第44話「苦い経験」
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がたんごとんと馬車が揺れる。ぐっすり眠っていたエルザがふと気付いて寝惚けた目を擦りながら外の景色を見ると既に雨は上がっていて、落ち始めた陽が曇った空の隙間から覗けた。
「あ……、すみません。いつの間にか寝ちゃってたみたい」
御者台を振り返ったレオンティーナが優しく微笑みかける。
「旅慣れしていないからすぐに疲れるだろう?」
「はい。とても楽しいのですが、体力が追い付かないというか」
「もうすぐ着くから、まだ少しくらい眠っていても構わないぞ」
「いいえ、大丈夫です。もうすっかり休めましたから」
自分の足で歩いて疲れたのなら、それはもう気分が良かった。いささかの筋肉痛はあるものの、眠ったおかげで元気はいっぱいだ。
「ふふ、なら良いんだ。町に着いて宿を取ってから起こしてやるつもりだったんだが、どうも腹が減ってきた。何か食事でもしよう」
目の前には町を囲む白い城壁と門があって、見張りが立っている。彼女たちの馬車を見つけると、手にもった槍を横にして制止した。
「こんにちは。いきなり止めてしまってすみません、観光ですか?」
「ああ、数日滞在する予定だ」
そうですかと納得はしつつも、仕事ですからと言いながら荷台を確認する。中にいたエルザに小さく会釈をして荷物を確かめてから「行商に来られたわけではないんですよね?」と尋ねた。荷物が多かったので、やや不審に思っての事だ。それもすぐに晴れる疑いだった。
「俺が誰か分かれば通してくれるのか?」
「はい。身分を示すものでもあれば……」
懐をまさぐって、一枚の銀貨を投げた。
「ではこれで。もう要らないから記念に受け取ってくれたまえ」
「……? うわっ、こ、これって即位記念硬貨……!?」
現皇帝の即位式の際、極めて一部の貴族たちに配られた貴重品だ。金貨数十枚の価値はあると言われていて、その一枚が資産となる。庶民には縁のない代物だが、そのデザインは記念として公開された事もあり、知っている者は非常に多い。
「も、も、も、貰っていいんですか!!」
「やるよ。俺にはもう必要ない」
どこの誰かとまでは分からなくとも、彼女が大貴族と呼ばれる類の人間であると思い込んだ──実際、それ以上の立場でもあるが──見張りの男は硬貨をすぐに懐に仕舞い込んでから即座に通行を許した。
「ようこそ、港町ラルスカヌスへ! どうぞごゆっくり!」
「ありがとう、楽しませてもらうよ」
馬車が走りだして、見張りの男が頭を下げるのを荷台から見つめるエルザが「良かったんですか?」と不思議そうに言った。旅を続けるうえで役に立ったのでは。そう感じたが、レオンティーナは首を横に振った。
「価値の高いものは総じて買い手がつきにくい。大貴族と呼ばれるいくらかの家門にしか配られていないからコレクターにとっては垂涎ものだろうが、俺が誰か知っていて売ってくれなど言う奴もいないし、本当にただの記念品さ」
持つ人間が持たなければ価値は生まれない。金に興味のない大魔女を相手に『いくらでも出す』などと口を開いて不興を買う方が恐ろしい。だが相手が魔女以外であれば、誰でも言い値で買うと言われれば取引に応じて損はないと判断する。だったら自分以外の誰かが持っていた方が良いのだ。
「もう俺も十分すぎるほど資産がある。指を鳴らせば空から金貨の雨だって降らせる事も出来るほどにね。俺は税を納める事もないし」
いつでも払う準備はあったが相手がそれを拒んでしまうので、仕方なく積み上げた硬貨は銅から金まで山ほど揃っている。旅を続けるうえで必要なのは、時間と自分の忍耐力だけだった。
「だから欲しいものがあればいつでも遠慮なく言いたまえ。贅沢はできるときにするのが一番だ。もし船にでも乗ろうものなら、嫌でもマズい飯を食いながらラム酒で誤魔化す事になるかもしれないんだ」
それは嫌だな、とエルザはすぐに「わかりました」と答えた。ここで遠慮でもしようものなら、本当に永遠に後悔すると察して。
酒は嫌いではない。どちらかと言えば好きになった。酒場での愉快なひとときは死ぬまで鮮明に思い出せるほどに良いものだ。しかし、レオンティーナが『マズい飯をラム酒で誤魔化す』と言われると、その良い記憶も、きっと海のどこかに流れて行ってしまいそうな気がした。
「あ、じゃあレオンも船に初めて乗ったときって……」
「思い出したくもない酷いものだったよ。俺の苦い経験という奴だな」
初めて船に乗って遠くへ行こうと決意したとき、偶然にも乗り込んだのが海賊船だったと言って、からから笑う。命の危機は感じなかった。彼女が白銀の魔女だと分かると、無法者の集まりでも『俺たちの方が殺される』と感じた。その名はよく知れ渡っていて、荒波も息を殺して身を潜めると言われるほどに。
「最悪だった。連中が必死にもてなしてくれたんだが、全部海に流れていったよ。あまりに胃が空っぽになって、疫病が蔓延していた時代を思い起こしたものだ。二度と味わいたくない不運というべきか。周りから見れば滑稽だったろう」
空を飛ぶカモメを遠くに見つけて、彼女はフッと可笑しくなった。
「懐かしい。次に乗るのも海賊船だったらいいのにな」
「えっ。私はちょっと嫌かもしれません……」
流石に命の危機を感じると思ったエルザに、ちっちっ、と指を振った。
「いやいや、乗るべきだ。連中は敵には回したくないが味方には頼もしい。気心知れた相手なら、よほどの事がない限りは楽しいものさ」




