第40話「便利な魔法」
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翌朝、リバーフォールには涼やかな風が湿った空気を運んできた。
出発の前から、しとしと雨が降っている。もう一日滞在しようかと悩んだが、港町でいつまでも面倒な仕事を残すのは嫌なので、仕方なく馬の背中に掛ける布をバシリオにもらい、魔法で彼らが冷えたりしないよう体温を一定に保って走ってもらう事にした。たった半日ほどの事だと馬たちの負担に申し訳なく思いながら。
「また来いよ。次はいつ会えそうだ?」
「どうだろうな、今日が最後かもしれない」
冗談めかして言っても、長年にわたって彼女と親交のあるバシリオには、その言葉が嘘偽りないものだと分かって頭をがりがりと掻いて残念そうにした。
「そうか。まあ、そう言うかもしれねえとは思ってたが」
「お前たちは本当によく俺の事を理解してくれる」
手綱を握り締め、そろそろ出発だとバシリオに笑顔を向けて────。
「ありがとう。お前たちに祝福を祈ろう」
「魔女様からの祝福たあ、ありがてえ。余生も安泰だな」
「フッ、そう言えるならそうなるさ。ではまた会おう!」
馬車はリバーフォールを離れ、深い森の中へ進んでいく。整った道を走る馬車が新しい風の中を突っ切って、車輪をがたごと大きく揺らす。
「大丈夫なんでしょうか、雨の日に出てきてしまって」
「なんだ、雨漏りでも心配してるのか?」
「だってこれから雨足が強まりそうに思って……」
もちろん防水に気を遣ってはいる。グスタヴォが安物を掴ませるわけがなく、馬にしても普通よりずっと体格の良い立派な馬を二頭も用意した。とはいえ豪雨になってしまえば、幌馬車といえども雨は厳しくなる。
ならもう一日くらいはリバーフォールにいても良かったのではと思った。元々、レオンティーナも二日ほどの滞在を予定はしていたのだと話すから、のんびりするのも悪くないかもと思い始めたときだった。
「大丈夫だよ。俺がいるんだから雨に濡れる心配はない」
「ヒュプノスの森に入れてもらうんですか?」
「いや、馬車全体に魔法を掛けてある。だから大丈夫なのさ」
毎回、使い魔たちに頼るのも申し訳ない。だから通常よりもずっと長持ちするよう施した。旅の道すがらで馬車が壊れる事もないし、積み荷もいくらか軽くしてあるので馬の負担も少ない。他の行商人や旅行者たちに比べて、ずっと快適な旅になっている。
「魔法って便利なものが多いんですね」
「俺より何代か前の魔女が作ったものが殆どだな」
簡単に火を熾したり、汚れた水を浄化したり、他にも様々な生活に役立つ魔法があるのは、レオンティーナの前よりも、もっと古い魔女による。家庭的で、決まった土地で過ごすのが好きだったと伝え聞き、その人柄について彼女は「歴代の十何人かいる魔女の中で穏やかな性格をした男だったそうだ」と語った。
だからエルザも目を丸くして、意外そうに尋ねた。
「殿方でも魔女って呼ぶ事があるんですか?」
その反応は正しいものだとレオンティーナが笑う。
「その昔、魔女に対する意識が悪いものへと偏った時代があるらしい。俺はそんなときの事など見てきたわけでもないから知らないが、邪悪な存在だとして信仰にハマった国で教会の人間共が主導したんだとか」
「そんな時代が……。でも、本物の魔女は生き残っていた……?」
うん、とひとつ静かに頷きが返った。
「当時の教会は今とは違う権力の象徴でもあった。皇帝にまで口添えする力があったのだから。そうやって始まった弾圧は、結局のところ教会の懐事情を温かくするための利権が絡んだものだったんだと。その後十年も経たないうちに内部事情を暴露する者が現れて収束したそうだが、最終的には何百人と犠牲になった」
無辜の民が、互いを魔女だと主張する罵り合い。見るに堪えない残酷な処刑。鬱屈した淀んだ空気の中を、僅かな隙間を奪い合って生きる人々。魔女でない事を証明するために他人を魔女に仕立て上げるようなうんざりする時代。
「────だから当時は男女の区分なく『魔女』と呼んでいた。別におかしい事とは思わないが、時代が進むにつれて呼び方への意識が戻ったみたいだな。ちなみに魔導書が男を選んだのも、その時代が最初で最後だった。魔導書に料理のレシピなんかも挟んであったそうで、生き抜くための術だったのか、ただの家庭的で物腰柔らかな性格の男だったのか……」
時代の背景からしても生きにくい。教会に土地も権利も根こそぎ奪われていった人々の中で、自分が魔女である事を隠しながら生きてきた男が、どのようにして過ごしてきたのか。真相はともかくとして、その中で後世にも役立つ魔法がいくつも創り出された事は間違いない。
「なんにしても優秀な魔女だったみたいだ。最初の魔女を除けば、おそらく一番多くの魔法を創り出したんじゃないか? そして俺は最も少ないと言える。なにしろ揃っていてほしいものが揃っていたし、考えるのも億劫だった」
わざわざ新たな魔法を考える時間があるのなら、自分の好き勝手に生きて過ごす方が気分が良い。わずかではあるが強欲と怠惰の混ざった感性を持っていて、次の魔女探しについてもいささか消極的だった。
なのに、なぜ魔導書に選ばれたのかが本人には今でも不思議な事だ。
「レオンはどう過ごしてきたんですか?」
「なんだ、俺が生きた数百年が気になるのか」
指をくいっと動かすと、荷台にあった大きな麻袋の口が開いて中に入っていたリンゴがふわっと浮き上がり、レオンティーナの手の中に飛び込んだ。
彼女はひと口、しゃりっと齧って────。
「たっぷり時間もあるわけだから、俺が生まれ落ちてから魔女になるまでの話を聞かせてあげよう。少しの暇潰しになればいいんだが」




