第28話「祝福であり呪い」
ヒュプノスの森には天候がない。いや、いくらか語弊がある。使い魔たちの都合で左右されるので、晴れ以外が基本的に訪れない。
果物はいつでも木に成っていて、魚が食べたければ川へ行く。生憎ながら肉を得る事はなかったが、それでも彼らは十分に楽しんで生きている。
実際の所、食べる必要性はなかった。魔導書の中に棲む彼らは魔法そのものであり、魔女が存在する限りは永遠の命を持つ。火を熾すのも、食事をするのも、何もかもが彼らにとっては道楽に過ぎない。毎日がお祭り騒ぎで、ときどき喧嘩はするものの基本的には仲が良い。下らない話をして、下らない遊びをして、魔女の求めに応えるかどうかを判断する。そうして何百年、何千年と過ごしてきた。
ボブが踊ってステフが騒ぐ。身体を砂だらけにしてはしゃぎまわり、ベニータを背に乗せて一緒に大きな声で歌う。年寄りのアダンたちはそれを聞きながら静かに焚火にあたるだけだ。
ふとアダンがエルザの横に座った。
『お嬢さん。君の名前を聞いてもよろしいかな?』
紳士的な鹿だな、とエルザは林檎を齧りながら。
「エルザです。エルザ・ローズ。レオンから頂いた名です」
少し得意げに言うとアダンは鼻を鳴らして可笑しそうに言った。
『あの魔女が他人に名前を与えるとは、使い魔でもあるまいに稀有な事もあろうものだ。……良かったね、お嬢さん。君は幸せになれる』
エルザが不思議そうにする。
「幸せになれる……魔女に名前をもらうと?」
そうだ、とアダンが首を縦に振った。
『魔女が他人に名前を与えるのは、未来を約束する証のようなものだ。契約書を交わした上で名前を与えられただろう? そして彼女は、その名前にどう意味を込めたか、君に伝えたはずだよ』
そう言われてみればとレオンティーナの言葉を思い出す。
『俺からの贈り物だ。潜り抜けた荊の先で、お前は美しく咲き誇る薔薇のような人生をこれから過ごす。そういう意味を込めて』
確かに彼女はそう言った。
『お嬢さんは偶然にも、何者かであるのを隠す必要があったようだね。ああ、言わなくてもいい。使い魔は目を見た相手の事はいくらか分かるんだ。随分と苦労をしてきたようだが、もう大丈夫』
動物たちと語らって笑い合うレオンティーナを丸い瞳がじっと見た。
『魔女の贈り物は祝福にもなり、呪いにもなる。特に名前を与えられたのならば、その効力は契約を交わすよりも強いものだ』
「強いもの、ですか。祝福でもあり呪いでもあるというのは?」
特段これといって変化があったようには思えず、むしろ体調は良いくらいだ。レオンティーナの邸宅に駆け込んだとき以上の疲れを感じた事はない。
『君は自分の名前がエルザ・ローズだと言う。本来の名前は何かな?』
「それはもちろん……あれ、なんだっけ……?」
中々思い出せない。薄いカーテンの向こう側にあるものが何かを当てるような、シルエットだけが分かっている状態。動揺がないと言えば嘘になる。本来の名前を忘れるなど、とても考えられなかった。
『ほら、思い出せないだろう。それが祝福であり、呪いでもあるモノの正体。君自身だけじゃない。周りの人間全てが忘れていく。本来あった君の〝エリザベト・バルデューベル〟という名の人物は消えるんだよ、エルザ』
薄れていく記憶。今聞かされた本来の名でさえ、自分の名前だっただろうかと疑問を抱いてしまう。徐々に、徐々に、エリザベトが消えている。
『いつか名前だけでなく存在そのものが認識されなくなる。誰もが何かを忘れている事さえ忘れる。きっと君も同じだ。例外なのは魔女であるレオンティーナ、そして我々使い魔だけ。だが君にとっては都合が良いだろう?』
それはそうだ、とエルザは頷いた。いまさら過去の名前を憶えていたところで、これから先を生きるのに名乗る事はない。伯爵家の名を捨てて、魔女の旅に同行するエルザ・ローズで構わないのだ。
いつかはすべてのエリザベトを知る人間が彼女を他人にする。公爵家も伯爵家も、大勢いた従者たちやお茶会を何度か共にした令嬢たちも、そんな人物がいたかどうかを考える事もなく当たり前の日常を過ごす。
代わりにエルザ・ローズが世界の中にぽつりと小さく根付く。ただの庶民として、魔女の仲間として。それは彼女にとって、とても幸せな事だった。
「そうなったら、もう誰も私の事は気にしなくなるんですね。だとしたらきっと、今以上に自由な気持ちになれるんじゃないかって思います。顔を合わせても何も怖くないんだって。ずっと捨てたかった名前を捨てて生きられるなんて」
レオンティーナの陰に隠れて怯えてばかりは、いくら彼女が平気だといっても自分が納得できなかった。いつか必ず完全に克服すべき問題だと思っていたが、それを時が解決してくれる日がやってくる。待ち遠しい気持ちになった。
『うむ、そうだな。だが、エルザ・ローズとして生きたいのであればひとつだけ私から忠告をしておいてあげよう。────決して面と向かって誰かに本来の名を呼ばれてはいけないよ。それが全てを解き放ってしまう言葉になるから』




