第八節 ボウヤ (Side:隆司)
トンコツスープは確かにコッテリ系だったが、意外とあっさりしていた。
「……おいしい」
「でしょ!?」
嬉しそうに、吉良が言った。
「父さんの作るラーメンは、すっごくおいしいの!」
「……父さん?」
「ここ、私の家なんです」
そう言われて顔を上げる。ガタイの良い店主はともかく、おばさん店員には吉良の面影が僅かに残っている。
「…………」
「だからまた来てくださいね、先輩。サービスしますから」
「…………」
一瞬悩んだが、頷いた。吉良は笑顔になった。
「あたし平日は部活でいませんけど、ちゃんと言っときますから」
吉良はにっこり笑って言った。
(どうせ俺が女の子にモテる筈がないんだ)
心の中で呟く。
(だから、俺はショックなど受けていない。別に彼女は好みじゃないし、期待とかもしていなかった)
なのに、この虚しさはなんだろう。隆司は自分の胸を撫でた。
「高村先輩、後で家に来ませんか?」
吉良は言って、スープをすする。
「……え?」
思わず声がかすれてしまった。だが、吉良は全く頓着しない。
「お茶か珈琲でも入れますよ」
その笑顔が可愛くて、一瞬心が揺れた。しかし、脳裏に百々加の姿が浮かぶ。
『付き合いはしても遊ぶなよ。あくまで仕事だ』
ギクリと隆司は身をすくませる。
(そうだ。これは仕事だ。忘れちゃいけない)
気を引き締める。
「ごめん。用事があるんだ。メアドと電話番号教えてくれないか。後日お礼したいから」
隆司が言うと、吉良はあっさり頷いた。
「イイですよ。先輩のも教えてください」
隆司は頷き、互いの連絡先を交換しあった。
「あたし、剣道部なんですよ」
「剣道部?」
隆司がキョトンとすると、吉良はガッツポーズを取る。
「これでもスポーツ特待生なんです」
「そうか」
そう言って頷いてから、何の取り柄もない自分と比較して、軽く落ち込みながら、
「それはすごい」
と言った。吉良は嬉しそうに、顔を綻ばせる。
「今年は絶対全国行きますよ。だから、応援してください」
吉良の言葉に、隆司は無言で頷いた。ネギラーメンは580円だった。財布からちょうどの金額を取り出すと、テーブルに置いた。
吉良は丼の底に麺が残っていない事を確認して、スープの中にライスを投入したところだった。立ち上がろうとする隆司に気付いて、顔を上げる。
「もう行っちゃうんですか?」
隆司は頷いた。
「また今度」
そう告げて店を出た。風が冷たく感じた。辺りを見回すが、シュウも百々加もいない。隆司はため息をついた。
(まぁ、別に俺には関係ないんだけど)
チリチリと胸が痛むのを無視して考える。
(シュウじゃ駄目だと思うんだよな)
何が駄目なのかまでは、思い至らない。
「こんな事考えてる場合じゃない」
気分を切り替えて、スタスタ歩き出す。既に日が落ちていた。ともり始めた光明の間をゆっくり見回しながら、黙々と歩く。
隆司の特技は、《第六感》だ。時折不意に明瞭・明確に閃く。隆司自身はあやふやなもの、不確かなものを認めてはいないのに、信じてもいないその感覚によって、何度か救われている。
オーナーかつ従兄弟でもある恭一郎に救われ、シュウと出会ったのも、それがきっかけだ。しかし、それ以前に死んでいた可能性が大だった。
二年半前の事だ。夜中に不意に目覚めた。原因は判らなかったのに、行くべき先が台所だという事が判った。
そこには叔父であり、保護者であった高村和豊の恋人が、倒れていた。
『里織さん?』
返事はなかった。だが呼吸はしていた。近付く床が何かヌルリとしたもので濡れていた。嫌な予感がした。
と同時にガスの臭いを感知した。テーブルの上に、携帯電話が置かれているのが目に入った。
助け起こさなくちゃ、と思ったにも関わらず、身体は逆に動いていた。裸足のまま、パジャマのままで逃げ出した。
玄関先まで辿り着いたところで、爆発音と爆風に襲いかかられた。玄関扉に打ちつけられ、額などから血を流しながらも、扉を開け放った。背後に熱を感じた。
隆司は叫び、転がるように階段を駆け降りた。知らぬ内に、子供のように泣きわめいていた。
『助けて、助けて、助けて……っ!』
声が枯れるほど。
気付くと病院のベッドで寝ていた。傍らに新見恭一郎が、その両親と共にいた。
『……恭……?』
『とりあえず安心しろ』
恭一郎は言った。
『周りの雑音は煩いだろうが、気にするな。その内静かになる』
『…………』
『命に別状はない。気分はどうだ?』
『……気持ち悪い、最悪』
嫌な夢を見たと思った。あれは全て夢なのだと。
『和豊がいない。お前の母の弟、お前の叔父だ。心当たりは?』
『え?』
『最後に和豊を見たのは?』
嫌な予感がした。
『夕飯食べた時』
『同じ事を何度も聞かれるだろうが、気を確かに持て。治療・入院費その他はうちで出す』
『……なんで?』
恭一郎は眉間に皺を寄せた。
『和豊がいないからだ』
和豊がいない――その意味を理解できたのは、翌日以降だ。
和豊が重要参考人である事を知った。その失踪、そして残された和豊名義の多額の借金、そして里織の死――刺殺されていた――と、住んでいたアパートの全焼を。
里織と和豊は婚姻していなかった。しかし里織には、まるで母のように、姉のように、世話になっていた。
二人とも社会人で独身だった。だから、いずれは結婚するのだろうと思っていた。
里織は事務員、和豊は教師。二人とも金遣いが荒いという事はなく、むしろ慎ましい生活だった。
なのに知らされる、和豊のパチンコ通い、麻雀、競馬、株、飲み屋のツケ、横領。
『和豊叔父さんが?』
信じられなかった。平日は遅くても八時までには帰宅し、土日祝日も遊んでいる姿を見た事がなかった。
『暗示とか催眠術って知ってるか?』
恭一郎は言った。
『人は、自分が信じたい物事を信じる』
それから恭一郎は唇を歪めた。
『知りたいのなら、事実を教えてやる。だが、たぶん知ったら後悔する』
『……何故』
『趣味だ』
恭一郎は事も無げに言った。
『ちょっとした、な。暇つぶし、とも言う。伊達と粋狂で、数年前に事業を始めた』
『…………』
『《探し屋》、だ。坂木という男の名を借りて作った』
思わず眉をひそめた。
『それは犯罪じゃないか』
『大丈夫。坂木は一応二週間に一度出勤して、交通費込みで手当ても支払っている。別に僕の名を使っても良かったが、知名度が低く、実績もないんでね。人材は優秀なんだが』
『何の会社だ?』
『だから探し屋。いわゆる私立探偵事務所とか興信所みたいなものだ』
恭一郎は淡々と言った。
『何を探すんだ』
『物、人、情報。金さえ貰えれば、合法・非合法に限らず、依頼を請け負う』
『……金はないぞ』
隆司の言葉に、恭一郎はニヤリと笑った。
『知っている。だから粋狂だ。気が変われば、教えろと言われても、二度とは教えない』
『……嫌がらせか?』
隆司が眉をひそめると、恭一郎は笑った。
『そうかもな』
『…………』
『知りたくなければ、知らないまま、キレイな嘘と他人の情けにすがって、自分の信じたい事を信じて、偽善者ぶって生きろ』
『……嫌な言い方だな』
『甘ちゃんボウヤには、それが似合いだ。せいぜい周りの機嫌取ってろ。幸いお前は無愛想だが、真面目で成績優秀でウケが良い』
『別に俺は……』
『お前は自立してないボウヤだ。他人のお情けで生かして貰ってるだけの』
『働けと言うなら、直ぐにでも学校を辞めて働く』
『お前には無理だ。お情けで養ってやるから、それに甘えろ。俺の収入だけでも、お前一人くらい十分に遊ばせてやれる』
『……何だと?』
『ただ、一つだけ聞きたい事がある。お前はあの時、何故目覚める事が出来た?』
『……どういう意味だ』
隆司は恭一郎を睨みつけた。
『お前は夕食後の記憶がない。おそらく《暗示》にかかっていたのだろうと推測するが、その頃和豊は逃げていたのに、何故正気を取り戻して逃げる事が出来た?』
『暗示になんてかけられていない』
『だが、記憶は?』
『忘れてしまっただけだ。その内思い出せる。ふざけた事を言うな』
隆司の言葉に、恭一郎は首を大きく横に振った。
『少しは参考になると思ったのに、残念だ』
隆司は恭一郎を無言で睨む。恭一郎は手に持っていた封筒をビリリと破いた。
『和豊の正体は詐欺師だ。副業で教師をやっていた。気になるなら、ヤツの通帳明細を見ると良い。とんでもない額の入出金がある』
そして恭一郎は去った。暫くは気にしなかった。
だが、連日の事情聴取、マスコミ攻勢に、本当に和豊に罪がなかったのか、自信がなくなってきた。
『教えてくれ』
そう言った隆司に対し、恭一郎が返した答えは、
『今更だね』
だった。
『土下座されても教えない』
『じゃあ、どうしろと言うんだ』
『そうだな』
恭一郎は頷いた。
『僕にお前の誠意を見せろ。その結果次第では、考えてやっても良い』
それが、始まりだった。