第十話 「そして、陽川白乃は涙を零す」
〜〜〜
完全に二人きりの教室。
いつもと変わらない馴染みの教室だというのに、なぜかいつも以上に広く感じた。
『ねぇ、黒人君』
俺が一方的にずっと他愛のない話を続けていると、小さな声で緑はそう話しかけてきた。
無視したかった。なにか、取り返しのないことが起きるようなことがしたから。
それでも、緑の顔を見て、そんな自分勝手な気持ちは消え去った。
『なんだ?』
問い返すと、緑は困ったように、作り笑いを浮かべた。
『もう、私と関わらないで……』
目の端に涙を溜めながら、そう小さな声で話してきた彼女を前にして、俺はただ引き攣った笑みを貼りつけて立っていることしか出来なかった。
沈黙が場を支配する。
十秒、二十秒と無言の時は過ぎていき、俺は遂に耐えきれずに言葉を発した。
『どう……して……』
『だって私、黒人君に迷惑をかけたくないから』
彼女は、そうして今にも消えそうな笑みを浮かべて答えた。
『俺は、迷惑だなんて……』
『黒人君は優しいから、迷惑だって思ってないかもしれない。でも、苦しんでるでしょ?私は苦しんでほしくない』
そこで緑は、少し間を開けて、再び言葉を紡いだ。
『だからね、もう私と関わらないで……』
『で、でも……』
『お願い……』
そのか細い声に、俺が言おうとしていた言葉は掻き消された。
俺は、どうするべきなんだ?
ここまで言われても、無理に関わろうとするべきなのか?それとも、緑の望む通りに緑とは距離を置くべきなのか?
分からない、分からない、分からない。
俺は、緑のために何ができる?
『お願い』
『み、緑がそれを望んでるなら……』
『ありがとう』
緑は満面の笑みを浮かべてそう言った。
その顔は、今日見た中で、最も嬉しそうな笑顔だった……。そして、同時に最も緑らしくない笑顔だった。
そのまま緑は廊下へと出て行く。
俺は離れていく緑に手を伸ばしたが、すぐにその手は何も掴まないままおろされた。
彼女がいなくなった教室は、いつもよりも狭く感じられた。
〜〜〜
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
乱れた息が、静寂に包まれていた部屋を騒がした。
「今のは……夢か」
昨日、椅子に座って色々と考えている内に、寝落ちしてしまったらしい。
そのため、今の俺は椅子に座って眠ったせいで全身が強張っている。
そして、机の上には黒く塗りつぶされた紙が一枚のせられている。これこそが、昨日俺が睡魔と戦いながら考え続けた証拠だ。
まあ、多分こうして彼女と彼女のことを考えている内に寝たから、あんな夢を見たのだろう。
「それにしても……あの夢を見るのは久しぶりだったな……」
◇◇◇
最悪だ。
既に時刻は放課後の六時過ぎ。
五時半から始まった、合唱コンクール実行委員会の会議が三十分続いたせいだ。
しかも、集まったのは当日の裏方担当の人間だけで、中野とかはいない。いや、別に中野にいて欲しかったわけじゃないけど。
というか、五時半という時間設定は、担当別に招集されたかららしい。つまり、最後の時間に集められた俺たちは、最もどうでもいい存在として扱われたという意味らしい。
そんなわけで、最低な気分で始まった会議。しかし、唯一の救いは俺の役職が無線などを用いた状況確認だったことだ。
それのどこが救いなのか、と思うかもしれない。俺も最初にその役職を聞いて抗議しようと考えたが、他の役職を聞いた途端、そんな気は失せた。
壇上に上がり、次のクラスは何かなどを発表。
壇上に上がり、次のクラスの演奏の準備。
放送室に引きこもり、次のクラスの紹介。
要するに、全部が裏方などと言いながら、目立つ仕事なのだ。
他の役職を聞いた時、俺は心の底から無線の係に決まったことを喜んだ。
それなのに、今の俺が最悪な気分の理由。
無線の仕事は当日の裏方の中では楽でも、中野の仕事に比べれば遥かに面倒だということに気づいたから、というだけではない。
教室に鞄を忘れてきたからだ。
会議室は、俺の教室がある校舎とは別の校舎であり、一度外に出ないといけない。その上、俺の教室は四階にあるからだ。
要するに、面倒な会議が終わって、いざ帰ろうとした時に、わざわざ離れた教室に鞄を取りに行かなければならないのが嫌だったのだ。
あれ?思ったより大した内容じゃない。
それなのに、ここまで気分が落ち込んでいるのは、やはり朝の夢のせいだろうか。
俺にとっては一種のトラウマですらあるあの光景を鮮明に思い出させられたからだろうか。
「はぁー」
ため息をつきながら、俺は階段を登る。
何だか最近、ため息ばかりついている気がする。
ため息をしたら幸せが逃げるだとか何とか、そういう言葉があった気がするが、俺には元々幸せがないのだから構わない。
というより、逃げてくれて姿を現すならば、まだ捕まえようがあるというものだ。要するに、俺は幸せに近づいた!
とか益体のないことを考えながら、俺は教室に向かっていった。しかしその時、ある姿が見えた。
俯いていて、彼女の顔は見えない。そのおかげで気付かれていないとも言えるのだが。
そして、俺は顔が見えなくとも彼女が誰かわかった。ここ最近、ずっと見ていたのだから。
陽川白乃だ。
そして、顔を俯いていても、何をしているのかが分かる。分かってしまう。
どうしようもなく、あの時の姿と重なって見えてしまったから……。
あの日、緑から関わらないでと言われた日。それから少しだけ時が流れ、忘れもしない金曜日。
俺は、用事があって放課後まで残っていたのだ。そして、その用事が終わって教室まで戻った時に、外から見えてしまったのだ。
教室の中で一人、泣きじゃくる緑の姿が。
その時の姿に、似ている。というより、全く同じだ。
陽川白乃は今、もう誰も味方がいなくなり、もうどこにも居場所がなくなり、泣いているのだろう。
その時、俺にはあの時同様、二つの選択肢が目の前に現れた。
一つ目。
話しかけて慰める。
二つ目。
見て見ぬ振りをする。
ああ、俺はやはり変わってないんだな。
ここで、二つの選択肢が現れた時点で俺が成長していないのが窺える。
もし、二つも選択肢があれば、楽な方に行くに決まっているのに。自分でもそれが分かっているのに、選択肢を二つ作っているのだから。
実質、最初から選択肢は一つに決まっているようなものだ。
要するに、俺はどれだけ時間が過ぎても変わっていないのだ。
俺は、巧みに言葉を使い、助けるために何かをやっているというポーズを取るようになった。
でも、俺は結局はクソ野郎のままなのだ。
せめて、彼女の涙が枯れ果ててもうこれ以上涙が出なくなるまで泣けるように、誰も邪魔をしませんように。
そんな最低なことを願いながら、俺は手ぶらで学校を出ていったのだった。
ブクマと評価と感想、ありがとうございます。
この作品はラブコメですし、勿論このままでは終わりません。
この先どうなるのか、楽しみに待っていて頂けると幸いです。




