楓ちゃんが轢かれた
交通事故って言うものが、辺りを血まみれにするものだって言うのを初めて見た日、あの子は切れた額を押さえながら、救急車に運ばれて行きました。
僕はその時、五歳だったでしょうか。六歳だったでしょうか。小学校にはまだ通っていなかったけど、幼稚園はもう卒業していた時でした。
数日してから、あの子の入院している病院へお見舞いに行きました。そこで、あの子はベッドに横に成ったまま、頭にギプスをして、包帯で覆っていました。
「陸の事、覚えてる?」と、僕のお母さんは言いました。
あの子は、ベッドを覗き込んだ僕を見て、「この子が陸?」と聞き返してきました。
とっても頭が良い所は変わらないけど、あの子は僕の事をすっかり忘れていました。
看護師さんが、あの子には聞こえない所に行くと、「忘れてない事もあるんですけどねぇ」と言っていました。
それから、僕のお母さんと難しい話を始めました。えんめいちりょうと言うものがなんとかと言っていました。
僕は、その間に、もう一度あの子の病室に戻って、自分が持っていた、時計塔の形のキーホルダーを、あの子に渡しました。
「貸してあげる」と言って。「カエちゃん、学校に通うようになったら、よろしくね」と言う、少々大人びたようなことを言った覚えがあります。
その事が、あの子、楓ちゃんとの思い出の、最初のほうに記憶されているんです。
おかしいですよね。楓ちゃんとは幼稚園の頃からずっと一緒で、何度も顔を合わせてて、おしゃべりをしたり、一緒に遊んだりしてたはずなのに。
小学校に楓ちゃんが現れたのは、二年生になってからでした。一年生の頃の担任の先生が、毎日の授業の内容と宿題を病院や楓ちゃんの家に届けていたので、楓ちゃんはやっぱり頭が良い子のままでした。
二年生になるまでに覚える漢字を全部覚えてて、算数だってあっと言う間に覚えて、二年生に成ったばっかりなのに九九も全部言えました。
だけど、楓ちゃんは怪我をしたままでした。額の縫った痕を髪の毛で隠していて、体育の時間は見学をしていました。
僕は楓ちゃんに声をかけたかったけど、小学校に上がった男の子は、女の子と喋っちゃならないって言う、変な「男同士」の決まりのせいで、僕は学校の中では楓ちゃんに話しかけられませんでした。
その代わり、帰る時に「一緒に帰ろう」って声をかけました。
そしたら、楓ちゃんは静かに首を横に振りました。「頭がいっぱいに成っちゃうから、黙って帰りたいの」と言っていました。
「うん。黙ったままで良いから、一緒に帰ろう」と言うと、楓ちゃんは「なら、いいよ」と、小さな声で言いました。
そんな風に、僕と楓ちゃんは、賑やかすぎる学校を後にすると、二人で黙って夕方の道を歩きました。
初夏に近づいている日差しが、とても眩しかったのを覚えています。
しばらく黙って歩いていると、楓ちゃんが片手を額に当てました。
「頭、痛いの?」と聞くと、普段は大人しい楓ちゃんが、「話しかけないで!」と、急に怒りました。
僕がびっくりしてるのを見て、ハッとしたような顔をすると、「ごめん。話しかけないで…」と、楓ちゃんは小声で言いました。
「うん。ごめん…」と、僕も小さく返して、本当に一言もしゃべらないで帰り道を進みました。
住宅街の中を歩いて行くと、向こうから知らないおじさんが歩いてきました。いいえ、髪が白かったので、おじいさんかも知れません。でも、背筋はピンと伸びていて、脚運びもスムーズな、健康そうなおじいさんでした。
スーツを着て帽子を被って、顔を伏せて歩いてきます。その皮膚も、やけに青白くて、こんなにお日様を浴びてるのに皮膚がピンクにもなっていないなぁって思っていました。
僕はそのおじいさんを避けようと思って歩道の反対側に行きました。楓ちゃんは、急に顔を明るくして、そのおじいさんに駆け寄りました。
背恰好のしっかりしたおじいさんは、楓ちゃんの額を撫でました。そうすると、楓ちゃんは目をつむって、なんだか気分が良さそうにしていました。
おじいさんが、楓ちゃんにだけ聞こえるように、何か言いました。
楓ちゃんは僕の方をちらっと見て言いました。「一緒に帰りたいって言うから、黙ったままで良いならって言ったの」
その後、おじいさんが、顔を上げようとしました。
僕はなんだか怖くなって、楓ちゃんの手を握ると、走り出しました。無理矢理走らされた楓ちゃんは、「放して!」とか、「やめて! 頭が痛い!」って言ってたけど、僕は自分の家の前まで楓ちゃんを引っ張って行きました。
楓ちゃんの手を引っ張ったまま家に入って、お母さんに「白い髪のおじいさんの事」を話しました。
お母さんは、何かに気づいたように目を見張って、楓ちゃんのお母さんに電話をしました。楓ちゃんのお母さんは、自転車で楓ちゃんを迎えに来ました。
それから、楓ちゃんは一緒に帰ってくれなくなりました。正確に言うと、毎日お母さんが迎えに来るようになって、楓ちゃんは自転車の後ろに乗って帰って行くようになりました。




