河合君は手をつないでくれない
「あっつーい」
ホースで水をまくと涼しいどころかむわっとした空気がまとわりついて余計に暑苦しくなった。空はどこまでも青く、雲は太陽を遠く離れた場所でもくもくと山のような形を作っている。遮るもののない熱はじりじりと肌を刺し、誰もいない静かな学校がモヤモヤと揺れて見えた。今日はこの夏一番の暑さらしい。
「おい、大丈夫か?」
「うん」
私は小さな声で返事をする。下を向くと濡れた地面にカーキ色の半ズボンが映っていた。それを踏みつぶすように合鴨のカンタがガァガァ鳴きながら走っていく。こんなに暑い日の合鴨の世話当番は最悪だ。
夏休みの間、4年生は交代で合鴨のカンタの世話をすることになった。夏休み前にくじ引きで決めた当番はクラスで一番一緒にやりたくないと思っていた河合くんとだった。楽しみだった夏休みも当番のせいで憂鬱になった。
(今さら同じクラスになんてなりたくなかったな)
ジャッジャッっとリズムよくブラシをかける河合くんを見ながら汗をぬぐう。すると河合君は私の心の声が聞こえていたみたいにこちらを見た。ドキリとして目をそらすと河合君は持っていたブラシで餌箱を指した。
「白井、エサ箱の掃除たのむ」
私、嫌な態度取っちゃったかな。なんだか考えるだけでくらくらしてきた。手早くエサ箱の掃除をし、新しいキャベツを入れているとカンタが低く飛びながらキックしてきた。ペタペタとした足ヒレが太ももに直撃してざらざらの砂利がつく。
「ホント最悪……」
太ももを拭きながらカンタを睨むとカンタは翼を広げて怒りながら、けたたましく鳴いた。
「カンタ、やめろ」
河合君が言うとカンタはピタッと鳴き止んで不機嫌そうにその場に座り込む。
「すごい。カンタが言うことをきいた」
「カンタはキャベツが大きすぎるから怒っているんだ。ちょっとキャベツかして」
河合君に剥いたキャベツの葉を差し出すと彼は私の手に触れないように葉のはしっこをつまんだ。河合君がキャベツを小さくちぎってエサ箱にいれるとカンタは待っていましたとばかりについばみ始める。
「河合君って鴨の気持ちがわかるんだね」
河合君は「まあね」と言いながらキャベツを食べるカンタの背中をなでた。ふーん、カンタは触るのに私には指1本触れたくないんだ。
少しの間カンタの背中を撫でてから河合君はブラシを掃除道具入れに立てかけた。
「先生に掃除終わったって言いに行って来る」
そう言うと河合君は職員室に走って行ってしまった。1人取り残された私をカンタが笑うようにグワグワ鳴いた。
「何よ。私が河合君に嫌われているのがそんなに面白いの? これでも昔は毎日手をつないで遊んでいたんだからね。河合君は鴨の気持ちが分かっても私の気持ちは分かってくれないんだ」
気付けば話し相手と思っていたカンタはもう興味なさそうに鳥小屋の池で水浴びをしていた。鴨相手に愚痴を言っていた自分にため息が出る。寄りかかった鳥小屋の壁は熱くてじっとしていると頭がぼーっとなった。目をつぶれば昔のことが浮かんでは消えて行く。そう、あれは今日みたいに暑い日だった。
『咲ちゃん、一緒に行こう!』
そう言って小さな河合君は私の手を握った。その時が河合君に触れた最後だった。
私と河合君は幼稚園の頃からの幼馴染だ。私たちは『涼君』『咲ちゃん』と呼びあっていつも二人一緒だった。私たちの関係が変わったのは河合君の家の近くの公園で遊んでいた時のことだった。その公園には遊具のある広場の奥に小さな池がある。池は草木が茂っていて暗く、草の中に見える古い祠が不気味な場所だった。
「あの池には河童がいるって昔から言われているのよ」
「河童が? 河童って人を池に引きずり込むんでしょ?」
私はテレビの怖い話で全身緑色でぬめぬめっとした恐ろしい河童が池に人を引きずり込むのを見たばかりだった。
「怖がることなんてないわ。河童は人間と友達になりたいだけなのよ」
いつも優しい河合君のお母さんが微笑みながら教えてくれた。それでも私は怖くて池に近づくことはできなかった。
「ねぇ、涼君、どこにいくの?」
私の手をしっかりと握ったままどんどん池に近づく河合君に私は不安になって聞いた。すると彼は私の耳にこそこそ話をした。
「池だよ。咲ちゃんに僕の秘密の場所教えてあげる」
「え!」
その時、私の頭に浮かんだのは不気味な河童が私たちを池に引きずり込もうとする姿だった。
「池に行くなんていやだよ! 河童がいるかもしれないよ!」
「大丈夫だよ。河童は怖くないよ」
私が嫌がっても河合君は池の方へ手を引っぱった。河合君が私の手をぎゅっと強く握って離さないので私は思い切り河合君の手を突き放した。
「やめて! 私は河童が大嫌いなんだから!」
小さかった私は河童が怖かった。ただそれだけだった。でも私は河合君の心を傷つけてしまった。突き放された手を見ながらその場に立ち尽くしている河合君を置いて私は走って逃げた。それ以来、河合君は絶対に私とは手をつないでくれない。
気まずくなった私は河合君を避けるようになり、小学校に上がるとクラスも離れて話すこともなくなってしまった。そして4年生で同じクラスになると河合君は何事もなかったように私を『白井』と呼んだ。
「白井、暑いのか?」
目を開けると河合君が眉間にシワを寄せて私を見ていた。
「ううん。大丈夫」
私はわざとらしいくらい大げさに首を振った。昔を思い出していたなんて言えるわけがない。
「この暑さだからちゃんと水をのまないと倒れるぞ」
河合君がぐいっと水筒を飲む。私も自分の水筒に口をつけた。氷が解けて生ぬるいお茶は全然おいしくない。
「じゃあ帰るか」
河合君が言うと鳥小屋のカンタがグワッグワーと鳴いた。
「掃除お疲れ様って言っているのかな?」
「さあね」
河合君はそう言うとカンタをじろっとにらんだ。
帰り道、私は河合君の少し後ろを歩く。お互い何も話さないのでうるさい蝉の鳴き声がいつもよりも大きく感じた。公園まで行けば河合君とはバイバイだ。公園の近くまでやって来た時、河合くんが口を開いた。
「白井、あのさ……」
何かを言いかけた河合くんが振り返ると彼はすぐに驚いた顔をした。
「おい、顔が真っ赤だぞ」
「え、顔?」
いつの間にかジージーという蝉の声がボーゥボーゥという耳鳴りに変わっていた。
「あれ? おかしいな」
目の前の河合君の顔がゆらゆらと揺れている。
「暑さにやられたんだ。公園で少し休もう」
河合君はそう言うとどんどん公園に行ってしまった。
「待って、河合君」
熱のこもった身体はだるくて重くて、河合君の背中について行くのがやっとだった。
「え、ここって……」
河合君が連れてきたのは公園の池だった。丸い石に囲まれた池を見渡すと想像していたような暗くて不気味な雰囲気はなく、木々からこぼれた光が池の水をキラキラと照らしていた。河合君は木陰になった丸い石の一つを指差した。
「ほら裸足になってここに座れよ」
「裸足に?」
池の水は透明で底から水が湧き出し、小さな魚が泳いでいるのが見えた。池の前で戸惑っていると河合君が先に裸足になって池に入っていた。
「池の水は冷たいからすぐに身体が冷えて楽になるよ」
私は河合君に言われた通り裸足になって池に足をつけた。つま先からふくらはぎまで心地よい冷たさが包みこみ身体の熱をだるさごと取り去っていく。
身体がすっかり楽になると座っている場所の近くに祠があることに気付いた。中をのぞくと祠の中にはかわいらしい河童の置物が置いてある。私が祠を見ていることに気付くと河合君がぽりぽりと頭を掻いた。
「河童が嫌いなのに連れてきて悪かったよ」
私は少し考えてから首を横に振った。池は思っていたよりもずっときれいで、想像していた怖い河童には不似合いな場所だった。
「なんかこの池の河童なら友達になれそうな気がする」
「なんだよ、それ」
河合君は呆れ顔で言った。私には何で河合君がそんな顔をするのか分からなかった。
「何? 私変なこと言った?」
首をかしげる私に河合君はバシャンと池の水をかけた。
「ちょっとなにするの!」
顔にかかった水を拭うと河合くんがいたずらっ子みたいに笑っていた。
「まだ河童を信じているなんて咲ちゃんは変わってないな」
急に『咲ちゃん』なんて呼ばれたらなんだかくすぐったい。恥ずかしいのをごまかすように私も河合くんに向かって水をかけた。河合君は「うわっ」と言いながら池の中でよろめいた。
「やったな」
そこから水のかけ合いが始まった。バシャバシャと舞い上がる水は細かなつぶとなり小さな虹がきらめいた。池に二人の笑い声が響き渡る。
「なんか昔に戻ったみたいだね」
びしょ濡れになった身体に池を吹き抜ける風が気持ちいい。河合君は私に手を差し出した。
「え?」
「昔はよくつないでいたじゃん」
「うん、そうだけど……」
「俺の手って冷たいんだ。ほら」
私はドキドキしながら差し出された河合くんの手に自分の手を乗せた。
「な、冷たいだろ?」
そう言って河合くんは昔のように私の手をぎゅっと握った。
「白井が俺と手をつなぎたがっているってカンタが言っていたぞ」
「えっ! カンタが!?」
声が裏返り、夏の暑さとはちがう熱が顔をほてらせる。河合君の手は冷たくてカンタの水かきみたいにペタペタとしていた。
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