第52話「ちょっとした頼み事」
路地裏から出て来たとき、レオンティーナを見ても声を掛けるものは誰一人いなかった。何があったのかを問うまでもなく、彼女が今に八つ当たりでもするのではないかと思うほど不機嫌であったからだ。
しかし、彼女の機嫌は途端に良くなった。近くで様子を窺って待っていたエルザが駆け寄ってきたのに気付いて『やれやれ、こっちの気も知らずに』と小さく手を振って全てが片付いた事に安堵する。
「ご苦労、エルザ。よく震えもせず耐えたな?」
「レオンのおかげです。……ありがとうございました」
「なに、気にするな。これでもう障害はない」
レオンティーナが先を歩き、一歩後ろをエルザがついていく。
町の喧騒は、彼女がぱちんと指を鳴らすと、そのうち元通りに戻っていった。
「ところで、さっきのボブさんはどこへ行ったんでしょう? 途中まで一緒だったんですけど逸れてしまって……」
「ああ、先に帰らせたよ。後は待たせてるヴィルに会いに行く」
いつまでも港で待たせているわけにもいくまいとは言いながら、緩やかな下り坂をのんびり歩く。
「もう、コルネリウス卿には会わなくていいんですよね?」
「ああ。それに会ったとしても、二度とお前に絡む事はないよ」
彼女が掛けた魔法は今までで最も強い呪いだ。当人と、彼に関わる全ての人間が──レオンティーナとエルザは除いて──コルネリウスという人間の記憶を失う。それもエルザのようにゆっくりではなく、瞬間的に。
あまりの衝撃が脳に影響を与えて廃人化しかねないが、そこは魔女の知ったる事ではない。咬みついてきたのは相手なのだから。
「にしても、お前が怪我のひとつもしなくてよかった。流石に俺も、久しぶりに本気で焦ったよ。救ってやると契約までしておいて、あんな野良犬に奪われたとあっては歴代の魔女に恥を塗りたくるようなものだ」
疲れた顔で天を仰ぐ姿に、エルザがくすっと笑った。
「本当にご迷惑をおかけしました。でもあなたのおかげで無傷でしたよ。そういえばステフとニコライはどうなったんですか?」
「大丈夫。彼らは使い魔だから、今はヒュプノスの森で休んでるさ」
魔力で創られた肉体は残ってしまうので、今頃は誰かが路地裏で猪と狼の死骸を見つけて驚いているかもしれないが、わざわざ処理するまでもない。魔女が出て来たのだから何かあったのだろう、と誰もが口を噤む。
ホッと胸をなでおろしてエルザは微笑んだ。
「元気なら良かった。また会えるんですよね?」
「もちろん。前に会った奴らの殆どに世話になったんだ、礼を言わないと」
せっかく認めた魔女以外の人間が、悪意によって奪われるなどあってはならない。その想いで彼らは協力してくれた。特にステフやニコライ、カムイなどは傷を負う事さえ厭わなかったのだ。
「そうですね、皆さんに何かお土産とか用意してあげたいです」
「では明日にでも港町を巡ろう。好みくらいなら俺が知っている」
自信たっぷりに答える。使い魔たちとはもう長い付き合いだ。誰がどんなものを好んで、どんなふうに喜ぶのか。どんなものを嫌って、どんなふうに怒るのか。細かく説明できるほど記憶に何度も刻まれている。
「ま、それは明日の話にしよう。今はほら、あれを見たまえ」
港で船を出す準備を済ませて、不安そうな顔で待っていたヴィルヘルミナが二人を見つけて大きく手を振りながら安心した表情を押し出した。
「遅いわよ、二人共! 本当に心配したんだから!」
「それは申し訳ない。だがこうして無事に連れて戻った」
エルザが申し訳なくなって、ぺこりと深く頭を下げる。
港町で誘拐された人間で無事に帰って来たという話は基本的に耳にする事がない。ヴィルヘルミナのように誰でも顔の知れた者であれば安全に観光もできるが、そうでなければ奴隷として売られるか、あるいは道具のように扱われて捨てられるか。生きている事が珍しい。
だから無事に帰って来たと分かって、喜びのあまり目に涙を浮かべるほどヴィルヘルミナは彼女の事を心配していたのだ。
「さ、帰りましょう。アタシの島なら誰も来ないし、来てもいざというときはレオンティーナがいるから絶対に安心よ。ね、そうでしょ?」
「お前と契約した覚えはないが……まあ、サービスはしよう」
散々と酒や料理を振舞ってもらっておいて、何も返さないわけにはいかない。いくら彼女が名の知れた貴族といえども、絶対に襲われない保証があるはずもない。用心棒を引き受けるくらいは必要だ。
「乗って乗って! 出発しましょ!」
ヴィルヘルミナの所有する船は、とても小型とは言い難い。ただ島を行き来するだけにしては立派で、乗り込んでからエルザが「本当に立派ですね」と讃えると、彼女は嬉しくなって頬を掻きながら照れ笑いを浮かべた。
「いやあ、実はもっと小型のものを貰うはずだったんだけど、建造中に火災が起きたらしくて。それで使い古しの小さい貿易船があるって言うから買い取ったのよ。どうせちょっとの距離を行き来するだけだから」
見た目が気に入ったので衝動買いしてしまった船はそれほど傷んでおらず、使い物にならなくなったらそのまま沈めるはずだったが、ヴィルヘルミナは簡単に捨てたりはしなかった。定期的に整備を行い、大切に何年も使っている。
「整備って、誰かに頼んでるんですか?」
「あ……いや、それが実はね」
言い淀んだヴィルヘルミナの背後から、ぽつりと。
「海沿いにある酒場に手慣れた連中がいるんだよ。なにしろいくつもでかい船が泊っているのを見た事があるだろう」
「ああ、見ましたけど……。もしかして貿易船の整備士さんたちに?」
純粋な返答にレオンティーナがくくっ、と手で口を覆った。
「違うよ、エルザ。あの酒場にいるのは貿易船を扱うような生易しい連中ではない。奴らは港町における規律を持ち、酒場でだけ騒ぐのを良しとする。だから港沿いの治安は良くもあり、ある意味では最悪とも言える」
親指で首を掻き切るような仕草をしたレオンティーナを見て、ほんのしばらく沈黙した後でエルザがハッと理解する。
「か、か、海賊ですか!? この船を整備するのって!?」
「エヘヘヘ。その通り、海賊の皆さんに頼んでるんだよ」
海の荒くれ者たちも陸にあがれば落ち着ける場所を欲しがる。他の海域とは違い、ラルスカヌスにおける海賊たちは独自のルールを持ち、決して騒がず、問題も起こさない。ただ酒をあおって楽しんで、また海へ出て行く。
「大丈夫なんですか、そんな人たちが港にいるって……」
「問題ない。我が国は、この港町に限れば海賊に対して寛大だ」
レオンティーナが指をさすひと際も目立つ大きな船。
「あれはキング・クルージーン号と言って、ラルスカヌス最大の勢力を持つ連中の船だが、ここでは用心棒みたいなものだ。公認と言えば分かりやすいか。だから、この港町は『海沿いの要塞』なんて呼ばれ方をする事もある」
海の向こうを渡った先の国々は、決して安穏と生きているとは言えず、非常に好戦的な国もある。そんな脅威を相手取るのがラルスカヌスを拠点とする海賊たち。だからこそ町の中での犯罪行為はあるものの、そのほとんどが海賊以外によるもので、彼らは海からやってくる外敵に対して侵略の一切を許さない。
「あいつらは定期的に各地を転々としては、他の海賊連中に睨みを利かせる役割も持っている。だから港町で暮らす者たちと良好な関係を築いていて、それは当然クールグラス家の三女も例外じゃないというわけだな。連中がいないと皆が困るんだよ」
船がゆっくり島へ向けて進み始める。ふと、それなら船を動かすのにも人数がいるのではないかとエルザが不思議に思っていると────。
「ねえ、レオンティーナ。そろそろ魔法の文字がかすれ始めて来たんだけど、あたらしく刻んでくれない? それなりにお金は弾むからさ」
その一言で、船がどう動いているのかが分かった。
「ああ、構わないとも。だが今回は金など必要ない。代わりに頼みたい事があるんだが、良かったら聞いてもらえないかな?」
「……? うん、いいけど、どんなお願いかしら」
魔女から頼み事とは珍しいと快諾すると、レオンティーナはエルザをちらと見て、彼女に聞こえないようにヴィルヘルミナに小さな声でぼそぼそと何かを伝えた。「絶対に頼むよ」と、念を入れて肩を叩いて。




