第2話「嵐は去った」
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雨が上がった朝、エリザベトは窓辺に座って外の景色を眺めた。木々に囲まれた道を進んだ先にある隠された邸宅。レオンティーナ・ハウス。噂にしか聞かない魔女の暮らす家に、知らず知らずに上がり込んだ事が悩ましかった。
身分をきれいさっぱり捨てられず騎士たちに追われ、今頃は見つけ次第に殺すよう命が下り、ありもしない罪まで被せられているに違いないと思うと胸が痛む。これからどう生きていけばいいのか。
────その想いから解放されるために魔女と契約をするだなんて。
「ごきげんよう、エリザベト。気分の優れなさそうな顔だ」
「……レオンティーナ様」
見目麗しいレオンティーナの凛々しさ溢れる雰囲気。片手にコーヒーカップを持ち、いかにも貴婦人か、あるいは富裕層を感じさせる慎ましさの中に妖しさが垣間見えるの少しだけ恐ろしい印象を与えた。
「せっかく契約を交わしたのだから、もっと砕けた言葉遣いでも構わんぞ。魔女だからといっても所詮は周りが勝手に騒ぐばかりの話でね」
「そんな失礼な事できません。助けてもらっておいて……」
とても朝の目覚めが台無しだとでも言わんばかりに睨まれて、エリザベトは臆病に押し黙ってしまう。
「そんなに怖がるなよ、別に嫌だったわけじゃない。お前のその遠慮がちな性格を哀れんだだけだ。どこの誰がそんなふうに封をしたのやら。……おっと、考えるまでもなかったか。下らない事を言ったな?」
コーヒーを飲みながら鼻で笑った。貴族に対する嫌味など恐れ多くて誰でも口にできるものではない。彼女はそれをさも当たり前のように小馬鹿にする。
魔女だから? ただそういうわけではない雰囲気があった。
「ところで、いつまでも寝ぼけてないで支度をしておけよ」
「支度って……。私の服はこれしかないのです」
「うん? それならクローゼットに服があるだろ」
「か、勝手に人の服を着るのは良くないかと思って……」
「はあ……そうか、であれば許可するから着替えるといい」
同時にエステルが入って来て「手伝ってやれ」と言われて頷く。レオンティーナの邸宅で働く、たった一人の侍女。慎ましやかで大人しそうな雰囲気だが、瞳に感じられる強さがレオンティーナの雇う理由なのだろうと感じられる。
「では身支度を済ませたら近くの町まで出よう。俺は外で待っている。時間は十分すぎるほどあるから焦らず、ゆっくりで構わないよ」
そう言って部屋を出た後、鏡の前でエステルに髪を梳かれたり、新しい服に着替えさせられる。白いフリルブラウスにサスペンダーで吊った濃い青のスカート。目立たないように被るよう渡されたスカートと同じ色のベレー。まだ冷えるからと防寒着に白い毛皮のコートを着させた。
落ち着いた雰囲気はエリザベトによく似合った。
「……エステルさん。あの方は怖い魔女ではないのですか?」
「まさか。とてもお優しい方ですよ、基本的には」
「基本的にはって……?」
「敵対者にとても厳しい方なのです。誰しもがそうだとは思いますが」
言っている意味は分かる。ただ、どう厳しいのかをエステルは言わなかった。身支度が終えて送り出されるときに「一緒にいれば分かります」と優しく声を掛けて微笑んだ。きっと大丈夫だと言うように。
「うむ、まあ無難だが悪くない見た目だな」
「ありがとうございます」
レオンティーナは黒革のコートに、首から山羊の頭骨を模った銀細工を提げている。少し冷えるからと手に持っていた毛皮のマフラーを巻く。
「行こうか。少し歩くが、二時間もすれば町に着く」
「はい。き、今日からよろしくお願いします」
木々の並ぶ道を通って緩やかな坂を下っていけば、森の中に出た。車輪や馬の足跡が残っていて、エリザベトは無意識に嫌悪と恐怖に身を小さく縮こまらせた。
「おお、そうだな。昨晩の嵐はひどいものだった」
すっと伸ばされた手が自分の髪に触れて、エリザベトはどきっとする。直後、振れられた髪の美しい金色が濃い紅色に染まっていく。
「悪くない。しかし、まだ気付かれるか。髪も短くしよう」
するすると引っ込むように髪が短くなり、ふわっとした温かみのある雰囲気を持った。今なら誰も彼女が伯爵家令嬢であったとは思わない。
「これ……魔法を使ったんですか?」
「そうだとも、簡単なものだがね。ああ、それともうひとつサービス」
彼女の顔に向かってパチッと指を鳴らす。綺麗な顔に、ほんのアクセントとして仄かなそばかすが現れた。「これは少しの間だけ」と、そう言った。
意味が分からず、なぜ少しの間だけなのかを尋ねると、彼女はその時が来れば分かるだろうと口にしなかった。
「さ、改めて出発だ。もう何も怖い事はない。そうだ、それから名前も変えよう。これからはエリザベト・バルデューベルとは名乗れんだろう?」
うーん、と顎に手を添えながら考えて────。
「ではエルザ。今日からお前はエルザ・ローズ」
「ローズ、ですか?」
不思議そうに、なぜだろうと首を傾げた。
「ああ、俺からの贈り物だ。潜り抜けた荊の先で、お前は美しく咲き誇る薔薇のような人生をこれから過ごす。そういう意味を込めて。如何かな?」
悪戯っぽいような、優しく温かいような、出会ったばかりの彼女にはよく分からない。どちらとも取れる笑みが、どこか胸にすとんと落ちた。
「はい、とても嬉しいです」