往来と読書
イギリス、ロンドンのピカデリー通り。私は、ピカデリー通りの小さな仕立て屋で、真新しいタキシードに身をつつんだ。これから私はパーティーへ向かうのだ。わくわくする気持ちを抑えようと、意識的にぼうっとするようになぜか努めている。
空を見上げてると、少し雲があるが、晴天である。日本晴れとはいかないものの、ロンドンの曇り空は、どこか風情がある。そよ風が心地よい、昼下がりである。
パーティーまで少しばかり時間がある。私は大通りに面したカフェに入り、紅茶とフィッシュ・アンド・チップスを注文して、店外のテーブルに腰を下ろした。
英国人は教養があって、どこか小悪たらしいと、夏目漱石は言ったらしい。私は突然、そんな言葉を思い出して、ひどく不安になった。隣の席の男は、ぎちぎちに文字が詰まったテレグラフ紙を片手に、偉そうな態度でコーヒーをすすっている。他の男たちも、我こそは教養人と言わんばかりの態度で、アフタヌーンティーを過ごしている様子である。
私も負けじと、ジョン・キーツの詩集を片手に、往来を眺めていた。あまり読めるわけではないのだが、それを手にしていると、なぜか安心するのである。
さあ、キーツを読もう、という気があまり起こらなかったために、私は本を閉じて、しばらく往来を眺めていた。人に混じってただ同じ方向を歩いているときには気づかなかった、新しい発見があるような気がした。往来を横目に見つつ本を読む。私は、往来と読書をしていた。足早に立ち去る人、鼻唄を歌いながら歩く人、スワヒリ語を話す人々などそれぞれである。
そしてそこは、確率論ではとうてい示すことのできない、新しい偶然性に満ちていた。私は突然、愉快な気持ちになった。永遠と続くかに見える図書館の長い書架を歩きながら、一冊の本に出会って喜んでいる自分の姿と重なった。この往来という、開かれた空間の中に、目に見えぬ輝く一粒のダイヤモンドを、 見つけた。
そして、私はふたたび本を広げて、キーツ詩集を読みはじめた。書斎という閉じられた空間ではなく、往来という開かれた空間を背景にして。
すると、あごひげをいじりながらガーディアン紙に目を通していた隣の英国人が、私に話しかけてきた。寸分違わず左右対称にきちんとネクタイを締め、洒落たサスペンダーをしている。彼の名は、Jack Williams と言った。
私はキーツの詩集を彼に見せた。すると彼は、「私のお気に入りだ。小さい頃から知っている。でも、あまり読んだことがない。」と言った。それを聞くと、私はホッと胸を張ってなでおろした。そしてこう思った。「私も枕草子や源氏物語といったタイトルは知っているが、中身をじっくり読んだことがあまりない。それと同じだ。」と。
そして私たちは一緒にキーツを読んだ。もうすぐ日が暮れる、夕方の茜色の空を読書灯にしながら、詩を読んだ。
彼は言った。「知っているか知らないかが重要なのではない。たまたま手に取った本が一人ひとり違うからおもしろい。教養人は無知を馬鹿にしたり、知識をひけらかしてはならない。むしろ相手を尊重して、出会ってきた本について語り合いたい。」と言った。
一時間くらい経った。いつのまにかJack Williams は居なくなっていた。そして私は席を立ち、キーツの詩を口ずさみながら、パーティーへと向かった。




