散りし後の緑
ひどく疲れていた。肉体ではなく精神が。
講義終わりに喫煙所で煙草に火を付けて、屋根と壁の隙間から見える葉桜を見て深い溜息を紫煙と共に吐いた。
美しい桜色の花を散らして自然を感じさせる緑の葉を蓄えた桜の樹を見て、ふと美しいなと思う。
都会のど真ん中に建っている大学に植えられている樹を見たくらいで何をと思うかもしれない。自分でもそう自虐したが、それでもこの樹には、この葉桜には美しさがある。
そう、ちっぽけな自分とは違って。
上京してからお世話になっていたバイト先が廃業になり、更には三年付き合った彼女には浮気をされ、つい先日別れを告げられた。
不幸が重なっただけ、されども人の精神というのは思いのほか脆い。別れを告げられた後に家に帰って、耐えきれなくなり一人ベッドにうずくまって涙を少し溢した。
先ほどの講義で元彼女が仲良さそうに顔の整った色男と喋っているのを見て、少し回復していた気力が消えた。
忘れよう、忘れようとは思っている。もう別れて一週間だ。彼女のことは好きだったが、もう彼女には新しい男がいるのだ。
そうして紫煙を吸い込んで、煙と共に自分のココロに蓋をして。
「見ない顔だね、君。」
そんな声がしたので出元の方をつい見てしまった。そこに立っていたのは、火のついてない煙草を口に咥えた美女だった。
そして、講義棟から離れていて人気の無いこの喫煙所に他に人はいない。
「…俺、ですか?」
「そう、君だ。生憎火を切らしてしまっていてね。」
「あ、あぁ、どうぞ。」
なんだ、火が無かったのかとコンビニで買った安ライターを手渡す。
「助かったよ。」
「いえ…。」
見られている。何か気に障るようなことでもしただろうか。
「君、酷い顔をしているね。」
「…へ?」
そう、美女に言われた。
自分は人に言われるほど酷い顔をしているのだろうか。そういや、一週間鏡を見ていないな。ろくに眠れてもいないし、飯もほとんど喉を通らないので食べていない。
そう思い返して、今の自分の顔を想像して、そう言われても仕方がないなと後悔した。
「なにか嫌なことでもあったかい?」
「いえ…その…」
その言葉にグサリとココロが揺れた。
「嫌なら話さなくてもいい。だが、こういう時には誰かに話すとことで少しでも気が軽くなるというものさ。」
魅力的な提案だった。友達と呼べるような友達もいない俺には魅力的な提案すぎた。
そうして気が付けば、俺は簡単に、だが極めて感情的にその見知らぬ美女に積もりに積もった大きすぎる感情をぶつけていた。
誰かに聞いてもらいたかった。誰かに話しかった。このココロの内に秘めてしまった思いを。
この人は、それをただただ頷くだけで聞いてくれた。ただそれだけがうれしかった。
「辛かったんだね。」
「見苦しいところをお見せしました。」
爆発した後は落ち着くのが常。俺は冷静になった後に初対面の女性に何をしているんだと、後悔と羞恥が込み上げてきた。
「いや、いいさ。こうして辛そうにしている人間を見ると放っておけなくてね。」
「…優しいんですね。」
「はっはっは、私なんて身勝手な人間だよ。それはそうと君。」
「はい?」
その美女は灰皿に煙草を押し付けて、俺の方をみて微笑んだ。
「名前は?」
その顔を見た瞬間に"この人のことをいずれ好きになる"という謎の確信をした。なぜそんな確信をしたのかは分からないが、この微笑みが俺を狂わせるような気がした。
葉桜は美しい。桜色の花びらを付けていた方が美しいという人が大多数だと思うが、そうは思わない。
桜色の花びらを散らしてつける緑色の葉は多くの人には見向きはされない。だけれど誰かは見ている。
その緑は決してネガティブな色ではなく、新しい季節の予感を知らせる色である。
その色こそが美しいのである。