影響4 海に沈む国
サッカー観戦が好きな女性 ヘデラ・ヘリックス〈24)は、この日サッカー・ワールドカップ予選で自分の国、マロン国の選手達を応援しに、アウェーの国、ロータス国にやってきた。
ヘデラはこの国、ロータス国が地球温暖化による影響で国土が水没の危機に瀕しているため、これが最後の予選参加であることはすでに知っていた。
しかし、具体的にどのような状況に置かれているのかまでは、把握していなかった。
彼女は空港の窓口で両替を済ませ、受付の人にお願いして、空港からホテルに向かうタクシーを呼んだ。しかし、その時から現地の人達にただならぬ悲壮感が漂っていることに気がついた。
10分後、タクシーが到着すると、ヘデラは早速乗り込んでいき、運転手の人に宿泊するホテル名を告げた。
彼女は運転手の男性と話しかけながら、気になっていたことを打ち明けた。
「どうしてこの国の人達は、雰囲気が暗いんですか?」
「分からんかね?この国は地球温暖化による海面上昇のため、近い将来、沈んでしまうんだ。」
「本当に、沈んでしまうんですか?」
「ああ、あと数年もすれば沈んでしまう。もう誰にも止めることは出来ん。すでに多くの人達がこの国に住むことをあきらめ、環境難民となって海外に出て行ってしまっている。私も家族を連れて、どこか別の国に移らなければならん。」
「…行く宛てはあるんですか?」
「現段階では全く立っていない。どこの国に行くのかも全く不透明だ。貯蓄もないし、ただでさえ生活も厳しい状況だ。食料だって海外からの救援物資に頼っている。こんな時に海外に移住しろなんて無茶を言うにも程がある!だが決めなければならん!」
「そうですか…。」
しゃべりながら次第にきつい口調になっていく運転手の後ろ姿を見つめながら、ヘデラは次第に申し訳ない気持ちに襲われるようになった。
海辺にあるホテルに到着すると、ヘデラは運転手にあいさつしてドアを閉めた。
そしてタクシーが走り去っていくのをじっと見届けると、ホテルに入っていった。
入口では、従業員が雑巾で床を拭いていた。
ヘデラは不思議に思い、チェックインを済ませると早速フロントの人に聞いてみた。
「この人達は何故一生懸命床を拭いているんですか?」
すると、フロントの人は神妙な表情で答えた。
「君は5日前に、ここで何があったのか知っているかね?」
「台風ですか?」
「そのとおりだ。」
「でも、あの台風はここをそれていったはずではないですか?それにそんなに大型ではなかったですし…。」
「あの時、海が大しけになった影響で、海水がここまで押し寄せてきたんだ。おかげでフロントは水浸しになった。」
「海岸までは距離があるのにですか?」
「ああ。あんたの住んでいる国では大したことにはならなかっただろうが、海抜の低いこの国では深刻なことなんだ。」
「…そう…ですか…。」
それ以上何も言えなくなったヘデラは、沈んだ表情でフロントの人にあいさつをすると、自分の泊まる部屋に向かって歩いていった。
部屋で荷物を下ろすと、彼女はホテルを出て、外を散歩しに行った。
タクシーに乗っていた時には、運転手と話をしていたせいで気づかなかったのだが、住民達があちこちで地面にマットを敷いて座り込み、お恵み下さいと言いたげな素振りをしていた。
そのうちの一人はヘデラを見かけるなり、彼女のところに近づいてきて、「1クレジット(日本円で大体180円ぐらい)だけでもいいから恵んでください。」と頼み込んできた。
ヘデラは最初、無視して通り過ぎようとしたが、その人の懸命なお願いに押され、ポケットに手を入れ、財布を出そうとした。
しかしまわりに何人もの人がいるのを見て、(ここでお金を恵んでしまったら、後から後から手が伸びてきて、大変なことになるかもしてない。)と直感した。
そして慌てて手をポケットから出し、「すみません。」と言いながら頭を下げると、振り返り、来た道を引き返そうとした。
背後からは
「だめなんですか?子供達にせめてビスケットだけでも恵んであげたいだけなのに…。」
といった、悲しげな声が聞こえてきた。
ヘデラはそれを聞くと、一瞬どうしようか迷った。
(この国がこんな状況になったのも、元をたどっていけば、私達が地球温暖化を食い止められなかったのが原因のはず。もし私があの人だったら、どんな気持ちなのだろう…。)
ヘデラはやろうと思えば、このまま立ち去っていくことも出来た。
しかし、善意がそれを許さなかった。
彼女はまた振り返って、その人のところに行くと、財布を取り出し、10クレジット紙幣を取り出した。
そして、その人の前においてある金属の入れ物の中に入れると、追われるようにして一目散にホテルに向かって走り出した。
お金を恵んであげた人がそのあとどういう行動に出たのかも、全く把握していない。とにかく、自分の身を守ることしか考えていなかった。
走っている間、彼女は他の人達が自分目がけて襲い掛かってくるのではないかという恐怖感に襲われていた。
ホテルに着くと、彼女はその後、外を歩くことがおっかなくなり、じっと部屋の中に閉じこもりながら過ごしていた。
その日の夕食は、彼女が自分の国から持ってきたカロリーブロックだった。
翌日、ヘデラはホテルのフロントでタクシーをお願いしてサッカースタジアムに行った。
スタジアムに到着すると、早速アウェーサポーター入場口に向かって進んでいった。
しかし、彼女は会場に着いた時から、これまで感じたことのない、異様な悲壮感が漂っていることが気になっていた。
やがて試合開始時間が近づき、両国の選手達がピッチに姿を現した。
すると、ホームのサポーター達が次々と横断幕を出してきた。
そこには彼らの正直な気持ちを表現されていた。
「絶対に行こう!ロータス国最後のワールドカップの舞台へ!」
「国土水没前に、最高の思い出を残していこう!」
そのメッセージを見て、ヘデラはますます申し訳ない気持ちでいっぱいになってきた。
(もしも今願いが叶うのであれば、地球温暖化を食い止めたい。そしてこの国の水没の危機を救いたい。もう、手遅れなのはわかっているけれど、でも…。)
彼女はロータス国の人々に思わず同情を寄せたが、それでも次の瞬間には自国の選手達に向かって、出せる限りの大きな声を出し始めた。
そして、いよいよ試合開始となった。
ロータス国の代表は、この試合でマロン国に負けたら、その時点でワールドカップ出場の夢が永久に消え去ってしまう状況になっていたため、出だしから悔いを残すまいと必死に攻め上がってきた。
そのために何度かゴールを脅かされるシーンがあったが、実力で上回るマロン国の代表選手達は冷静に対処し、ゴールを死守した。
その後は、じっくりと冷静に機会をうかがった後、相手の隙をついて反撃に出た。
そして、前半16分と20分に立て続けにゴールを決め、前半を2対0で折り返した。
後半になっても流れは変わらず、マロン国の代表選手達は相手ゴールに次々とシュートを浴びせ、後半12分に3点目のゴールが決まった。
もはやこの時点で勝負あったと思われる状況だったが、それでもロータス国の代表選手達は足がつっても死に物狂いで走り続けた。
もはやこの試合で死を覚悟するぐらいの、そんな闘志さえ感じられた。
そんな気持ちにマロン国の選手達は圧倒されたのだろう、後半43分、相手に一瞬の隙をつかれて、独走を許し、1点を返された。
ロータス国の選手達はボールを拾い上げると、一目散にセンターサークル目がけて走り出し、試合を再開させた。
彼らの国は、引き分けならば首の皮1枚つながるだけに、もはや極度の疲労で動かないはずの体を無理やりに動かしながらゴールに襲い掛かってきた。
その勢いに押されたのだろう。マロン国の選手がペナルティーエリア内でハンドを犯し、PKを献上してしまった。
そしてPKを決められ、後半ロスタイムに入った時には、スコアは3対2になっていた。
こうなってはスタジアム内のロータス国のサポーター達は、全員が出せる限りの大声を出し続けて、選手達を後押ししていた。
その迫力に、ヘデラ達は足がすくみ、恐怖感を感じながら試合を見守っていた。
しかし、その迫力もそこまでだった。
結局試合は3対2のままタイムアップしてしまった。
この瞬間、ロータス国の最後のワールドカップ出場の夢は、消えた。
最後まで同点、逆転を信じて死に物狂いで応援し続けていたサポーター達は、泣きながら崩れ落ちるようにして椅子にへたり込んでしまった。
その光景はヘデラにとっても胸の痛いものであった。
(ごめんね。本当は私だって、あなた達に勝たせてあげたかった…。水没してしまう前に、あなたの国をワールドカップに出させて、最高の思い出を作らせてあげたかった…。でも…、これは勝負だから…。)
そう思っていると、サポーター達が次々と横断幕を出してきた。
そこには次のようなことが書かれていた。
「私達は、サッカー代表が永久に見られなくなっても、その勇姿を決して忘れない!」
「この国で生きた誇りを、いつまでも語り継ごう!」
「みんなが別々の国に別れて住むことになっても、心はいつまでも一緒でいよう!」
「今まで感動をありがとう!」
スタンドのサポーター達は、みんな泣いていた。
彼らだけではない。ヘデラ達も、ピッチ上にいる選手達も、みんな泣いていた。
地球温暖化のために、国が消滅してしまう。
今は近所に住んでいる人達も、これからは遠く離れた土地に離れていってしまう。
そうなったら、もう2度と会えなくなるかもしてない。
さらには、この予選が終わったら、サッカー代表は解散し、選手達はこれから別の国の代表選手を目指していくことになってしまう。
スタジアムにいるサポーター達も、これからは自分の国を捨てて、各自で移住していった国を応援することになってしまう。
彼らはこれから先、そんな重い現実が待ち構えている。
でもせめて、今だけはそんな気持ちを忘れようと、スタジアムにいる誰もがピッチ上にいる両チームの選手達の健闘を称えていた。
誰もが精一杯の声援を送り、拍手を送っていた。
5年後、ロータス国は、世界地図から永久に姿を消した。