第41話「幸運」
具体的な年数などはとうに記憶から薄れている。思い出してみれば鮮明に蘇るのは、ただ自分が孤独と貧困を窮めた時代を生きた事。
右を見ても左を見ても、あるのは黒灰色の世界。道端には大人も子供も入り乱れ、飢饉に苦しんで息絶えた者たちが重なり合った。焼かれた死体の焦げ臭さと腐敗の臭いが混ざって鼻が曲がりそうな場所。生まれて落ちてから小さい頃の事など覚えていないが、八歳になったときには既に地獄にいた。
『おんや、まァ。地獄に花が咲いてるとは驚いたね』
疫病の流行る町を恐れる事も無く歩く女がいた。まるで聖職者のような服を着ながら、首には命に対する冒涜とも言える山羊の頭骨を模った銀細工を提げた。
『可愛いお嬢さん、名前を聞かせておくれよ』
不気味な女だった。腰まである長い黒髪は内側を紫色に染めてあり、伸びた前髪が紫紺の片目をしっかり隠していて、狐のように悪戯っぽい顔つき。すらりと背が高くて、ほっそりした女は片手に細長いパイプを持った。
それがレオンティーナの先代魔女。名をベティ・アガニケと言い、いかにも裕福で何ひとつ困っていなさそうな振舞いが癪に障ったのは強く刻まれた記憶だ。
第一印象は不気味で嫌な性格をしていそうな女。誰もが上に苦しんでいるのに目を向けたりもせず、金も食糧も渡す事なく、ふらふら楽し気に歩いた。
『なあ、お嬢さん。俺と一緒に来ないか?』
薄汚れた自分を晒しものにでもして楽しむつもりだろうかと憎しみを込めた視線を送ってもぴくりともせず、今にも死にそうなレオンティーナのやせ細った骨と皮ばかりの体を小馬鹿にして鼻で笑ってみせた。
ベティにしてみれば、今にも命の灯火を吹き消されそうな獣の最後の抵抗にしか見えない。彼女はそれほど弱っていて、放っておけばよかったのに、気に入ったという理由だけでスラム街から彼女を連れ出した。
『ああ、薄汚いままではいけないな。どれ、見せてみなさい』
手に持った細いパイプでこつんと頭を叩かれると、黒ずんでばりばりに固まっていた髪は美しい本来の銀髪を取り戻した。ぼろぼろの服は自分とお揃いにして、まるで親子のようだった。底の破れて意味を成していない靴も立派な革のブーツになる。そして彼女の周囲を漂った黒い煙がパイプの中へ吸い込まれていった。
『そうかそうか、名前はレオンか。良い名前だ、遠い国では雷を意味するらしいぞ。お前の美しい銀髪も輝けば劣らない。だが、いささか女の子につける名前としては厳ついな。……そうだ、レオンティーナと名乗りなさい』
差し伸べられた手。よく覚えている。温かくて優しい手。今思えば都合が良い生き方をしてきただけの魔女が、都合良く見つけた気に入った相手を救っただけの自己満足だとしてもレオンティーナは構わなかった。
鬱屈した日々。崩れて痛んだ体を引きずるのはもうおしまいだ、と。
「────悪くない時間だった。結局、俺は二十歳そこそこを回った頃にベティから魔導書を受け取った。偶然にも俺が次の魔女に選ばれたから」
それが全ての始まり。出会い、別れ、何度も悲しい思いをした。
『さあ、レオンティーナ。お前は実に幸運だ。そう、とてもね。────俺がお前を救ってやろう。だから一緒に愉しい旅をしようじゃないか』
脳裏に過った、恩人であり誰より最も深い仲をした親友の笑顔。旅を始めてからの全てを覚えているわけではない。たわいない日常があったと記憶しているだけで鮮明ではない。だが、いつの時代の誰よりも大切だった思い出たちが確かに存在した。これから先に語られる事もないだろう記憶が懐かしさを呼び起こす。
たった何十年かを一緒に過ごしただけだ。うら若き姿が年老いていくのを眺めて、いつか立ちあがる事さえできなくなった日にも、共に太陽の下で馬鹿馬鹿しくも酒を呑んで、これが最高の一日の過ごし方だと笑い合った。
『いいか、レオンティーナ。お前はこれから、きっと大変な生き方をしていく事だろう。だけれども、その時間のひとつひとつを大切にしていきなさい。それがお前を心豊かな人間として成長させてくれる。今は分からないかもしれないが、出会いも別れも、不思議と慣れないものでね。だが魔女ってのは良い。誰にも出来ない経験をさせてもらえた。お前も、これから生きていくうちに理解するさ』
何百年も経ってみて、ようやく分かってきた気がした。ベティを見送ったときほどの深い悲しみは未だにないが、それでも寂しいものは寂しい。彼らが生きた証が、放っておけば失われていくのが悲しい。ただ指をくわえてみているのは悔しい。だから彼らの思い出をせめて自分だけは、と縁ある品を収集するようになった。
「レオンティーナは先代の魔女から頂いた名前だったんですね」
「ああ、中々にセンスのある女だと思ったね。すぐに気に入ったよ」
齧り終えたりんごをぽいと投げ捨てて置き去りにしていく。
「古い自分に別れを告げた日は、今でも俺の大切な思い出だ」
フッと笑って手綱を片手に握り、ゆっくり馬車を進ませながら木々の隙間に見える光を差し込ませる空を見上げた。
エルザは彼女の背中に向かって、優しく言葉を掛けた。
「私もすごく気に入ってますよ、エルザ・ローズの名前。もう、昔の自分じゃなくていいんだって思えるんです。レオンのおかげですね」
古い自分に、エルザもまた別れを告げた日を忘れない。たとえ自分が何者であったかを忘れたとしても、魔女との出会いは決して。
その想いに応えてやろう、とレオンティーナも温かな心地に言った。
「そうか、良かった。────お前は実に幸運だ。そう、とてもね」




