②
「ただいまー!」
「お……お邪魔します」
あの修羅場の爪痕が一切消え去った、翌日の夕方。日も暮れかかり始めている頃、部活動が終わった制服姿の『彼氏』が、同じく制服姿の「彼女」と共に自宅へと戻ってきました。夏の時期は彼の部活にとってまさに本シーズン、しっかりと高校にある設備で練習を重ねて、自らのレベルを高めるという非常に重要な期間です。そして、現在の彼女は、そんな『彼氏』の姿にいつも憧れていました。ずっと天の上、自分では絶対に届かないだろうと思われていた存在が、今や彼女の傍らにいるのです。
そして、元気な声で挨拶をし、その横で少々緊張していることを隠さないかのような声の彼女を迎えたのは……
「お、おかえりなさい……」
「おかえりー!」
先に中学校から帰宅し、ご飯を作っていた妹とその『兄』……彼女にとっては『彼氏』である青年でした。決して二股をしている、という事ではありません。家の中で待っていた『兄』も、外から帰ってきた『彼氏』も、服装の違いを除けば髪型も、声も、黒子の位置も、そして朝早く起きて作った朝食で少々卵焼きを焦がしてしまった記憶も、何もかも同一の存在なのです。一体どういう事なのか、それを確かめるべく、彼女はこの家を訪ねたのです。その姿を確認した妹のほうは既にジーンズにTシャツのラフな格好と言う外出の準備を整えていたようで、ぎこちなく玄関まで歩いていきました。
「「いってらっしゃい!」」
妹にとっての『お兄ちゃん』、彼女にとっての『彼氏』である青年の顔が二つ並び、ユニゾンした声に見送られながら妹と彼女は一緒に外へと出て行きました。目的地は妹が知っています。普段から彼女が隠れ家、秘密基地のように使用していたビルとビルとの間の薄暗い場所……
「……ここで、いいの?」
「う、うん……」
狭い路地を何度も進む中でも、二人は一言も言葉を発しませんでした。当然でしょう、昨日あれほど悲惨な状態を作り上げてしまったのですから。しかし、どちらとも互いへの憎しみや恨み、嫉妬などの心は不思議と非常に小さくなっていました。むしろ、あの時からつい先程まで続いている理解を超えた出来事に対する事柄が脳内を支配していたようです。何とか両者が声を発したのは、目的地に着いたときでした。確かにこんな場所なら誰にも見つかることはなさそうですし、都合よく座れそうな綺麗な段ボール箱も二つ並んでいます。ただ、そこからどう会話を続けてよいのか、きっかけがなかなか掴めないまま、太陽の光は次第に小さくなっていきました。
「……な、なんだか喉が渇いちゃったなー」
硬い棒読みのまま、学生鞄を探ろうとする彼女でしたが、タイミング悪くペットボトルを持ち合わせていませんでした。学校の中でも緊張の余り水分補給を忘れていた「彼女」は、何の気なしに呟きました。
ペットボトルでも入ってれば良いのに、と。
その時でした。隣の段ボールに座る妹のジーンズのポケットが、突然明るく輝きだしたのは。当然彼女も妹も眩さに目を反らしながら驚いたのですが、それ以上に彼女がびっくりしたのは、その光の色があの時……自らが壊した石の欠片の一つが発した緑色そのものだったからです。数秒間光り輝いた後、再び辺りは静かな太陽の光に包まれていました。そして、同時に彼女の鞄の中が妙に重くなっていました。そして、中身を開けると……
「……う、嘘……」
買い忘れて、自らがほしいと願っていたペットボトル入りの緑茶が、堂々とスペースを占領していたのです。しかも、1リットル入りの大物。恐る恐る蓋を開けて飲んでみたのですが、間違いなく本物の緑茶、しかも彼女的にすごい大好きな味でした。間違いなく自分はこういうのは買っていないはずですし、これくらいの量だとここまで来るまでにそれなりに鞄の重みは増していたはず。一体何がどうなっているのか、唖然としながら呟いた時、隣に座っていた妹が静かにその口を開きました。
「間違いない……」
「……え?」
そして、妹は低い口調のままですが、はっきりと彼女の目を見上げて言いました。原因は、間違いなく例の「宝石」である、と。父と母の形見である石の中に封じ込められていたであろう宝石が、願いを叶えた、と言うのです……。
確かに普通なら、誰もそのような事を信じたりはしないでしょう。そんな馬鹿な、と一笑されるのがオチです。しかし、今回の場合、聞き手である彼女も確かに目撃していました。自分の『彼氏』であり、妹にとっての『お兄ちゃん』である青年が、この宝石が光り輝いた直後に、自身の願いどおりに「二人」になっていたのを。正直なところ、彼女のほうもずっとその可能性を考えていました。あの宝石に何かしらの秘密がある、と。
「そして、叶えられる願いは一つだけじゃない……みたいですね」
「う、うん……」
「彼女」に対する妹の口調が元の敬語に戻っていたのは、あまりにも自然すぎる流れの中だったので彼女は突っ込めませんでした。ただ、それでも「彼女」には気になる事がありました。あの二人の『彼氏』は何者なのか。よく映画やアニメですと、どちらかが本物でどちらかが偽者、という流れになることが多いものです。もしかしたら、同じ高校に行って共に遊び、部活動や自主トレを頑張っていた『彼氏』が、本物に成りすましたコピーである、という可能性もあるでしょう。そこら辺はどうだったのか、と恐る恐る尋ねた彼女に、妹はすぐに返事をしました。十数年も一緒に過ごしてきた自分でも、どちらの『お兄ちゃん』が本物なのか、一切分からなかった、と。
「学校に行った『お兄ちゃん』も、家に残った『お兄ちゃん』も……どっちも全く同じで……」
そういえば、彼女の方も妙な違和感がありました。いきなり自分が二人になる、なんていう事態になったら当然ながら物凄く驚き、恐れおののくはずなのに、『彼氏』君は仰天するどころかもう一人の『彼氏』君と自然に会話し、何の違和感も無く接していました……。そこから導き出される答えは、彼女の中で一つに絞られました。
「もしかしたら……元々『彼氏』君が……」
「はい……二人に増えたんじゃなくて、元から『お兄ちゃん』は二人だった事になってるんじゃ……」
そして、二人はまた沈黙の中に包まれました。ですが、今回の沈黙は今までずっと味わってきた辛い時間ではありませんでした。双方とも絶対に解決が不可能だと思われてきた問題が、とうとう解決への糸口を……いや、長い長いトンネルを抜けて、解決と言う名の終着駅へと辿り着いていたのです。一つのものを巡って争うならば、それと全く同じものを二つ揃えれば良い。かけがえの「ある」ものだからこそ、解決できる場合もある……。
「あ、あの……」
妹から恐る恐る出た言葉は、決して刺々しいものではなく、むしろ少々萎縮しているような感じでした。その掌には、緑色にうっすらと輝く例の「宝石」がありました。どんな無茶な願いも叶えてくれる、まさに夢のようなアイテム。ですが、その威力は世界を変えてしまうようなものだったのです。このような怖いものなど自分には持てない、だから代わりに預かってほしい。
言い終わった妹の目は、「彼女」から高い位置でじっくりと眺められていました。そして、動いた彼女の掌に、一瞬殴られたり叩かれるのではないか、と思った妹は目を反らしましたが、直後に感じたのは暖かく、そして優しい感触でした。そして、それと同様に「彼女」の顔には疲れをにじませた形ですが、笑顔が少しですが見えていました。
「これ、貴方のお父さんやお母さんの形見なんでしょ?」
そのような大事なものを、自分が持つわけにはいかない。
貴方の『お兄ちゃん』のために、しっかりと見守って欲しい。
……一気に口から出た言葉に、妹もですが彼女本人のほうも信じられないといった顔を見せていました。昨日あれほど凄まじいほどまでの喧嘩をしていたはずなのに、どうしてこんな優しい言葉が出るのだろうか、と。ただ、この一言がどうやら「彼女」の隣にいる背の低い少女の涙のダムを決壊させたようです。
「妹」にとっても、このような経験は初めてでした。兄に打ち明けることの出来ず、一人で思い悩むことなど今までずっとありませんでした。だからこそ、今日は何もかも手につけられず、混乱の渦の中にあったのです。ただ、そこから引き上げてくれたのがまさか「彼女」であったとは、誰が予想できたでしょうか。
……こうして、二人の少女が抱える問題は、一切考慮していなかった「奇跡」によって解決を見ました。
しかし、「奇跡」というのは総じて限りなく湧き出る人間の「願望」を元に、偶然叶えられたというもの。彼女たちの手元には今、「奇跡」を思い通りに起こすことの出来る手段があります。そして、これを起こすきっかけとなる溢れんばかりの「願望」……『お兄ちゃん』であり『彼氏』である『彼』への欲望が。




