第39話「少々の刺激があっても」
いつかは別れ、思い出はそこで途切れてしまうかもしれない。だとしてもレオンティーナは紡いでいく。多くの人々との出会いの遺物を、いつまでも。
誰かの大切な思い出であり、彼女自身の大切な思い出でもあったから。
「ではゆっくり散歩しながら宿に戻ろう」
紹介をしていくほど村人はあまりいないので、結局はたわいない話をしながら、畑や田んぼを眺めながら歩き、虫の鳴き声や道を横切るカエルに驚いたりするエルザを見てレオンティーナが笑ったりして、緩やかに時間は過ぎていった。
日が落ち始めようかと言う頃に宿に戻ってくると、バシリオが「やっと戻って来たか」と面倒くさそうなため息を吐いた。
宿の中の気配が違うのにレオンティーナが気付く。
「エルザ、先に部屋にあがっていなさい」
「え……。あ、はい。待ってますね」
雰囲気が違うので、エルザはそれ以上無理に聞かず大人しく従って二階へあがっていった。バシリオが嫌な顔をするときは、決まってレオンティーナにとっても厄介な話である事がほとんどだ。
「何があった?」
近くにあった椅子を引っ張って腰掛け、バシリオに尋ねた。
「厳つい騎士様が来てよ。ここに魔女は来ていないかって聞いてきて、出て行っちまったって答えておいたぜ。そしたらあの野郎、港町まで行くんだとさ。……気を付けた方がいいと思うんだが」
呆れて物も言えない。忠告をしたにも関わらず、まだ嗅ぎまわっているのだとレオンティーナは久しぶりに心底から不愉快な気分にさせられた。
「……ニコライ」
すうっと影の中から這い出てくるように狼が静かに歩んだ。
バシリオは驚かない。彼女がかつてカムイを呼び出したときと同じだと思って、然して気にも留めずに食器を拭きながら黙って耳を傾ける事にした。
『かみ殺しておいてやるべきだったか』
物騒な物言いにレオンティーナがくすっと笑った。
「そう急くな。たまにいるんだよ、俺の魔法をものともしない手合いが。……おそらくは執着心が強いんだろう」
『執着心……?』
ニコライが不思議そうに、彼女の前に座って見上げた。
「そうだ。お前たちにとってどうかは知らんが、人間の執着は感情に由来する特別強いものでね。その強い感情の矛先に対しての記憶が殆ど薄れない。俺の魔法が利きにくいんだよ、そういう奴は。厄介のが、矛先になっているのがエリザベト・バルデューベルという人間であり、奴は嗅覚も鋭いからエルザがそうではないかと疑って掛っているんだろう。面倒な事この上ない」
であれば殺すべきでは、とニコライがぐるると唸った。だが彼女に、それを理解した上で「俺の性格をお前ならばよく知っているはずだ」と諫められると仕方なく諦めてぺたんと床に寝そべった。
『お前が言うなら殺さない。だが本当に良いのか、あれは……』
彼女はそう言われてもやはり首を横に振って拒絶する。
「エルザが嫌な思いをしてしまう可能性もある。契約はあくまで彼女の心と身体を救う事。自由を謳歌できるようにしてやらねばならない。俺が恐怖を刻みつけるなんて最もあってはならない行いだ。そう思わないか?」
ニコライには否定できないし、考えもつかない。人間が感情に支配され、簡単に左右される事が不思議でならなかった。本能的に生きる方がよほど楽だろうと思ったが、レオンティーナの言葉を疑ったりはしない。
『だが、それならどうする? 奴は港町に向かった。おそらくそこの爺さんの言葉だって信じていない。待ち伏せて、お前たちが辿り着くのを待つつもりだ。公爵も飼いきれない猛犬に呆れていたが、今は都合が良いと知らんふりをしてる』
既に単独行動と言ってもいい。つきまとうコルネリウスを制御するつもりが公爵にはない。『指導はしたつもりだ』とでも言い張るのは目に見えている。地位を確立している彼が、わざわざ魔女と深い関係を持つ理由はないのだ。
そもそもからして仲が悪い。どちらからともなく避けながら、顔を合わせれば遠回しに嫌味を言う事も多かった。今回もそうして雇った騎士だという理由だけで、コルネリウスを自分の身代わりに使い捨てるつもりなのは明らかだった。
公爵家にとって汚点とも言える破談の事実を知るエリザベト・バルデューベルを始末するのに、彼が勝手にやった事だと大義名分を作れるのだから。
「どうせそのうちエルザからも奴らと関わっていた記憶は消えるというのに、自分たちで捨てた本の切れ端如きに血迷って必死になるのは滑稽だな」
今頃はどの程度まで記憶の消失が進んでいるだろうか。エルザはなんとなく予想がついたが、公爵や伯爵はいつか暴露されるのではないかと焦燥感を抱き、コルネリウスほどではないにしろまだそれほど進んでいないのだと推測を立てた。
「もう戻って良いぞ、ニコライ。必要なときはまた呼ばせてもらう」
ニコライは寝るのをやめて、ふらりと影の中に溶けるように姿を消す。
「……なんか大変な事があったみたいだな?」
「人生色々さ、少々の刺激があってもいい」
席を立って服の裾をふわっと翻す。
「今回は痛い目に遭うくらいで済ませてやろうか」




