幽霊嫌い
隣の部屋から聞こえてくる泣き声に、マリはびくりと肩を震わせて畳んでいた洗濯物を取り落とした。
隣の子供部屋で泣いているのは娘のユミである。ユミはこのマンションに引っ越してきた頃から妙な事を言い出すようになった。
部屋に知らない人がいる、というのだ。
マリはユミの泣き声が聞こえるたびに子供部屋へ急ぎ、ユミを宥めていた。もちろん部屋にはユミの言うような人間はいない。ユミは窓から出て行ったと言うが、隣の部屋のベランダからそう簡単にこちら側へ移ってこられるはずもない。
ユミの幻視は、おそらくは環境が変わったことによる一時的な精神の動揺によるものなのだろうとマリは考えている。頭ではそう理解しているのだが、何度も続くうちに徐々に不気味なものを感じ始めていた。
それに、このマンションはアクセスや築年数の割に家賃が安い。管理人は日当たりのせいだと言うが、もしかすると過去に何らかの因縁がある物件なのではないだろうか。仄かな疑念に、マリの胸はざわついた。
ユミの泣き声は続いている。さっきよりも一層大きくなったようだ。
マリは小さく溜め息をつくと、立ち上がって居間を出た。
もしも本当に霊がこの部屋に取り憑いていたらどうしよう──。
マリは昔からその手の話が大の苦手である。
ユミを安心させるために今まで何度も「お化けなんていない」と言い続けてきたが、本当のところマリは幽霊の存在を信じている。
信じているから恐ろしいのだ。
嫌だ。
嫌だ。嫌だ。
いつものように、誰もいない部屋でユミが一人で泣いているに決まっている。
マリは意を決して子供部屋のドアを開けた。
学習机にすがりつくようにして泣き続けているユミ。
その横に──見知らぬ男性が立っていた。
「い──いやあああああっ!」
マリは悲鳴を上げた。
男が警戒の姿勢を取る。
マリは床を蹴った。
飛びつくようにして、体ごと男にぶつかる。
その手にはしっかりと包丁が握られていた。
「あ──え?」
男は予想もしていないといった表情でマリを見やった。
「嫌っ、嫌っ、嫌ああああっ!」
叫びながら、マリは男の腹部を何度も突き刺す。
ぐぢゃりぐぢゃりと湿った音が響き、鮮血が壊れた蛇口のような勢いで流れおちては子供部屋のカーペットを赤黒い色彩に染め上げる。
「あああああっ、あああああああっ!」
絞り出すような叫び声をあげ続けながら、腹部に埋没した包丁をぐりぐりと押し込む。
ごつん、と包丁の先が硬いものに触れた。
刃が骨に達したのだ。
構わず無理矢理に力を込める。がりがりと削れる音と共に包丁は背骨を滑り、背中へと貫通した。
包丁を引き抜く。背中の穴からもびゅうと血が噴き出した。
男は呆けた表情のまま崩れ落ちた。
マリはすかさず男の上に跨る。
「嫌──」
恐怖に歪んだ顔のまま。
マリは逆手に持ち替えた包丁を、顔面に向かって何度も何度も振り下ろした。
いつの間にか、夕日が窓から差し込んでいた。
血だるまになって事切れている男を見やって、マリはゆっくりと息を吐いた。
何度も骨に当たったせいでぼろぼろに刃こぼれしている包丁を床に捨て、真っ赤に染まった両手を握ったり開いたりする。まだ暖かい男の血液がにちゃりと糸を引いた。
「なあんだ……人間じゃない。ごく普通の、生きてる人間じゃないの。恐ろしい幽霊なんかじゃなかったんだわ」
呆然と立ち竦んでいる愛娘を振り返って、マリは微笑んだ。
「ああ、良かった」