第九話 「陽川白乃は慰めたい」
涼しげな風が頬を撫でる。
今は、五月の下旬。春と呼ぶにはやや暖かく、夏と呼ぶにはまだ涼しい、中途半端な季節。
この時期本来なら少し肌寒く感じる風も、今は涼しくて心地よい。
その理由は、体が熱を帯びているからだ。体が火照っている理由は、階段を上りきった後というのもあるし、下田とかいうよく分からない男にキレられ、一身に視線を浴びて緊張したせいもある。
だが、一番の理由は、目の前の女性の存在だろう。
――陽川白乃。
誰もがこの学校一の美少女と認め(盗み聞き)、その美貌に惚れない男はいない(盗み聞き)。
さらに、容姿だけではなく、その性格も素晴らしく、みんなと分け隔てなく(要するに、俺はみんなに入っていないわけだ)接し、教師からも厚い信頼を得ている。
その上、学外での交友関係もあり、SNSなどでも活発に活動し、今や芸能人並みに有名な存在となっている(陰山さんと母さんが話しているのを、居間の扉に体を隠して聞いた)らしい。
それ程の女性が、今俺の目の前にいる。しかも、他に誰もいない屋上で二人きり。
これで平常心を、という方が無理というものだ。
これまでは、絶交宣言されたことによる衝撃や、怒りで覆い隠されていたが、二人きりという状態となったことで、自身の緊張を意識せざるを得なくなった。
再び、風が起こる。陽川は、そのせいで少し乱れてしまった茶色の髪の毛を、手で梳いた。
顔を逸らす。これ以上見ていられなかった。こいつは、まさしく魔性の女だ。
「陰山君、私があなたを呼んだ理由が分かる?」
「ふぇ?い、いや。あ、俺にもう学校に来るなって言い渡しに来たとか?」
なんだよ、ふぇ?って。男がやってもキモいだけだろ。
最近は中野と話して免疫がついたと思っていたが、そうではなかったらしい。もしかしたら、陽川だからキョドるだけかもしれないが。
なにせ、陽川は中野でさえ自分より上であると言ったほどの人間なのだから。
「あなたねぇ……。私をなんだと思っているの?確かに、私はあなたのことが嫌い。でも、学校に来るな、とは思っていないわよ。少し同じ空気を吸ったりするのが嫌なだけ」
いやいやいやいや。それ十分来るなって言ってるよ?
ていうか、そっちの方が言われて傷つくよ?大体、俺が吸って吐いた空気に、どんな罪があるんだよ。
「まあ、いい。それで?陽川は、何で俺を呼び出したんだ?」
「馴れ馴れしいわね、あなた。普通、自分のことを嫌っている相手と初めて話す時に、呼び捨てにするかしら?」
そうか。これは馴れ馴れしいのか。
女子の名前を呼ぶこと自体が年一のイベントくらいに珍しいから、距離感が分からない。
「それで、白乃さん?どうして俺を……」
「おかしいでしょ!なんで距離近くなってんのよ?普通、呼び捨てやめてって言われたら『陽川さん』でしょ?なんで、『白乃さん』なのよ!」
盛大なツッコミ、ありがとうございまーす。
「で?陽川さん?何で、俺を呼び出したんだ?」
「はぁー。あなたと話すと疲れるわ。本当に、あなたのこと嫌い。リコーダーを盗まれなかったとしても、一度でもあなたと話す機会があれば嫌いになってたでしょうね」
いつまで経っても、呼び出しの理由の話にならない上に、普通に人格否定されてショックだ。
これまでは、陽川に嫌われたのはリコーダーと上沢のせいであり、俺には何の問題もないと思っていたが、俺単体でも嫌われるのね。
てことは、誰も嫌ってこなかった陽川が、本当に初めて嫌った人間なわけ?俺って。
なにそれ、俺って結構凄いことしたの?その内ウィキペディアとかに書かれるんじゃない?
「あなたを呼んだ理由は、灰悟君のことについてよ。彼は昨日何も教えてくれなかったんだけれど、あなたは彼にどんな話をしたの?」
また出たよ。上沢も白乃とか呼んでたから、薄々分かってたけど、こいつも上沢を下の名前で呼んでんのか。
ほんと、リア充アピールはリア充同士でやれ。
ぼっちにやっても、それただのいじめだから。お前とは下の名前で呼び合う程、仲良くないって言ってるようなもんだから。
「あいつがリコーダー窃盗の真犯人って話だよ」
隠す理由もないので、正直に話す。
「え?灰悟君が?ないない、絶対ない。だって、彼が私のリコーダーを盗む理由がないもの」
「あ?いや、お前のことが好きなんじゃないのか?」
「うんうん、そんなはずない。だって、灰悟君が好きなのって、な……。危なっ!陰山君なんかに言うところだったわ」
なんかとはなんだよ。
ただ、上沢には別に好きな奴がいるのか?いや、そんな筈ないか。本人の前では言えず、他の人をでっち上げたって所か。
そらなら納得がいく。
「そんな下らない話だったのね。まあ、いいわ。これで、もう用事は済んだことだし。あなたのことは嫌いだって再確認もしたし。私、戻るわよ」
そう言って、屋上の出口まで歩く途中で陽川は振り返った。
「屋上の鍵、持ってるの私だけだから、屋上が開いていると私が怒られるからあなたが先にここから出て行って」
こいつしか持ってない屋上の鍵とか、どれだけこいつは特別扱いされてんだよ。
「ああ、それは構わないんだけど……。ひ!一つだけ聞いていいか?」
陽川は目を細めて俺を見たが、しばらくすると、「別にいいわよ」と返答した。
「ああ。ありがと。それじゃあ、一つだけ。さっき、何であいつ、あいつ……あれ?誰だっけ?」
「下田君のこと?」
「そう、それ!あいつと俺が喧嘩するのを止めたんだ?上沢の話を聞きたかったからか?俺には、どちらかと言うと、上沢の話がついでだったように思えるんだが」
「はぁー。変な所鋭いのね、あなた。更に嫌いになったわ。あなたと下田君の喧嘩を止めたのは、見ていられなかったからよ。私が嫌いって言ったせいで、あなたいじめられたわけでしょ?それが、何というか、申し訳なくなって……」
ああ、そうか。
「いえ、あなたのことは嫌いだわ。それでも、流石にいじめっていうのは良くないことだから……」
こいつも、同情なわけだ。
自分の言動のせいでいじめられる俺。その罪悪感から逃れるための免罪符として、俺が殴られるのを止めた。
私は良いことをした、と自分に言い聞かせるために。
それに、見ていられなかっただと?
同情なんかすんな。自分より、小さくて身分が低い奴がいじめられるのが、可哀想だったのか?気の毒だと、そう思ったのか?
ふざけんな、同情なんて一番いらない。同情なんてものは、自分が上位の存在だとした上で、下位の存在を見下す行為だ。
そんなもの、優越感を得たいがために、やっているだけだ。
ならば、こいつにあげる言葉は何か。
こいつに、突き刺す言葉のナイフはどれにするか。
「俺は、お前のせいでいじめられたんだぞ?お前が、俺のことを嫌いだと、そう言ったから」
「確かにそうだわ。でも、それは元はと言えば、あなたがリコーダーを……」
こういう奴は、自分のことを正しいと、良い人間だと考えている。それならば、その考えをへし折ってやればいい。
「それが事実じゃなかったら?俺が、リコーダーを盗んでいなかったら?そうだとしたら、お前はただ俺を嫌いだと言って、自分の権力を使って俺をいじめただけだ。なぁ、気分はどうだ?いじめっ子」
そう言って、俺は陽川の脇を通り、屋上の出口へと向かった。すると、後ろから声がかかる。
「あ!待って!」
待たない。お前が自分で考えろ。そして、後悔しろ。自分が俺にやった行為の意味を知れ。
「そ、そこは!」
俺は、屋上の出口の扉に手をかけ、開ける。
そして、一歩を踏み出すと……
ツルッ!
へ?
ドン、ガタ、ゴト、ドン!
床を滑って、階段を転げ落ち、踊り場の壁に体をぶつける。
「そこは滑りやすいから、降りる時は注意してって言おうとしたのに……」
痛む体を起こし、上を見ると、額に手を当てて、あちゃーという顔をしている陽川がいた。
「あのー、大丈夫?」
上からかけられる声に、顔が赤く染まる。
俺は、いたたまれなくなり、痛む体に鞭打ち、声にならない叫び声を上げながら、階段を駆け下りて行った……。
だから、
「クスッ。陰山君って面白いのね」
という笑い声が俺に聞こえることはなかった。
今の展開のエグさについての感想が多いですね。ですが、安心して下さい。次回から、黒人の逆転(?)が始まります!
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