Ⅶ 偽り
ⅩⅡ 偽り
1
日菜は外国に連れて来られたように感じた。
建物がまるで、西洋の美術館のよう。
ホールの高い天井は何段も折り上がり、花と蔦をモチーフにした華麗なシャンデリアが下がる。
床は大理石。
廊下に並ぶドアの一枚一枚が大きく、日本人の住宅サイズじゃない。
吹き抜けの廊下は、連続する柱と柱の間がアーチ状で、手摺の装飾も凝っている。
部屋のカーテンには、重厚感のあるドレープ。
通された部屋は広過ぎてがらんとしているのに、アンティークの椅子とテーブルは趣きがあり、曲線が美しい。
日菜が監禁された部屋の窓から、近くに建つ教会の屋根が見える。
屋根を見る角度からして、三階か四階にある部屋だ。
窓から逃げ出すのは、難しいだろう。
床には埃が積もっていた。
最近使用した形跡のない部屋だった。
日菜は紅島か、カノンが助けに来てくれることを期待した。
カノンは警備班を付けてくれると言っていたから。
その警備班がノグチの妨害に遭い、日菜を見失っているとは、夢にも思わない。
しかし、時間が刻々と経過していくと、日菜も少しずつ希望が薄れ、疲労してきた。
何時間か過ぎ、パンとスープの食事が出た。
日菜はアンティークの椅子に座り、パンをちぎって食べた。
見張りの男に、ここはどこなのか、英語で聞いてみたけれど、男は英語がわからないというジェスチャーをした。
食事の後、杖をつく足音が聞こえ、入口のドアが軋みながら開いた。
部屋に入ってきたのは、白髪の老人。
頭頂に既に髪はなく、眉も白く薄い。
鼻が顔の中で最も大きなパーツであり、瞼と頬が弛み、顎が首に埋もれていた。
老眼鏡を掛け、青い目に表情はなく、上質のスーツに身を包み、手に杖と手袋を持つ。
老人は日菜を遠慮なく凝視し、何か秘書に命じた。
若い男の秘書が、彼女の鞄を取り上げ、荷物を全て床に投げ出した。
日菜は銃を身に付けておいて、よかったと思った。
秘書は物理のノートに気付き、専門家に調べさせる為、部屋の外へ持って出た。
老人は貫録のある、太鼓のような腹を揺すり、日菜の前まで杖をついて進んだ。
老人は日菜と向き合うように座り、流暢な日本語で話し始めた。
「日菜さん、部下が手荒なことを致しました。申し訳ない。ずっと、あなたにお会いしてみたかった。あなたとお会いすることを、夢にまで見たものです」
老人は部下の持つ葉巻の箱から、一本受け取り、火を点けた。
葉巻から、お香みたいな香りの煙が立った。
老人は葉巻を灰皿に置き、両手を膝の上で組み合わせた。
「日菜さん、率直に申し上げましょう。あなたは神に選ばれし天才です。あなたは可愛らしさと抜群の知能を備え、謙虚で賢明であり、愚かしさや醜さといった要素を持ち合わせない。実に完成された人間なのです」
日菜は一呼吸置き、
「私は天才なんかじゃない。未来の私のことはよく知らないけど、今の私は物理を学び始めたばかりの、ただの大学生なんだけど!」
と気丈に言い返した。
老人は無表情な顔の口元だけ綻ばせたが、笑ったようには見えなかった。
「はは。日菜さん。ご心配なく。あなたは間違いなく、偉大な科学者になるのですよ。歴史に名を残す。あなたの発明がもたらす影響が、世界を根本から創り直すこととなるでしょう」
老人は感慨深く言う。
「あなたが我々を救ってくれる。さぁ、あなたの研究のお手伝いをするという栄誉を、我々に与えて下さい。我々はあなたの志をぜひ、応援してさしあげたい」
「新型兵器の開発の話? どこの国のどちらさまだか知らないけど、好きにやったらいいんじゃない? 私はもう、何も発明する気ないから」
日菜が手厳しい一言に加え、はっきりと顔をしかめた。
老人は彼女の反応に、一瞬たじろいだ。
「あなたは近く、転送機を開発させると聞いた。予定より早く、理論がまとめられたのではないのですか?」
老人の発言に、今度は日菜が仰天した。
「それ、未来に私が発明する理論が、転送機の理論だってこと!?」
日菜は未来を知り、激しく動揺した。
現在、日菜が仲間と転送機のコピーを作ろうとしているのは、トキオを救出したいだけで、戦争に利用する為なんかじゃない。
日菜は緊張し、軽く眩暈を感じた。
転送機は兵器だ。
勝手な誰かが、日菜やトキオの未来を乗っ取り、未来を捏造しようとする。
「私には転送原理なんて、ちっとも理解できないんだよ! そんなに転送機が欲しかったら、自分の国の科学者に、未来から設計図持ち込んで作らせたらいいんだ!」
日菜は、はらわたが煮えくり返りそうな怒りをぶちまけた。
老人は頷き、片方の眉を軽く上げて見せた。
「日菜さん。あなたがこの歴史的発明を成すことは、どうやっても覆らない。あなたとトキオが発明することに決まってるものは、他の誰にも発明できないわけですよ。いっそ、思う通りにならないなら、あなた方を消去して、歴史そのものを葬り去るという方法もありますがね…。我々はそんな馬鹿ではありません。あなた方の発明を歓迎し、純粋に科学として世に役立てたいだけなんです」
老人はしれっとした顔で、心に思ってもないことを言った。
偽善だ。
老人の狙いが、兵器としての転送機であることは明白だった。
老人はダイヤの指輪をはめた指で、葉巻を優雅に摘み上げた。
そして、日菜の顔に吹きかけるように、葉巻の煙を吐いた。
日菜は顔を背けた。
「日菜さん、教えていただけませんか。トキオくんはどこにいるのか?」
「知らない。私も捜してるとこ」
日菜は正直に答えたが、老人は疑い深かった。
「隠すと、為になりませんよ。よく考えて下さい。我々はどんな条件にでも応じるつもりです。…で、トキオくんは一足先に、アメリカに渡ったと?」
老人の言葉に、日菜は苛立った。
「ここは何年何月何日? 私のいた時代より、未来にトキオがいるかもね!」
日菜の強気な態度を、老人は少しずつ、不愉快に思い始めた。
「ここはあなたの現代ですよ。場所が違うだけ。…それでは、まず、あなたの統一理論だけ買わせてもらえないだろうか? 今すぐじゃなくてもいい。完成したら、我々に売ってほしい」
日菜は激しく首を振った。
この老人も、ノグチと同じだ。
日菜は、自分がドライな性格だと思ってきた。
他人のすることに興味なんかないと。
でも、今、激しい感情の揺れがあり、彼女は拒否した。
「あなたの国はそれで勝つけど、他の国の人は大勢死ぬんだ。そんな取引き、すると思う!?」
予想外の返事に、老人は思わず、椅子から腰を浮かせた。
彼は耳を疑い、顔色が怒りでどす黒く変化した。
「我々は、あなたとトキオくんを保護しようと言ってるんだ。あなたのように優秀な科学者が、悪い奴らに騙されて、若い命を散らすのは忍びない。我々は味方なんだよ、日菜さん!」
老人は必死に言い繕い、大袈裟な身振り手振りを使って話した。
「日菜さんを|唆≪そそのか≫そうとしてる奴らがいる。現代にも、未来にもだ。我々は世界の平和と発展の為に、転送機を活用したい。費用は我が国が持つ。あなたは研究に専念できる…」
老人が立ち上がり、葉巻の火を灰皿で揉み消した。
だが、日菜は、
「お断りします」
と、断固として言った。
老人は彼女の眸を覗き込んだ。
日菜の綺麗な眸は、老人を映し込みながら、黒い宝石のようにきらきらと光っていた。
彼はテーブルを拳で叩いた。
「日菜さん! 想像してみて下さい。あなたが統一理論を生み出さなければ、我々は現状に満足して暮らしただろう。しかし、あなたによって、世界のパワーバランスが決定的に変えられてしまった。我々は命を脅かされたんだ。我々はこの転送機の発明を、なるべく早い時期に入手しなければ、民族として存続が困難になるんだ!」
老人が唾を飛ばし、叫ぶ。
日菜は困惑し、泣きたくなった。
それが事実なら、胸が痛む。
しかし、現在はただの学生に過ぎない彼女に、何ができると言うのだろう。
日菜は急に席を立ち、
「私、政治はわかんない」
と呟き、部屋の出口へ逃げようとした。
老人が素早く杖をつき、彼女の前に立ちはだかった。
「これは断れる話じゃない。あなただって、まだ十八で死にたくないだろう?」
老人は語気を強め、杖の先で日菜を指した。
日菜も、一歩も引かなかった。
「そんな脅迫に負けるようじゃ、科学者にはなれないんだ!」
彼女の返事に、老人はぶるぶると震え出した。
老人の怒りを察したのか、威嚇するように三人の側近が日菜を囲んだ。
老人は遂に、紳士的な物腰から乱暴な態度に転じた。
「小娘が! 少々痛い思いをするがいい! 自分の立場がわかるだろう!」
彼が唾を吐き捨て、その場を去ろうとした。
日菜は怖いもの知らずか。
いや、そうでもない。本当はすごく怖い。
怖い時ほど、意地っ張りになるのが彼女の癖だ。
日菜はいけないとわかっていて、つい、口が動いた。
「待って。元の場所に返してよ。それと、私のノートもね。私は飼われる気ないから!」
老人の弛んだ頬がぴくぴくと震えるのが見えた。
「殺せぇ! もういい、殺してしまえー!」
老人が母国語で、三人の男達に命令を下した。
日菜は言葉を知らないが、意味は理解した。
「言ったね?」
彼女はスカートをめくり、銃を抜いた。
狙いは真正面、老人のでかい鼻だ。
2
老人はぎょっとしたが、周囲の男達も一斉に銃を構えた。
日菜が三丁の銃に囲まれた。
老人はよろめきながら、男達の背後に隠れた。
彼は慌てふためき、杖を床に落とした。
まさか、日菜が銃を所持しているとは思わなかったのだ。
「殺そうってんじゃない! そこを退け!」
日菜が叫び、正面突破に切り替えた。
無茶は承知だ。
彼女にはどのみち、後がない。
しかし、男達は動かない。
じりじり、距離を詰めてくる。
男達は日菜を見下ろすほどの上背があり、体格は格闘家のよう。
「通しなさい! 本気で撃つよ!」
日菜が喚こうと、銃を構えた男達は不気味に笑っている…。
「日菜。おまえ、何やってんの?」
思いもかけず、由紀のとぼけた声がした。
突如、空中から出現したかのような由紀。
ドアの外側に、濃い影のように黒ずくめで、黒い帽子にストール、黒い手袋をして立っていた。
「由紀!?」
日菜は驚きの余り、言葉の続きが出なかった。
「おまえ、いつからそんないいもの、持ってたの?」
由紀が日菜の銃を見て笑う。
「でも、まぁ、この程度の場面じゃー、いらねぇ。もっと修羅場に取っとけよ!」
と、言うが早いか、体の影に隠していた消火器を噴きながら前に回し、容赦なく男達に吹き付けた。
男達はすぐさま、由紀に向けて発砲したが、白い霧の中、てんで当たらなかった。
日菜は間近で聞いた銃声の大きさに驚き、手で耳を塞いだ。
由紀は、
「パーカ。何やらかしてんだよ」
と、彼女の手を掴み、建物の出口へ猛ダッシュした。
部屋を出て、廊下を走り抜け、ホールへ降りる。
「ちょっと、渋谷へ行こうとしたの」
日菜が吹き抜けの階段を走り降りながら、言い訳した。
「少しは懲りてもらえましたかね?」
由紀は怒るどころか、逆に笑っていた。
部屋の外にいた見張りは、睡眠薬で眠らされたように、持ち場で眠りこけていた。
けれど、老人と一緒にいた、三人の男達がすぐに日菜達を追ってくる。
彼らは鍛えた腕を見せようと、手摺の影でしっかと銃を構え、階下に向けて発砲した。
「危ねっ!」
由紀が日菜を壁へ押し付けた。
パンパンと激しく、銃声が連続して鳴り続けた。
壁の角が弾け、粉が舞った。
日菜は銃声に、がちがちに緊張して、体が固まった。
何が何だかわからないほどに混乱したが、由紀が冷静に逃げ道を選び、まるで建物の見取り図を見てきたみたいに、正確に最短で出口へ出た。
建物の周囲にも、男達が大勢いて、彼らは何らためらわず、日菜達に撃ってきた。
二人は建物の影に身を伏せた。
このままでは悔しいので、日菜も二発、男達に撃ち返した。
彼女自身が興奮しているから、そう簡単に命中しない。
的を狙うのとは、全然違う。
「由紀。ここはどこ? 外国?」
手を繋いで、姿勢を屈め、中庭を突っ切る由紀と日菜。
「東京だよ! 寝ボケ過ぎだろ!?」
由紀は大笑いし、駐車してあった左ハンドルの車に乗り込んだ。
大使館の公用車で、黒塗りのぴかぴかのリムジンだ。
日菜はこんな車に乗ったことがない。
「おまえ、あの後、銃撃戦やらかして、生き残るつもりでいたの? 甘いねー!」
由紀は吹き出し、車のルームミラーで帽子の角度をちょっと直した。
「日菜はそのオモチャ構えてろ。シートベルトしろよ」
車のキーをどうやって手に入れたのか、手回しが良すぎる。
由紀がひどく荒っぽい運転で、広い敷地を走り抜け、門を突破した。
「これ、オモチャじゃないよ。未来人の紅島さん達からもらったんだ。ちゃんと射撃も習ったし」
助手席で日菜が呟き、振り向いた先に追手の車を見つけた。
「紅島ぁ!? …ああ、Eカップの人か。顔は覚えてねぇ。…じゃ、日菜。あいつらが追いついてきたら、それで撃って。この車、たぶん防弾ガラスだと思うけどねー」
由紀は口笛を吹きながら、馴れた手つきで左ハンドルを操った。
彼は車線の右に左に車を走らせ、前を走る車を次々と追い越してゆく。
かなりのスピードである。
無理やり前の車を追い抜き、後続の一般車同士が衝突事故になった。
後は連鎖反応のように、滅茶苦茶にクラッシュしていく。
「わあ、あああ……」
日菜が驚いて喚く。
映画の派手なクラッシュシーンのように、車が左右から交差して乗り上がり、黒煙を噴いた。
「危ないよ、由紀! スピード落としてぇー!」
日菜の叫びを無視し、由紀は赤信号の交差点に突っ込んでいく。
彼らの車を見て、慌てて急ブレーキを踏んで回転する一般車を、由紀は神業で避けた。
「由紀。あんたって、運動神経全然ダメで、すごくドン臭かったじゃない!?」
日菜が目を丸くする。
由紀は真顔で答える。
「忘れた? 俺って、ゲームオタクじゃん」
「ゲームで鍛えたの!?」
日菜は信じられない。
勿論、嘘だ。
由紀は対向車線に入り、逆走した。
対向車を反射的に避け続け、赤信号をお構いなしに右折。
「やめてぇー! ぶつかるぅー! 死んじゃうー!」
日菜は両手で目の前を塞ぎ、とてもじゃないが、前を見てられなかった。
由紀は冷静に広い視野を維持し、更に窮地になっても、慌てたりしなかった。
「あーあ、パトカー来たぞ。こんな目立つ車、捨てるか。日菜、耐ショック姿勢取って。行くぞ、ラーンディング!!」
由紀が叫び、盗んだ車が宙を飛んだ。
と思ったら、大通りからショッピングモールの一階の店舗へ、車ごと飛び込んだ。
粉々になったガラスが、高級インポートブランドの店内に飛び散った。
幸い、人は撥ねなかったし、怪我をした人もいなかった。
「さぁ、降りようー」
混乱する日菜の手を引き、由紀がショッピングモールを奥へと突っ走る。
警官二人がパトカーを降り、全力で走って、二人を追う。
日菜は銃を太腿のホルダーに戻し、由紀と懸命に走った。
買い物客で混雑する地下一階、吹き抜けのスクエアに、地下鉄の駅の入口があった。
そこから由紀と日菜はエスカレーターを、人を掻き分けて駆け下り、何層も地下深くへ下っていく。
うまい具合に、ホームから発車寸前の地下鉄車両に飛び乗った。
「次の駅で、乗り換えよう。地下鉄はちょっと複雑だから、何とか振り切れると思う」
息を切らしながら、由紀が小声で日菜に耳打ちした。
「はぁ? 今、よくそんなこと、思いつくんだね?」
由紀以上に息を切らし、日菜は驚いて彼を見た。
由紀は汗を手袋の甲で拭い、車両のドアに凭れた。
「乗り換えて二駅で降りる。改札の外で、友達の車が待ってる。それで帰れる…」
日菜は走り疲れ、汗びっしょりで倒れそうになっている。
彼の用意周到な話を、驚きながら聞いた。
「帰るって、どこへ? Y市まで?」
日菜は周囲を見回し、他の乗客の視線を気にした。
走って飛び乗ったので、周りからじろじろ見られている感じがした。
「リンのとこ。おまえが出て行った後、リンが帰ってるんだ」
「リン? へぇ、モテる男は違うんだねぇー。私は帰るって言ったら、Y市かと思ったんだけど」
日菜は嫌味を言いたくなった。
彼女は今朝から疲れ過ぎて、この逃亡生活にも疲れて、弱音を吐きたくなった。
由紀はドアに凭れたまま、
「リンとは、過去の話なんだよ。現在は、ココ。…なぁ、日菜。トキオはもう、死んでるかも知れねぇ。危ないことだらけのこんなこと、もうやめちゃおうぜー。Y市でも、あの店でも、どこでもいいや。日菜の好きな場所でさー、トキオはなし。俺は日菜のことだけ考えれる。日菜は?」
と、日菜の双眸を見詰めた。
日菜は頭の中が真っ白になり、思考が停止した。
そこで地下鉄が次の駅のホームに入った。
ここまで読んで下さって、ありがとうございます。
チョコの空です(^O^)/
姉妹サイトの「みてみん」で、「きみをRESET」のイメージイラストを公開中です。
白黒手書きで恐縮ですが、よろしければ、ご覧下さいm(__)m
http://7502.mitemin.net/i63470/
このアドレスで日菜のイメージが出ます。
ユーザーページの一覧でカット四枚見ることが出来ます。
(2012.12.17.現在)