第3話「一緒に愉しい旅をしよう」
町を目指して歩くのが楽しくなった。水たまりに映った自分をふと見たときの、まったく違う誰かになった事がたまらなく嬉しかった。
ひとつだけ胸に残った不安があるとしたら、どう生きればいいのか。エルザを救うと誓って契約を交わしたレオンティーナの真意は掴めない。
「そういえばレオンティーナ様」
「契約を交わしたら対等だ、レオンと呼んでくれないか?」
「あ、はい……。ではレオン、ひとつ聞いても」
「構わんよ。大体の事はきっと答えてやれるだろう」
「あの、エステルさんはどうして残ったのでしょうか」
「俺が交わした契約だ。十年働いてくれたら邸宅をやると言った」
元々、エステルは貧民街の生まれで、ゴミ箱を漁っていたのを偶然にもレオンティーナに拾われた。『衣食住の全てを用意してやるから俺の傍で働いてみないか。十年耐えられたら俺の邸宅をやろう』という魅力的な提案。貧民街で暮らすよりはずっといい環境。頷くには十分すぎた。
そして、今日がちょうど十年目だった。
「エステルさん、寂しそうに見えましたが……」
まったくだと呆れてくすっとした。
「要らないなら売れば金になると言ってやったが、それもしない。恩があるとかどうとか……。契約の意味が分かっていないのか、俺に情でも湧いたのか」
酒を共に飲んだ最後の夜だけが少し名残惜しくなった。
「良い奴だったがね。旅に連れて行くわけにもいくまい」
「旅……。旅をされるのですね、レオンは」
「そうだとも。気が乗れば百年くらいは同じ場所にいるが」
「ひゃ、百年!? そんなに長生きをされているのですか!?」
驚くのも当然だ。多少自分より歳月を重ねているとしても、外見的に見ればレオンティーナの肉体は二十代半ば、あるいは後半程度にしか思えない。
彼女は可笑しそうにそうだと頷きながら返す。
「魔女の歴史は長い。古くは人間が血生臭い争いを好んだ時代からして、既に我々は名を刻み始めて現在も続く。ゆえに魔女は世界に一人だけなのだ」
何人もいては問題が起きる。権力争いのために、その力を擁立しようと誰もが躍起になる。果ては国々の対立を招く脅威にもなりかねない。だから一人だけ。だから誰の手にも渡らない。魔女だけが選ぶ権利を持った。
手に入らないならば殺してしまえ。そう声高に叫んだ者は、そのうちに始末された。道の傍らで苦しみ悶えたり、あるいは自害をした者もいる。全てが魔女によって行われた狂気的な行いだと言われた事もあった。
しかし、歴代の魔女の誰もが、その狂気に身を堕としていない。殺す事は容易いと世論が傾けば好都合だ。わざわざ自分から動かなくとも、魔女に殺された事にして邪魔者を始末してしまえばいいと暗躍が始まってくれた方が気楽だった。
ただし当代のレオンティーナを除いて。
「……レオンは殺した事がありますか?」
「ないよ。殺しても構わないとは思っているがね」
おそるおそる尋ねた答えは、あっさり返って来た。
「俺はただ殺さないだけ。ひと言でもその口から俺を心底不愉快にさせるような事があれば首を捩じ切ってやってもいい。ただ、俺を恐れるヤツしかいないから手を下すまでもない話だ。お前もそうなったら……くくっ、みなまで言うまい」
脅かすつもりが、思っていたよりも顔を青ざめさせてしまったエルザに、少しだけ申し訳なさそうに指で頬を掻く。
「そこまで怖がるとは思わなかった、悪い」
「いっ、いえ……! すみません、臆病なだけで……」
慌てて取り繕うと、レオンティーナは彼女がそうやって他人の意見に流されて生きて来たのだろうと察して、なおさらに申し訳ない気分になった。
「随分と伯爵家でも肩身の狭い思いを?」
「それは……ええ、愛されていませんでしたから」
伯爵家で虐められていたのは事実。愛する、愛されるといった言葉とは縁遠い。そもそもからして長女であったエルザは何をしても妹に劣った。だからか、いつも馬鹿にされた。両親からも疎まれた。最後に褒められた記憶は縁談が決まったとき。だが、結局のところは彼女を褒めたのではない。公爵令息ならば申し分ない、やっと無能な娘を手放せると喜んでいた。
頭では理解していても、そのときはエルザもホッとしたし、嬉しかった。両親が喜んでいれば自分はぶたれずに済むし、侍女たちも決して悪事を働かないだろう。公爵家に嫁ぎさえすれば、と。その場所さえ妹に奪われるまでは。
「まあ、貴族連中のごたごたには正直言って興味はないが……。とにかく今は町を目指そう。実を言うと、ちょっとした仕事も受けていてね」
「仕事……? 魔女に仕事を頼む方がいらっしゃるのですね」
ふふんとレオンティーナが得意げな顔をする。
「魔女は昔から貴族との繋がりが強い。といっても必要以上に関わったりはしないんだが、金の工面には都合が良いんだ。良い小銭稼ぎになる」
心配そうな雰囲気を感じ取り、エルザの背中をバシッと叩く。
「信じろ、エルザ。俺が誰だか分かっていて余計な手出しをしてくるヤツがいるのなら、それこそ本当に殺してでも守ってやろう」
物騒な物言いではあるが、自信に満ちた瞳と声に安心させられた。
「ありがとうございます、レオン」
「ああ、いいとも。一緒に愉しい旅をしようじゃないか」