死んだ姉の名を騙り婚約者となった令嬢が婚約破棄を告げられることになるお話
「お待ちしておりました、クォンフロート王子」
「久しぶりだね、アンテロジア」
貴族たちが通う学園の正門前。今日は普段とも異なるきらびやかな光景が広がっていた。
豪奢な馬車から降り立ったのは、ここゴルディレオ王国の第二王子クォンフロート・ゴルディレオ。
きらめくような金の髪に、透き通るような碧の瞳。その身体は細い。しかし気品ある凛とした佇まいは、そうした印象を打ち消すだけの芯の強さを感じさせた。
出迎えるのは、彼の婚約者アンテロジア・サウマタージ伯爵令嬢。
光に溶けるような黄金色の髪に蒼の瞳。明るい笑顔は大輪の花のようであり、落ち着いた佇まいは高貴さを感じさせた。王族の婚約者にふさわしい美しい令嬢だった。
クォンフロートは一歩を踏み出す。その動きには緊張が感じられた。彼は5年もの間、病床に臥せっていた。その後の療養に一年も費やした。学園に登校するのは今日が初めてなのである。
アンテロジアがその手をとると、クォンフロートは照れたように苦笑した。
「こんなに多くの者たちが集まる場所に来るのは久しぶりだ。」
「すぐに慣れますわ」
アンテロジアは笑顔を見せた。太陽のように明るい笑顔だった。
「君が変わっていないようで安心した」
「……それはよかったです」
アンテロジアは安心したように嘆息した。
明るい笑顔。それなのに、その笑みの中にはどこか陰がある。
彼女の本当の名前はペーネティス・サウマタージ。
死去した姉、アンテロジア・サウマタージの名を騙り、王子を出迎えているのである。
サウマタージ伯爵家には二人の娘がいた。
姉の名はアンテロジア。明るくて人当たりが良く、誰にでも笑いかけるような少女だった。魔力が高く、幼い頃から魔法の扱いに長けていた。勉学においても優れた少女だった。
妹の名はペーネティス。控え目で内向的で、人との触れ合いを避けがちな少女だった。魔力は高くその扱いもうまかったが、姉には一歩劣る力量だった。成績も並程度。姉より一つ年下の少女だった。
おそろいの金の髪と蒼い瞳。姿かたちは似ていても、その在り方は太陽と月のように異なる姉妹だった。
両親は優秀なアンテロジアの方に期待をかけていた。控え目なペーネティスは、姉の陰に隠れるようにしており、彼女自身もその立場を受け入れていた。ペーネティスは、出来のいい姉のことが大好きだったのだ。
姉のアンテロジアには婚約者がいた。ゴルディレオ王国の第二王子クォンフロート・ゴルディレオ。
利発で凛とした王子は、この太陽と月のような二人の姉妹とすぐに仲良しとなった。親しい幼馴染として過ごしてきた。
しかしその交流も絶えてしまう。クォンフロートが10歳になったころ、重い病を患ったのだ。
面会謝絶となり、会うことすら叶わなくなった。
それでも姉のアンテロジアは、クォンフロートに手紙を送り、交流を続けていた。
クォンフロートが病床に臥してから5年後。ようやく病気が治り始めたころ。
姉のアンテロジアは、命を落としてしまった。
サウマタージ伯爵家としては、王家とのつながりを失うわけにはいかなかった。
そこで、公式には妹であるペーネティスが死んだこととした。ペーネティスは自らの名を捨てて、アンテロジアの名で生きることとなったのだ。
王子が入学するより一年早く、ペーネティスは学園に入学した。姉アンテロジアに見えるように着飾り、彼女の仕草をまねることに注力した。特に、姉アンテロジアがいつも見せていた明るい笑顔を、毎朝毎晩練習した。
そうは言っても姉と妹は違う人間だ。違和感を覚えた者もいたかもしれない。だが、王家とつながりを持つ伯爵家の娘に、正面切って疑いを向ける者などいなかった。そもそも、貴族の世界において、死んだ人間を親族が騙ることは、そう珍しいことではなかった。
そうして準備を整えた上で、王子の入学を迎えたのである。
「こうして君と並んで歩くと、幼い頃に遊んだことを思い出すよ。花畑でよく遊んだね」
「ええ、覚えていますわ。花びらを纏って舞うのは楽しかったですわ」
学園の後者に向かう道すがら。クォンフロートの言葉に、ペーネティスは姉の姿を思い出す。
姉のアンテロジアは、幼い頃から魔力の扱いに長けていた。風の魔法を操り、舞い散る花びらを纏うように漂わせ踊る姿は、まさに花の妖精のように幻想的だった。
ペーネティスは姉ほど魔力を巧みには操れなかった。
そこで摘み取った三輪の花を操り、その茎をうねらせて躍らせた。ぎこちないその動きは、姉の華麗な花の舞からは程遠いものだった。
それでも、姉は褒めてくれた。クォンフロートは喜んでくれた。照れ臭くなり、ペーネティスはいつもの癖で、髪先を指でいじった。
「ペーネティスのことは残念だった。彼女ともこうして学園に通いたかった……」
「そうおっしゃってもらえて、あの子も喜んでいると思います」
ペーネティスは泣きそうな顔で笑った。クォンフロートはその肩を優しく抱いてくれた。
クォンフロートはアンテロジアのことを気遣い、優しくしてくれる。
しかしその好意を受けるのは、アンテロジアを騙るペーネティスなのだ。
そのことが、ペーネティスにとって、ひどく罪深いことに思えた。
王子が入学してから、ペーネティスの生活は一気に忙しいものとなった。
学園の授業に加えて、王妃教育も本格的に始まったのだ。学園に許可を取り、週に2~3日は王妃教育を受けることになった。
王宮に入るために覚えるべき様々な礼儀作法。知っておくべき王国および周辺諸国の詳細な歴史。各貴族の関係の把握。政務に関する勉強などなど、やることは山積みだった。
それ自体はペーネティスにとってつらいことではなかった。彼女はそうしたことを苦にしない性質だった。なにより、勉強に集中している間は余計なことを考えずに済むから、むしろ進んで励んだ。
クォンフロートとの付き合いは、普通の婚約者としての振る舞い以上のことはしなかった。
時間を作って、二人の時間を作る。紅茶を楽しみながら、日常の出来事について語り合う。そんな当たり前のやりとりだった。
クォンフロートは優しかった。婚約者に対して、無理に何かを求めることはなかった。
しかし、ペーネティスは常に気が抜けなかった。自分が姉を騙っているという罪悪感。いつかバレるかもしれないという不安感。もっとなにかすべきでないかと言う焦燥感。それらが彼女を追い立てるのだ。
クォンフロートは5年の間、病床に臥せていた。病気が癒えてからも、学園に復帰するまで1年を要した。その間、婚約者同士が直に接する機会はなかった。
それだけの空白があったが、クォンフロートと姉のアンテロジアの間にまったく交流がなかったかといえば、そんなことはなかった。
クォンフロートは病床に臥せっていた間も、二人は手紙のやりとりをしていたのだ。
クォンフロートからの手紙には全て目を通した。手紙には苦しい病状のことについては記されていなかった。窓から見える景色の変化や、小鳥が訪れたことなど、何気ない日常のちょっと気づいたことについて書かれていた。
姉の送った手紙の詳細な内容はわからなかった。だが、病床に臥した王族に送られるものは、専門の検閲係が検閲する。手を尽くし、検閲係を探し出し、概要だけでも聞き出そうとした。聞き出すことは困難が予想されたが、その内容には秘するようなことはなかったためか、問い合わせたらさほど手間もとらされずに答えてもらえた。
解答によると、姉の手紙は、普段の日常を知らせるものしかなかったらしい。
婚約者同士の甘いやり取りではなかったようだった。クォンフロートが病床に就いていたのだから、それも当たり前なのかもしれない。だが、それならどんな心情で二人がそんな手紙のやりとりをしていたのか、ペーネティスにはよくわからなかった。
それでも問題はなかった。姉の日常はペーネティスもよく知るところだったので、手紙の話題が出てもそこからぼろが出るようなことはなかった。
朝起きたときと夜眠る前。鏡の前で笑顔の練習をするのがペーネティスの日課だった。
思い出の中にある姉の笑顔と同じ顔になるように練習した。実家から姉の肖像画を取り寄せ、それも参考にした。笑うことの少なかったペーネティスではあったが、練習を繰り返した結果、自然に笑顔を作れるようになった。
姉と同じ髪の色。同じ瞳の色。ペーネティスの顔は整っていたが、やや細面で、姉ほどの愛らしさは無い。それでも鏡に映った笑顔を、姉の笑顔とほとんど同じ形にできるようになった。
だが、何かが違った。アンテロジアの笑顔は、いつも周りを明るくさせる暖かなものだった。ペーネティスの笑顔は明るくはあっても、その暖かさが欠けていた。
形は同じでも中身が違う。何かが足りない。それが何なのか、ペーネティスにはどうしてもわからなかった。
笑顔を練習するたび、姉がいなくなったことを意識することになる。それなのに笑顔を浮かべている自分のことを、おぞましく思う。何のためにこんなことをやっているのかわからなくなる。
それでも、やめることなどできなかった。
ある日。どんなきっかけかわからない。テラスで談笑していた時に、ふとこんなことを問われた。
「アンテロジア。君はいま、しあわせかい?」
思わず言葉に詰まった。ペーネティスは王妃教育と姉を演じ続けることに忙しすぎて、そんなことを考える余裕がなかった。しあわせという言葉があまりに縁遠いものに思えた。
いつもの癖で髪先をいじりながら考える。
もし、ここに姉が、婚約者であるクォンフロートと共にいたらどう答えただろうと思った。
そして思い出したのは、三人で遊んだ花畑。風の魔法で花びらを纏い踊るアンテロジアの姿が思い浮かんだ。
答えはすぐに出た。
「ええ。クォンフロート様といられて、とてもしあわせです」
その言葉に、クォンフロートは顔を曇らせた。
「……すまない。妹を亡くしてまだ一年あまりの君に、すべきで質問ではなかった」
いつも練習していた姉の笑顔を作れたはずだった。言葉も自然に出せたはずだ。
なにを間違えたのだろう。違和感を覚え、頬に手を当てる。
濡れていた。
その時初めて、自分が涙を流していることに気づいた。
クォンフロートは席を立ち、ペーネティスを優しく抱いた。
姉が死んだことは悲しいことだ。だが何より、クォンフロートのやさしさが辛かった。本当なら、それは姉の受け取るべきものだった。
クォンフロートに優しく抱きしめられながら、ペーネティスはしばらく泣いた。
ある日のこと。
クォンフロートの申し出で、墓参りに行くことになった。
王族の外出には供の騎士がつくものだが、クォンフロートの願い出で、墓前に立つのは彼とペーネティスだけだった。供の騎士は遠巻きにこちらを見ている。
ペーネティスは、墓参りが好きではなかった。
自分の名が刻まれた墓の下で眠る姉のことを思うと、どんな感情でここにいればいいのかわからなくなる。自分が何者なのか、あやふやに思えてくるのだ。
墓に花を供えて、二人そろって黙とうする。
墓前に立って目を閉じると、ペーネティスはいつも考えてしまう。姉の立場を奪った妹のことを、姉はどう考えているのだろうか。普通なら憎らしく思うのかもしれない。でも、あの優しかった姉なら許してくれそうに思える。そんな風に都合よく考えてしまう自分に嫌気がさす。
嫌な考えでいっぱいになったところで目を開く。いつもと同じ動作の中、いつもと違うものが見えた。
クォンフロートがじっと自分をみつめていることに気がついたのだ。
「二人きりで話したいことがあったんだ」
何かあるとは感じていた。墓参りしたいという申し出自体はおかしくない。でも、わざわざ供の騎士を下げ、二人っきりになろうとすることには何かしらの意図があると感じていた。
ペーネティスは身を正し、クォンフロートの言葉を待った。
「婚約を破棄することにした」
思いがけない言葉だった。まさか姉の墓前で、婚約の破棄を言われるだなんて想像もしなかった。
アンテロジアが見ている場所で、彼女が生前した大切な約束を反故にされるなんて、信じられなかった。
「じょ、冗談ですよね……? こんな場所でそんなことを言うなんて、ありえません……」
「冗談なんかじゃない。ここでこそ言わねばならない。僕は、アンテロジアとの婚約を破棄する」
震え混じりのつぶやきは、真っ向からの言葉で否定された。
クォンフロートの細い身体には、決して折れない強い意思が感じられた。
これまでの自分の、何がいけなかったのだろう。
ミスはなかったはずだ。ちゃんとできていたはずだ。形だけとは言え、姉の笑顔をできたいたはずだ。姉の名と、姉の笑顔があれば、大丈夫なはずなのだ。
ペーネティスはそう信じてきた。それだけが頼りだった。
足元が崩れ落ちるように思えた。立っていることすらできなくなりそうだった。
「……私は、王妃としてふさわしくなかったのでしょうか……?」
「王妃の教育も真面目に励んでいると聞いている。学園でも僕に優しくしてくれた。だが……君は僕の婚約者ではない」
「婚約者ではない……? いったいどういう意味ですか?」
「君が僕の婚約者ではないということだ。君の名はペーネティス・サウマタージ。この墓の下で眠っているのは、墓碑に刻まれた君ではなく、君の姉君、アンテロジア・サウマタージだ」
ありえない。それはクォンフロートが知るはずのないことだった。
だが、彼の目に迷いはなかった。
「僕は自分の病気について調べた。あれがただの病気ではなかったことも、もうわかっているんだ。」
その言葉に、ペーネティスは過去の苦しみを思い出す。
そうだ。クォンフロートが病に患ったのではない。呪いをかけられたのだ。
クォンフロート第二王子が病に倒れたのは、ゴルディレオ王国がディンクシア王国を滅ぼしたのと同時期だった。
ディンクシア王国は国土は狭いながら、優れた魔法技術を持った国だった。王国とは魔道具の主に魔法の触媒や魔道具などの交易でつながっていた。
小国であるディンクシア王国は、大国であるゴルディレオ王国から常に抑圧を受けていた。ディンクシア王国は不満を溜めこみ、やがて戦争へと至った。
もとより小国であるディンクシア王国に勝ち目はない。だが他の周辺諸国との関係から考えて、ゴルディレオ王国が本腰を入れるはずが無い。そういう前提に基づいたこの戦争は、ゴルディレオ王国に痛手を与え、有利な国交を引き出すということが目的だった。小規模な小競り合いで終わるはずだった。
だが、ゴルディレオ王国は苛烈な対応を取った。かねてより、ディンクシア王国の魔法技術は周辺諸国から危険視されていた。他の周辺諸国は干渉しなかった。そしてゴルディレオ国王は躊躇わなかった。
一度始まった戦争は、やがて壮絶な殲滅戦争へと発展した。もともと国力が違いすぎる。いかに優れた魔法技術があろうと、本気になった大国を相手にしては、ディンクシア王国は滅ぼされるしかなかった。
だが、ディンクシア王国はただ滅ぼされるだけではなかった。滅亡と同時に、呪いを放ったのだ。
ディンクシア王国の滅亡を火種とし、戦争で死んだ国民の魂を燃料とする、国家規模の強力な呪いだった。
それはゴルディレオ王国が王宮に張り巡らした幾重もの防御魔法を貫通し、王族であるクォンフロート第二王子に届いた。
その呪いは、魔物を召喚し、魂に巣くわせるというものだった。魂に巣くった魔物はそこでゆっくりと生命力と魔力をむさぼり喰らい、呪いを受けたものを衰弱死させる。そしてそこで得た力を糧に、その親族に移り棲み、同じことを繰り返す。一族全てを根絶やしにするまで止まらない、恐るべき呪いだった。
魂のある場所は人類にとって禁断の領域だ。干渉できる魔法は数少ない。
聖女が浄化することすらできなかった。浄化の力をいかに注ぎ込もうと、魔物は魂を盾にしてしまう。魔物が力尽きるより先に、呪いを受けた者が力尽きることになってしまう。
この強力な呪いを前に、対抗策をもつ貴族がいた。サウマタージ伯爵家である。
伯爵家の伝える秘術には、魂に同調して干渉するというものがあった。本来は複数の人間の魂を同調させることにより魔力を合わせ制御を統一し、通常では不可能な大規模かつ精密な魔法を行使するという秘術だった。この秘術を利用して、魔物の力を削ぐ方法が考え出された。
第二王子の魂に直に干渉しようとすると、魔物の抵抗により成功の見込みは薄い。
だから他の者を用意する。その魂を第二王子の魂と同調させる。そして、その者を媒介にして、魂の領域から魔物を攻撃するのだ。
この方法なら、通常では魂の領域に届かない攻撃魔法であっても使える。
呪いの性質上、魔物は第二王子の魂から動けない。魔物から反撃があっても、すぐさま魂の同調を解けば、媒介となった人間に被害は及ぶことはない。
この方法は直ちに採用された。選択の余地はなかった。
サウマタージ伯爵家は、媒介となる者を求めた。難易度の高い秘術の成功率を少しでも上げるため、伯爵家の血族から選ぶこととなった。そして魂を同調させるためには、第二王子と年の近い者が望ましかった。
そうしたことから、伯爵家の姉妹、アンテロジアとペーネティスが真っ先に候補に挙がった。
姉のアンテロジアは魔力が高く、その扱いに優れていた。第二王子とも婚約関係にあり、家の未来を背負う存在だ。
対して妹のペーネティスは、魔力は高いもののその扱いは姉ほどではない。縁談もまだ先の話だった。
必然的にペーネティスが選ばれることとなった。
秘術の媒介となる事は想像を絶する苦しみだった。
ペーネティスの身体を通し、魂の領域に潜む魔物に向けた攻撃魔法を放つ。
例えるなら、攻撃魔法は疾走する重厚な軍馬であり、ペーネティスはその蹄鉄に踏みしだかれる道だった。
石畳で舗装された道だろうと、武装して重量の増した軍馬の疾走には耐えきれず、石畳が割れることもある。ましてペーネティスは年端もいかない少女だった。攻撃魔法もろくに放てない彼女の身体に、その負荷は大きなものだった。
攻撃魔法が身体を通り抜けていく感触は、まるで身体の内側から無数の手でまさぐられるような気持ち悪さがあった。しかもその手は焼けただれており、触れるたびに苦痛をもたらすのだ。
それが魂の領域と言う、本来は侵されざる場所を通るのだ。そんな場所を攻撃魔法が通り過ぎる感覚は、自分の大切な何かを泥で塗りつぶされるようなおぞましさだった。
ペーネティスは生まれて初めて、悲鳴すら上げられないほどの苦痛があることを知った。声を上げることもかなわず、拘束された身体をのけぞらせ、身を震わすことしかできなかった。
長時間は耐えられなかった。苦痛によってペーネティスが気を失うまでの、せいぜい30分。それが限界だった。
ディンクシア王国の民の命を糧にした魔物の力は強大だった。とても一度の秘術で力を削ぐことなどできなかった。
調査の結果、呪いには「ゴルディレオの王族を長く苦しめる」という条件があることがわかった。魔物が弱ったからと言って、すぐさま王子の命を吸い尽くすことはないと見られた。だが、あまりに急速に魔物の力を削ぐと、その条件を守らない可能性も考えられた。
第二王子の容体も診ながらの秘術による『治療』は、長期間にわたることが予想された。
それほど過酷な『治療』だったが、ペーネティスが弱音を吐くことはなかった。
彼女は常に、優秀な姉の後ろにいた。自分は役立たずだと思っていた。
だが、秘術の媒介となれば違った。王族を救う立派なお役目だと、誇らしいことだと、父から何度も言い聞かされた。
秘術の媒介になる限り、両親は期待してくれる。役に立てる。
自分の存在価値を示せる喜びが、彼女を秘術の贄へと駆り立てた。
およそ三日に一度のペースで、魂に棲む魔物への攻撃は繰り返された。
そんな壮絶な『治療』は、実に5年にもわたって続けられた。
その『治療』も終わりに近づいた時だった。
姉のアンテロジアが、ペーネティスの代わりをやると言い出した。
ペーネティスは止めたが、姉は聞かなかった。
その日を最後に第二王子の魂に巣くった魔物は消えた。
そして、アンテロジアも帰ってこなかった。彼女は秘術の媒介となり、そして命を失ったのだ。
「僕は病気だったのではない。呪いをかけられていたのだ」
サウマタージ伯爵家の墓の前で、クォンフロートは迷いなく言い放った。彼は知っている。呪いのことを確信している。
だが、ペーネティスが姉に成りすましていることは、知らないはずだった。
それは王族にすら報告されなかった、サウマタージ伯爵家最大の秘密だった。
「クォンフロート様をお救いするために、父が秘術を使ったことは知っています。それに妹のペーネティスが関わっていたことも知っています。
ですが、それ以上のことは知らされていないのです。そして、妹は……死にました」
墓碑に刻まれた自分の名を見ながら、ペーネティスは告げた。
あくまで姉のアンテロジアとして語った。
だが、クォンフロートはひるむ様子すらなかった。
「魂を同調させ、干渉させる秘術。凄まじい技術だ。でも僕は、君たち姉妹の魔力を知っているんだ」
ペーネティスの脳裏に浮かぶのは花畑の光景だった。
風の魔法で花びらを纏い、妖精のように舞うアンテロジアの姿。
そう、アンテロジアは魔法は何度も見せた。彼女の魔法はいつも人を明るくさせる眩いものだった。
そしてペーネティスもまた、三輪の花を操る魔法を彼に見せた。褒められたことが嬉しくて、花畑に行くたびに見せていた。
クォンフロートは確かに、二人の魔力を知っていたのだ。
だが、『治療』の秘術は特殊だった。秘術の使用者は父であり、ペーネティスはその媒介にしか過ぎなかった。媒介となる以上、送り込まれる攻撃魔法には、幾分か媒介の魔力が含まれることになる。
しかしまさか病床に臥したクォンフロートが、自分の魂の領域に送り込まれる魔力について、そこまで把握しているとは思わなかった。
「5年の間、魂に巣くう魔物を攻撃した魔法。その中に、ペーネティスの魔力を感じていた」
「私にはわかりません」
「だが1年前。最後の一撃で感じたのは違う魔力だった。それがアンテロジアの魔力だと、後になって気づいた」
「心当たりがありません」
「ペーネティスが秘術の途中で力尽き、アンテロジアが引き継いだのなら矛盾はない」
「先ほども申し上げたように、私は何も知らされていないのです」
「ペーネティス。君は困ると髪をいじる癖があったね。今もいじっている」
はっとした。確かにペーネティスは髪先をいじっていた。髪が痛むからやめなさいと姉によく叱られたが、それでも治らない彼女の悪癖だった。
「姉が妹と同じ仕草をするのは、そんなにおかしなことじゃない。でも、そこで違和感を持ったんだ。そして学園の実技で君の魔法を何度も見て、その魔力がペーネティスのものであると確信したんだ」
それなら、ずいぶん前から気づいていたことになる。
知ったうえで調べて、この墓前で告発した。きっと他にも証拠を固めているのだろう。
完全に、知られてしまったのだ。
「君はアンテロジアじゃない。ペーネティスだ」
クォンフロートはまっすぐに言い放った。
もはや言い逃れする余地はなかった。
「やめてください!」
叫ぶと、ペーネティスはクォンフロートに食って掛かった。
「わかったのなら、なぜ放っておいてくださらないのです!? 姉はあなたをお救いするために死にました! 伯爵家は、役立たずのペーネティスを死んだことにして、アンテロジアが結婚することに決めました! それでいいじゃないですか……なぜ、暴こうとするのですか……」
あの日。死ぬべきは自分だった。優秀な姉ではなく、自分が死ぬべきだった。
でも生き残ってしまった。だから生きるべきだった姉の代わりをすることにした。
嘘のままでよかったはずだ。伯爵家も、王家も。それでなにひとつ問題はなかったはずなのだ。
だが、クォンフロートは頭を振って否定する。
「確かに僕は騙されたままでもよかった。でも、それじゃダメなんだ。それでは、君がしあわせになれない」
「私がしあわせになれない……? そんなどうでもいい理由で、婚約を破棄なさるのですか……?」
「どうでもよくなんかない!」
5年も病に臥せっていた。1年を学園に入る準備期間としてもなお、クォンフロートは細く頼りない体つきだ。
だがその声は、力強かった。
そしてクォンフロートは、紙の束を差し出した。
「これは君の姉、アンテロジアがくれた最後の手紙だ」
なぜ、今こんなものを出してくるのか。意図はわからなかったが、その手紙から目が離せない。姉が最後に出したという手紙。見ずにはいられなかった。その手紙を手に取ると、ペーネティスは目を通した。
それは手紙の検閲係から聞き出した通りの内容だった。姉の過ごした何でもない日常。日々のちょっとしたうれしいこと。そうしたことが綴られた手紙だった。
どんな内容か、大まかには知っていた。それなのに、実際に読んでみたら印象はまるで異なった。読むと暖かな気持ちになった。
その時初めて、ペーネティスは気づいた。ただの婚約者として義務的なやりとりではなかった。アンテロジアは、病床で苦しむクォンフロートを元気づけるため、心を尽くして手紙を送っていたのだ。
だが、束の間感じた暖かな気持ちは、すぐさま凍りついた。手紙の最後に書かれていた一文を見たためだ。
『もしわたしになにかあったら、ペーネティスのことをお願いします。
あの子には、しあわせになってほしいのです』
そう、書かれていた。
そして、ペーネティスはあの日のことを思い出した。
最後の秘術を為された日。思い出さないよう記憶の底に封じ込めてきた、あの時の出来事を。
「ペーネティス。あなた、すごく暗い顔をしているわよ」
『治療』も最後が近づきつつあると感じていたある日の事。『治療』に向かう準備をしていた時。
突然、アンテロジアはやってきた。
『治療』のことは何も知らされていないはずだった。それなのに、まるで全てを知っているかのように、狙いすましたタイミングで彼女はやってきたのだ。
アンテロジアの指摘通り、ペーネティスは暗い顔をしていた。第二王子を救うための大切な役目だった。誇らしいと思った。だが、苦痛にだけは慣れることができなかった。苦痛に対する覚悟が、彼女の顔に暗い影を落としていたのだ。
「そこで! 今日はこの姉が代わってあげるわ! 秘術のことは、このわたしに任せなさい!」
「なんで秘術のことを知っているのですか!? それに……代わるなんて、お父様が許すはずがありま……せん……」
急速に意識が遠くなるのを感じた。魔力を感じる。姉がスリープの魔法を使ったのが、おぼろげながら分かった。
「姉さま……どうし……て……」
意識の薄れゆく中、姉の笑顔が見えた。あの、周りの人を明るい気持ちにさせる、太陽みたいに暖かな笑顔だった。
「大丈夫、きっとぜんぶうまくいくわ。だからあなたは、安心しておやすみなさい」
ペーネティスは眠りについた。そして姉が秘術の媒介となった。
父は秘術を使う時まで、アンテロジアに気づかなかったようだった。後ろめたさからか、父はペーネティスと目を合わせないようになっていた。
二人は姉妹だ。髪の色のちょっとした違いなどは、魔法を使えば簡単にごまかせる。そもそも5年も続けた秘術の最後に、そんな例外的なことが起こるとは考えもしていなかったのだろう。
そして一度秘術を始めてしまえば、途中で止めることなどできなかった。その日の秘術は、魔物を完全に滅ぼすことを目的したものだった。この機会を逃せば、魔物が最後のあがきとばかりに、第二王子の命を吸いつくす危険があった。
そして、秘術は為され……姉はその命を失った。
「姉さま! あなたは最初から『そのつもり』だったのですか!」
手紙を胸に抱き、墓碑にすがりつき、その下に眠る姉へとペーネティスは叫んだ。
「あなたは最初から、死ぬつもりだったんですか! 私の代わりに、死ぬつもりで入れ替わったのですか! あなたがっ……あなたが死んでどうするんですか!?」
言葉が次々とあふれでた。今まで目をそらしてきたことだった。これまで抑えてきた想いだった。
だって悲しかったのだ。
姉が死んだことだけで悲しすぎた。それなのに、初めから死ぬことを覚悟していただなんて、とても受け入れられなかった。
「死ぬべきなのは私だったのに! 死んでいいのは私だけだったのに! あなたは、どうして……」
言葉は最後まで言えななかった。後ろから抱きしめられたからだ。
「それ以上、言ってはいけない」
優しく静かな声だった。背中から熱を感じた。いたわる気持ちが伝わってきた。死ぬべきだった自分に向けられるその暖かさに、ペーネティスは言葉を失った。
言うべきことではなかった。口に出してはいけないことだった。
どうしようもなくなり、ペーネティスはただただ泣きじゃくった。
彼女が少し落ち着いたところで、クォンフロートは語りだした。
「アンテロジアはきっと、こんな結末を望んでなかったはずだ。だって手紙には、『もしわたしになにかあったら』と書いてあった。『もし』、だ。アンテロジアは君のために死ぬつもりなどなかったんだ」
アンテロジアは、明るくて周りに気を配れる人だった。きっと誰からも説明されずとも、ペーネティスの様子から異常を感じ取っていた。
そしてアンテロジアは優秀でもあった。父に覚られぬよう秘術について調べ、ペーネティスの苦境を知ったのだ。そして愛する妹を守るため、身代わりになることを選んだのだ。
それでも死ぬつもりなどなかったはずなのだ。
アンテロジアは最後に笑顔を見せた。そして言ったのだ。
「大丈夫、きっとぜんぶうまくいくわ。だからあなたは、安心しておやすみなさい」
最後にはみんなで笑いあう。姉はいつも、そういうことをする人だった。
「最後の秘術で流れ込んできた魔力は、それまでと違って強力なものだった。魔物を完全に滅ぼすために、きっと大きな力が必要だったのだと思う」
クォンフロートは思い出すように、当時のことを語った。
秘術による『治療』が終わりに近づいてきていることを、その媒介となり続けたペーネティスは、説明されずとも感じ取っていた。
そして、その終わりが今までより壮絶なものになる事を予感していた。その結果、自分が死ぬことになる事すら覚悟していた。
そして姉がその身代わりとなり、死んでしまった。
自分よりはるかに優秀な姉ですら命を失うほどの秘術。もしペーネティスが、予定通り媒介となっていたら……魔物を滅ぼすことはできなかったかもしれない。ペーネティスもクォンフロートも、死んでいたかもしれない。
「姉さまは、私とあなたの命を救ってくれたのですね……」
そうかもしれないと、どこかでわかっていた。だからこそ、ペーネティスはアンテロジアの代わりを務めなければならなかった。身代わりになった彼女に報いるために、今度は自分が身代わりにならねばならなかった。
でも、それは潰えた。
涙はもう出なかった。
泣けばいいのか、叫べばいいのか。もはやペーネティスには、それすらもわからなかった。
「私は、どうすればいいんですか……?」
クォンフロートは立ち上がると、ペーネティスに向けて手を差し伸べた。
「だから、君はしあわせにならなくてはならない。そのために、アンテロジアとの婚約は破棄する。そして、ペーネティス。君との婚約を結ぶんだ」
「何を言っているんですか……」
とても信じられなかった。たちの悪い冗談としか思えなかった。
だが、クォンフロートは真剣な顔をしていた。まっすぐな瞳で、ペーネティスを見つめていた。
彼の瞳には、ひとかけらの嘘もなかった。
「僕はアンテロジアに、君がしあわせになるよう頼まれた。君を幸せにする義務があるんだ」
そうだ。あの手紙にはこう書いてあったのだ。
『もしわたしになにかあったら、ペーネティスのことをお願いします。
あの子には、しあわせになってほしいのです。』
とてもできるとは思えなかった。何をすればいいのかすらわからなかった。
伸ばされる手を茫然と眺めながら、ペーネティスは立ち上がる気すら起きなかった。
「しあわせになれるとは思えません……」
「思えなくてもなるんだ」
「意味が分かりません」
「意味がわからなくてもなるんだ」
「なぜ、そこまでするのですか?」
「僕たちが生きているからだ」
力強い言葉だった。その言葉に引かれるように、ペーネティスは視線を上げた。
クォンフロートのまっすぐな瞳を見た。その奥に、自分と同じ悲しみがあるのを知った。
「アンテロジアに生かされた僕たちは、しあわせになる義務があるんだ」
そこで、ペーネティスは諦めた。
しあわせを諦めることを、諦めた。
「姉さまは勝手な人です。勝手に私の身代わりになって、勝手にしあわせになれだなんて言い残して。
でも、私は……そんな姉様のことが、大好きだったんです」
生きていることを悔やみ、しあわせを諦めることは、大好きな姉の死を穢すことになる。
それだけは、絶対にしてはならないことだった。
クォンフロートの手を取り、ペーネティスは立ち上がった。
アンテロジアはもう二度と目覚めることはない。なら、ペーネティスは立たなければならない。
立たねばならないのだ。
墓前での婚約破棄の後。二人はペーネティスの実家であるサウマタージ伯爵家に向かった。
両親と面会してすべてを話した。
クォンフロートが呪いと秘術の真相を知っていること。
アンテロジアとの婚約を破棄し、ペーネティスとの婚約を結ぶこと。
両親は驚き、悲しみ、しかしクォンフロートの申し出を受け入れた。
彼らはひどく消沈していたが、どこか安堵している様子も見られた。
姉の死を隠し続けることに、両親もまた苦しんでいたということをペーネティスは知った。
そんな当たり前のことにすら気づけないほど、アンテロジアの死は伯爵家にとって大きすぎることだったのだ。
一月後、アンテロジアの葬式が行われた。伯爵令嬢の葬儀となれば、本来なら規模の大きなものとなる。だがこの時は、彼女の死に複雑な事情があったこともあり、家族だけでしめやかに執り行われた。
葬儀を終えた後。婚約破棄のあの日のように、ペーネティスとクォンフロートは立っていた。
ただ、大きく違うことがひとつあった。
ペーネティスの髪は、雪のように白かった。5年も秘術の媒介となっていたペーネティスは、苦痛によってその髪の色を失っていた。アンテロジアの名で生きるため、魔道具で髪を染めていたのだ。
だが、アンテロジアの死が隠されたものではなくなった今、ペーネティスは偽ることをやめたのだ。
「クォンフロート様。今、なんだか不思議な気分なのです。ちゃんと葬儀ができて、姉さまの死を人前で悼むことができるようになって……そのことが、うれしいと思えてしまうのです」
クォンフロートは何も言わず、そっとペーネティスの手を握った。
「クォンフロート様。私はどうすればしあわせになれるのかわかりません。どうすればいいのかすらわからないのです」
「焦ることはない。これから探していけばいい」
「……そうですね。私達は、生きているのですから」
クォンフロートはペーネティスのことを、ぐっと引き寄せた。
その胸の中に包み込むように、ペーネティスを抱きしめた。
「だから今は、泣いてもいいんだよ」
そう優しくささやかれた。途端に視界がぼやけた。瞳はうるみ、涙がこぼれた。一度涙が流れ出すと、止まらなかった。
ペーネティスはその胸の中で静かに泣き続けた。
この日ようやく。ペーネティスは、大好きな姉が死んだことを、本当の意味で受け入れることができたのだ。
ペーネティスの喪ったものはあまりに大きく、媒介として過酷な生き方を強いられた彼女は、自分のしあわせというものがどんなものかもわからなくなっている。
だが、クォンフロートは信じている。
それでも、生きている。
だから、きっとしあわせになれるはずだ。
自分の命を救ってくれた姉妹に報いなければならない。
だからクォンフロートは、ペーネティスの事を必ずしあわせにすると、心の中で改めて誓うのだった。
終わり
最初に、死んだ姉の代わりに妹が婚約者になるという話を書こうと思いました。
姉が死んだ理由とか、王子がそれに簡単には気づかない理由とか、あれこれ設定を詰めて言ったら、当初考えていたよりずっと重い話になってしまいました。
お話作りは難しいと、改めて思いました。
読んでいただいてありがとうございました!
2025/4/22
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!