で、また好き勝手に生きればいい。湧いた情も、離れていればやがて静かに蕩けて消える。次に会うときは墓の前だ。
「よーし! 出発だ、野郎共! 魔女に粗相すんじゃねえぞ、魚の餌にされたくねえなら身の程ってヤツを弁えるこった!」
ネビルの号令で船はゆっくり港を離れていく。遠くには小さな島────今頃はどうしているだろうか。まだ眠り呆けているか、それとも手紙に気付いて何かしら物思いに耽っているだろうか。どちらでも構わない。ただ、エルザがこれから歩んでいく道が幸せに満ちている事を祈った。
『ご主人らしからぬ。あの子はそんなに特別だったのかね』
アダンの声だけが響く。姿を隠しているのだ。
「特別だったよ。色んなヤツに出会って来たが、なにせ誰よりも俯いて立ちあがり方さえ知らない小娘だ。あれこれ教えて話すうちに段々と表情豊かになるのが面白くてね。……だからこそ自由にしてやらなければならなかった」
遠く離れて小さくなっていく港町を眺め、寂しい顔をする。
「ここからはエルザ・ローズの紡がなければならない物語だ。魔女の傍仕えとして飼われるままでは、いずれ後悔する。俺はそうではなかったが、俺の母親がそう思ったように。魔女以外に永遠などないのだから」
くすっ、と笑い声が聞こえる。誰かが盗み聞きしていたのだと思って、レオンティーナはどこの誰だと振り返ろうとして、隣にふわりと揺れる紅い髪を見た。
「────だとしても、私の生き方は私で決めます。それがエルザ・ローズの紡ぐ物語の最初の頁。誰かに示された道を歩くだけでは、今までと何も変わらない。そう思いませんか、レオン?」
口をぽかんと開けて驚くしかなかった。確かに置いてきたはずのエルザが、すぐ傍に立って、とても穏やかで嬉しそうな顔をしながら微笑んでいた。
「な、お前……なんで付いてきたんだ?」
「言ったでしょう。あなたと一緒にいたいって」
なんとなく分かっていた。独り立ちしたくないのかと尋ねられたときから、どことなく彼女の落ち着いた雰囲気が乱れていたから。人の顔色を窺って生きて来たのだ。感情の機微を捉えるのは自然にできた。
極めつけは、ヴィルヘルミナが前日の晩にこっそり伝えていた。
『レオンティーナはあなたを置いていくつもりよ。でも、どういった人生を選ぶのかはあなた次第でしょう? 自分にだけ選ぶ権利があると思ってる高慢ちきな大魔女に、ぎゃふんと言わせてあげるなんて楽しそうじゃない?』
だから今朝に船を出すまで、眠ったふりをして、ヴィルヘルミナが準備をするふりをして、こっそりエルザを忍び込ませ、港についてから彼女は勇気を出して、自分の持っていた財産を叩き、魔女の目を盗んで船長のネビルに『私も乗せて下さい。レオンを驚かせたいんです』と頼んでいた。
なので船長のネビルは最初から知っていて『寂しいと思ってる』などと言い、アダンも分かっていて『特別だったのか』などと煽った。
いつもならば周囲を振り回す大魔女、レオンティーナが初めてしてやられたと顔を手で覆って天を仰ぎ、これまでにないほど大きなため息を吐く。
「くそっ、どいつもこいつも俺にナメた真似をしてくれる……」
そう言いながらも期待が隠し切れない。
「……人の気も知らずに。俺が二度と手放さないつもりで連れていくとしたらどうするつもりなんだ、まさか後悔するとは言わないだろうな?」
「まさか。私が選んだ事です。こちらこそ手放したりしません」
スッと小指を差し出して、エルザはとてもにこやかに────。
「約束です、レオンティーナ。私の事、ずっと大事にしてくださいね」
「……やれやれ、困った娘だな」
そっと小指を絡めて、レオンティーナは照れ笑いを浮かべた。
「────約束だ。この先、どんな事があっても俺がお前を救ってやろう。大魔女レオンティーナ・ウィザーマンの名に誓って願いを叶えよう」




