第1話「白銀の魔女」
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか!」
降りしきる雨の中、都への道沿いにある小さな邸宅の扉が叩かれる。カンテラ片手にローブを纏って必死に助けを求める女性の声に応じて、玄関を開いて顔を覗かせた者がいる。邸宅で働く侍女が、不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか、こんな夜更けに」
「ああ、良かった。少しの間だけ匿って頂けませんか」
侍女は困った様子で周囲をきょろきょろする。
「どうしましょう、私の判断だけではお招きは致しかねます」
「そこをどうか。少しでよろしいのです」
時間がないと焦る女性の声を聞きつけ、邸宅の主人と思しき声が響く。
「構わん、入れてあげなさい。こんな夜更けだし、外は雨もひどくなってきた。追い返すのも酷であろうから雨宿りくらいは許そう」
バスローブ一枚に本を持つ女性の姿。腰まである長い銀髪に金の瞳が、ずぶ濡れの女性を見てニヤリと笑う。
「ただし、ひと晩だけ。嵐が過ぎれば構わんのだろう」
「は、はい……! 慈悲に感謝致します……!」
許可もあって侍女が中に入れると、邸宅の主人である女性が腰ひもを解いてバスローブを脱ぐ。しかし、気付けばどうか。まるで神官もかくやの美しい衣服に身を包みながら、その首には山羊の頭骨を模った小さい銀の首飾りがある。
訪ねた女性は知っている。伝え聞いた事がある。『山羊の首飾りをした者に気を付けなさい。それは決して触れてはならない魔女だから』。
しかし藁をも縋る思いだった。今、ここでひと晩をやり過ごす厚意を与えてくれたのであれば、この瞬間だけは信じさせてもらいたい、と。
「どうやら連なって嵐が来たな。エステル、彼女を連れて二階へあがったら何か温まるものを用意してあげなさい。風邪を引かせては可哀想だ」
「はい。承知いたしました、レオンティーナ様」
ひとまず避難。否、ただのもてなしだ。侍女のエステルを二階にあがらせた後、彼女は玄関を開けて外へ出た。邸宅の玄関に伸びた小さな屋根が雨を凌ぎ、女性以外の来客をそこで待った。
程なく泥を踏む柔らかい音が聞こえる。
「そこなるはこの邸宅の者か! ひとつお聞かせ願いたい!」
「……構わんよ。何が聞きたいんだね」
「ここへ尋ね人がなかったか。布をローブの代わりに纏った娘だ」
「ああ、来たとも。俺の読書の邪魔をした年頃の娘だろ」
数名の騎士隊の制服に身を包んだ男たちが誰ぞの寄越した騎士であると、レオンティーナはひと目で見抜く。彼らが娘の引き渡しを求めると彼女はそれを突っぱねた。
「逢瀬のひと時を邪魔してくれるな。ただでさえ夜更け、月も見えん今宵に部屋で灯りを灯して酒と読書を嗜むくらいしかないのに」
「あれが誰か分からんと見える。今ならば手荒な真似はしない」
騎士たちを束ねるであろう一層立派な制服の男に問われても、レオンティーナは臆するどころか、余裕さえ見せて片手に誰も分からぬ間に分厚い装丁をした黒革の本を持って広げた。雨が、その瞬間にぴたりと止んだ。
「手荒な真似をするとかしないとか……。お前たちは随分と俺の事を知らんようだ。まあ、こんな辺鄙な場所に隠居して久しいから仕方ないが」
刹那。本が一瞬、紫紺に輝いた。騎士たちが何かを仕掛けてくると思い、剣に手を掛けたときにはもう遅い。彼らは完全に意識を削がれ、なおも対する意志は失わず、そのままの姿勢で気を失っていた。
「さて、このレオンティーナ・ウィザーマンの邸宅で粗相を働いた連中には些か腹も立とうものであるが、明日には此処を出る予定でな。今日だけはお前たちにも慈悲の心とやらで送り出してやるとしよう」
気を失ったままの彼らは、レオンティーナが本を閉じた途端に踵を返す。操り人形にでもなったように、隊列を崩さず帰っていく姿を見送ってけらけら笑う。
「明日には全部忘れるさ。私に関わるとロクな事が起きないらしいが、お前たちは運が良い。真実とはいつもくすんだ鏡の向こう側にあるのだから」
ひと仕事を終えて魔導書をパッと手放すと黒い煙になって消えた。
邸宅の中は静まり返り、レオンティーナの靴音だけが響く。二階の応接室の灯りにひょいっと顔を覗かせれば、濡れたタオルを首に掛けながら、出されたココアを飲んでひと息ついている金髪の女性の姿があった。
「やあ。どうやら嵐は去ったようだけど、雨はまだ降り続いているから安心したまえ。エステル、彼女に部屋を用意しておくように」
「承知いたしました。では失礼致します」
粛々と仕事に取り掛かるエステルの肩をぽんと叩く。
「疲れるのも明日までだ、よろしく頼むよ」
扉を閉める際、エステルは振り返って柔らかく微笑みながら。
「寂しくなります。まだまだお傍で仕えたかったのですが」
「十分仕えてくれたとも。さ、俺は少し彼女と話をさせてもらうよ」
「はい。ではごゆっくりどうぞ。後でコーヒーをお持ちします」
「いや、今夜はぶどう酒がいいな。お前の分もグラスを用意しておけ」
「……承知致しました。それでは後ほど」
ぱたんと静かに扉が閉じられる。ようやく落ち着いたかとレオンティーナが女性の対面に座った。ずぶ濡れの鎖骨まである髪は、タオルで幾分か滴る水を拭きとっていくらかマシだ。ココアを飲んだおかげか、精神的にも安定していた。
「少しは気分が優れたか?」
「はい、魔女様……。おかげで助かりました」
「俺が魔女だと知っているのか、面白い」
ふんぞり返ってソファに腰掛け、足を組んで彼女は笑う。
「まあ、俺の事はどうでもいい。お前の事情を聞かせてもらおう。あれは公爵家が私的に雇っている騎士たちだな? 肩に刻んであった紋章が珍しいもので、すぐに分かったよ。あんなのに追いかけられるとは、まさか大罪でも?」
女性は慌てて手を横に振って否定する。
「ちっ、違います……! 私はどちらかといえば、公爵家と縁があったというか。どうにかして屋敷から逃げ出したのですが、道に迷ってしまったのです」
「ほお、それは愉快な話だな。さては伯爵家に嫌気でも差したか」
クックッ、と小馬鹿にしながらパチンと指を鳴らす。
女性がドキッとしたが、次には自分の体がぽかぽかと温まって、ずぶ濡れだった髪がすっかり乾いているのに気付く。
「俺は魔女だ。本来ならば契約のひとつでも交わすものだが、そのくらいはサービスとして受け取るといい。それで、伯爵家の令嬢は何故に家出をしたのか聞かせてもらおうか。ちょうど読書も終えたところだったんだ」
女性はおずおずとココアに口をつけながら話を始めた。
「私はその……えっと……自己紹介からが当然ですよね。エリザベト・バルデューベル。バルデューベル家の長女で……嫌われてたんです」
「アッハッハッハ! つまりあれだ、お前は無能だったと!」
遠慮なく言われて胸が締め付けられるが、逃げ果せたのだから今は何も言うまいと悲しさを胸中に隠す。
無能だと言われれば、それは間違いではない。伯爵家でも何かと妹が贔屓され、裕福な家庭に育ちながら名前を持つだけで、結婚するはずであった公爵家の子息からも婚約破棄を受けてしまった。
新たな相手が妹であった事を知り、なんとも言えぬ悔しさと苦しさから、こんな人生を捨ててやり直してやろうと思った矢先に公爵家の屋敷に囚われた。無能な人間は追い詰められれば何をするか分からないからと先んじて捕らえられ、時期を見て始末しようと話を聞き、なんとか隙を見て死に物狂いで逃げ出したのだ。
その先で辿り着いたのが白銀の魔女と呼ばれるウィザーマンの邸宅だった。
「────と、それが私の状況の全てです」
「実に愉快な話だ。聞けて良かったが……残念だな」
はあ、とため息をついて顔を手で覆う。しかし、直後に我慢していた笑いが溢れてしまう。ああ可笑しい。なんて下らないんだ、と。
「あー、本当に。ひと晩で帰して縁が切れるのは実に残念だ。……ああ、しかしどうだろう。それほど辛くやり直してみたいというのなら」
テーブルに一枚の羊皮紙とインクの入れ物に刺さった羽根ペンが差し出される。いつの間にそんなものが用意されたのだろうかとエリザベトが驚く。
その表情を面白がりながら、レオンティーナは言った。
「────契約しよう、エリザベト。俺がお前を救ってやろう」