第26話「ヒュプノスの森」
商館を出発して馬車はランロットの町を颯爽と駆け抜けた。ガラゴロガラゴロと車輪がどこまでも続く石畳の上を軽快に転がって、馬も愉しそうに走った。流れて遠ざかっていく景色を見ながらエルザも嬉しそうだ。
「すごいです、レオン! 町の景色がどんどん変わります!」
「フッ、見慣れたものじゃないのか?」
「ええ。でも、違うんです。私が見てきたものとは、全然!」
どこへ行っても嫌な気分だった日々がある。馬車に乗って景色を見ながら誤魔化していただけで、実際に映っていたのは灰色の世界。美しいと一度でも思った事はなかった。今はどうだろうか、と風に靡く髪を指で押さえて────。
「塞ぎ込まなければならなかった私とは、もうお別れなんだなって。なんだか、すごく嬉しいんです。胸がすくというか、もう誰も私を縛り付けないんだって。……ねえレオン、私、こんなふうに幸せなってもいいんですか?」
確かな幸福感。今にも泣きだしそうなのに、表情は笑んでいた。
「いいんだよ。これからは自由気侭で、お前らしく生きていけばいい。俺がそうしてきたように。好きな時に酒を呑み、好きな時に飯を喰らい、好きな時に寝て、好きな時に起きればいい。その全てが俺たちには許されている」
これからは誰にも縛られない。たとえ皇帝であろうと魔女と従者の道を阻む事は許されず、楯突くのであれば押し通る。それが出来るのが魔女なのだ。
辛く苦しい毎日を生きてきたエルザが、やっとこれから人生を取り戻していくのだから、レオンティーナも契約した以上は絶対に手出しはさせないつもりでいる。たとえ誰の邪魔が入ったとしても。
「綺麗ですね。この流れていく景色が、私を変える第一歩なんだ……」
「良い感覚だ。俺の旅も退屈しなさそうで気分が良い」
気付けばあっという間にランロットの町ともお別れの時がきた。門を抜けて草原を走り、遠く離れていく町の姿にまだ名残惜しさを感じつつ、エルザは自分の新たな人生の第一歩が踏み出された事に胸を躍らせた。
これからの旅路が、どう彼女に影響するのか。それは本人にさえ分からない。ただひとつハッキリしているのは、少なくとも今は良い方向へ舵を切っているという事。流す涙も、辛さではなく嬉しさで満ちた温かいものだ。
彼女は『これを天の恵みと言ったら、きっと違うと言うんでしょうね』と、魔女の恩恵に与りながら思う。魔女は信徒たちとは相容れない。神殿に踏み入るのを許されない。だから忌避する者もいるが、エルザ・ローズにとっては救いの神だと言っても過言ではなかった。
「次はリバーフォールという小さな村に行くんですよね」
「ああ、俺の顔馴染みがいる。随分と歳を食ってはいるが」
もうどれくらい足を運んでいないだろう。まだ生きているなんて保証もないが、しかしなんとなく、まだ元気にしているに違いないと思えた。
「宿泊費は需要もあるから少し高いんだが、自然を満喫できる。暮らすには向いてないが、泊るには良い環境だ。お前もきっと気に入るはずさ」
村よりは集落に近い。多く暮らしていないので、そのうち誰もいなくなってしまいそうに見えるが、定期的に顔ぶれが入れ替わっている。田舎に戻って来て暮らす者、土地を買って移住してくる者。町からそう離れていないからか、それほど生活にも困っていない。ときどき、飼っている馬を狙って熊や狼が現れるくらいだ。
「なんだか楽しみです。レオンもしばらくは邸宅にいたから、数年ぶりくらいにはなるんですよね?」
「ランロットよりも長く足を運んでない。元気にしてるといいが」
十年一昔。最後に会ったのはいつだったかと首を傾げる。
ふと見上げた空模様に、過去を振り返るのを一旦やめた。
「なんだ、急に天気が悪くなってきたな」
「本当ですね……。今にも降り出しそうです」
直後、御者台に座っていたレオンティーナの鼻先にぽつりと水滴が落ちた。まだ本降りになるまでは掛かりそうだが、考えているよりずっと早いだろうと道から逸れて、草原の中に馬車を停めた。
「やれやれ。まだ後にしようと思っていたのに、雨の中を馬に走らせるのは好きじゃないんだ。早すぎるくらいではあるんだが、ここはひとつ────」
黒い煙がふわっと舞って、手の中に魔導書を掴む。
「どれ、頁はどこだったかな」
ぱらぱらとめくり、一枚の紋様が描かれた頁を開く。ひょこひょことやってきたエルザが覗き込んで「これはなんですか?」と尋ねた。
円の中に規則正しく線が重なり合った紋様にレオンティーナが触れる。
「これは入り口だよ」
「……入り口?」
「そう。特別な場所への入り口さ」
ぽっ、と紋様が青白く輝く。
「これは魔女ではなく、使い魔たちが描いたと言われている。詳しい事は歴代の魔女を振り返って、少なくとも俺より二代前も知らなかったそうだ」
覗いていたエルザの頬に手を触れる。
「さあ、目を瞑ってみなさい。俺が良いと言うまで目を開けてはいけないよ。慣れていないと酔ってしまうから」
言われたとおりに目を瞑る。全身を包む奇妙な浮遊感があり、程なくして治まってきたら「もう大丈夫」と言われて、ゆっくり目を開いてみる。
思わず唖然としてしまった。目の前に広がっていたのは草原などではなく、深い森の中。月明かりの差し込む真夜中のように暗く、既にできあがった焚火の近くで、様々な動物たちが彼女たちを出迎えた。
「驚いたかな? ここが使い魔たちの棲み処。────ヒュプノスの森と言う」




