Ⅵ 誘拐
ⅩⅠ 誘拐
1
銀の糸で弧を描くような、細い月。
薄雲が風に吹き散らされ、月が雲越しに見える。
雲の流れは速く、星は疎らにしか見えず、透き通った夜風が感じられる。
誰かが啜り泣くような、今宵の風の音だ。
窓から見えるのは、オレンジ色の淡い光に浮かぶ東京タワー。
日菜はグラスを磨きながら、ぼんやり窓の外を眺めている。
ビルの谷間を吹き抜けていく、一陣の風が、日菜に風雲急を告げている。
「風がきついな…」
由紀がカウンターから、窓の外を覗く。
歩道のケヤキの木が揺れている。
「コバ、モモカ、ケッズさん達…、あれからどうしてるんだろ…」
日菜は心の中で呟いた。
日菜の毎日が慌ただしく過ぎていく。
バーテンダーのバイトに明け暮れ、忙しい合間を縫って勉強。
住み込みの生活は賑やかで、最近まで日菜が忘れていた温もりを思い出させる。
一人っ子の日菜には、兄弟というものが、ずっと憧れだった。
ここにはルイやピヨ、ココアという、優しい兄貴と姉貴や、生意気だけど可愛いタクトと甘えん坊のチェロ、品行方正なコハクと野生児のカイトの真逆の高校生コンビ、四人の弟がいる。
それから、若いけれど、みんなの父親代わりのオーナーがいる。
日菜にとって、出来過ぎた家族だった。
彼女はバイト仲間と昼まで談笑したり、由紀と気晴らしに公園や図書館へ行ったり、ピヨと商店街に買い出しに行ったりした。
逃亡中だということを、忘れてしまいそうだった。
日菜はもし、Y市に戻ることができても、この家族を忘れないし、必ず遊びに来ようと考えていた。
皮肉にも、未来は彼女の希望通りには決して沿わない先へ繋がっていく。
閉店後、日菜が賄い当番で、味噌汁に入れる葱を切っていた。
「いい手つきだねぇー」
ルイが盛んに褒める。
日菜は照れた。
「お味噌汁は、おばあちゃんに教えてもらったの」
「いいねぇー」
ルイはピヨやタクトには厳しいのに、日菜にはとても甘い。
「勉強、進んでるの?」
ルイは日菜の資料集めに、東大くんを紹介してくれた。
彼はあれからも、気を遣ってくれている。
「まだです」
日菜は残念そうに答えた。
朝食が済み、日菜は子供達を学校へ送り出した。
ルイとココアは、北側の寝室へ引き上げた。
それから、由紀も出掛けた。
日菜は店に誰も居なくなるのを見計らい、こっそりと店の電話から、モモカに電話を掛けてみた。
「もしもし? モモカ? 日菜だけど」
一ヶ月ぶりの日菜の声に、電話の向こうでモモカが跳び上がった。
そんな気配が伝わった。
「日菜ちゃん!? 日菜ちゃんなの!?」
おっとりしているはずのモモカの声が、妙に慌てた様子で、日菜は可笑しくなった。
日菜も予想した以上に嬉しくて、自分の気持ちに驚かされた。
「日菜ちゃん、無事なの!? 今、何してるの!?」
「モモカこそ、元気? 私は元気だよ。楽しくやってる。バイトもしてるし、ちゃんと勉強もしてる」
日菜は楽しそうに話した。
一方、モモカは一気に蒼褪めた。
「バイトー!? そりゃ、危ないよ!! 日菜ちゃん、警察に捕まっちゃう!! どこにいるの!?」
モモカの声が緊迫し、日菜は明るく笑い飛ばした。
「大丈夫だってー、モモカー。場所は都内のどっか。私、東京はよくわかんないんだ。ダイニングバーに住み込みで働いてるんだけど、お客さんは常連ばっかりだから安全。IT企業の社長さん、お医者さん、マスコミ関係とか多いよ。芸能人も来るんだよぉー!」
日菜は得意げに言った。
「日菜ちゃん、そういう世界にはスパイも多いんだよ。気を付けて。由紀くんがY市に来てる間、アパートに一人っきりとかじゃないんだね? それは安心したけど…」
モモカは元気そうな日菜の声を聞き、胸を撫で下ろした。
それでも、一応、モモカは付け加えた。
「日菜ちゃんが心配だよ。今や、いろんな勢力が日菜ちゃんを狙ってる。絶対、そこを動かないで。何でも、由紀くんの言うことを聞いてね」
日菜は何も考えずに、
「はいはい。モモカ。そっちはどんな感じ?」
と、軽く返した。
モモカは溜息を一つ漏らし、
「設計図がそのまま使えるみたいだから、もうパーツの製造に取りかかるの。ちょっとお金いるんだけど、宮島重工の関連会社の下請けに発注するパーツもあるし、うまく行けば、部分的に、夏休みぐらいから試験的な組み立てを始められるよ」
と、専門的な話を始めようとした。
それ以上は、日菜にはチンプンカンプンだ。
日菜は急いで、話題を変えた。
「了解だよ。そうだ、モモカ。まさか、未来の米軍に襲撃されたりしてない?」
日菜はノグチのことを思い出した。
あの男がそうやすやすと引っ込むわけがない。
「そんな露骨な攻撃されないよ。そこはちゃんと綾生が動いてくれてるから…何でもない」
モモカはちょろっと、口が滑りかけた。
その時、野生児カイトが頭をボリボリ掻きながら、店の方へ入ってきた。
「日菜さぁーん。なんか、メシ食わせてよー。腹減ったぁ…」
日菜は子供達を全員送り出したつもりだったが、カイトが高校をサボって寝ていたのに気付かなかった。
「カイトくん、キッチンにお味噌汁あるから。ご飯と納豆もあるし…」
日菜が慌てて、受話器を背中に隠す。
「昨夜、道路工事のバイト行ってたからさー」
カイトは厨房の業務用冷蔵庫からキャベツを取り出し、葉をむしり取って、洗わずにそのまま、むしゃむしゃと食べた。
「あ、そう…。君、高校生なのに、お酒飲むわ、夜バイトするわ、無茶苦茶じゃない?」
「力が有り余っちゃってさぁー」
カイトは生のニンジンを齧り、更に冷蔵庫の野菜や余り物を漁った。
日菜は受話器に小声で、
「モモカ、また後で連絡する! バイバイ!」
と呟くなり、通話を切った。
「あっ、日菜ちゃん! せめて、お店の名前を…」
モモカの叫びは届かなかった。
2
Z市を訪れ、逃亡生活が始まってから、二ヶ月。
日菜の周辺では、いろいろなことがあったが、まずまず平穏に過ぎた。
髭の高校生カイトが暴れたり、新人住み込みバイトのピヨがルイに叱られて家出したり。
でも、大体は順調であったと言える。
日菜はたまに、ごく近くに限って外出した。少しずつ、気が緩み始めていた。
日菜の外出には、大抵由紀か、コハクかピヨの誰か一人がつき合った。
彼女を守るボディーガードというわけだ。
みんな頼りない、ひょろっと細い男達だったが。
ある日、日菜は一人で外出しようとして、こっそり非常階段を降りて行った。
そして、裏口でオーナーとばったり鉢合わせた。
オーナーはシベリアンハスキーの散歩に行った帰りだった。
「スギノくんに触ってもいいですか?」
日菜はハスキー犬の、狼を思わせる顔つき、長い鼻と鋭い眼を見た。
ハスキー犬は日菜に対し、低い唸り声を発し、警戒する素振りを見せた。
「スギノはあぶないから、だめ…」
オーナーが血圧の低そうな、青白い顔で呟いた。
昼間のオーナーは冴えないし、どことなく小汚い。
今日も、洗濯し過ぎて色落ちしたシャツの前ボタンをはだけたまま。
頭にスタイリング剤を付けたまま寝たのが一目瞭然の、バサバサの状態の髪を後ろで雑に束ね、男前が台無しだ。
「日菜ちゃん。今日、どこかいくの…?」
青みがかった瞳で太陽の光を眩しそうに避け、オーナーが日菜の鞄に視線を落とした。
「図書館へ、資料探しに…」
日菜が舌を出した。
「それはいけない。あなたは追われてるんだから。資料はネイに持って来させなさい…。私はあなたを…友人からあずかった責任がある…」
昼のオーナーは少し喋ると、疲れるようだった。
どこか、体の具合が悪いのかも知れない。
「日菜ちゃんはどうして、そんなにがんばって勉強してるの…? 大学の勉強とは、また別なんでしょう…?」
「未来を変えたいからです」
日菜は思った通りに答えた。
オーナーは驚いたようで、日菜を眩しそうに見た。
「そう言えば、オーナーの名前って、何て言うんですか?」
日菜が突然質問した。
「北見煌。煌めくと書いて、コウ」
「煌めきのコウさん!? イメージぴったりなんですけど!」
日菜は手を叩いた。
「図書館には、由紀といっしょにいって。いいね?」
「はーい。コウさん!」
日菜はその日の外出を諦めた。
翌朝、日菜が二段ベッドの梯子を昇り、上の段のベッドを覗いた。
由紀は長い睫を閉じていた。
「由紀ー。起きてー。外へ出たいの。どこでもいい。ストレス溜まったの。どこか行きたいよ。ねぇー、連れてってよー」
日菜が由紀を揺さぶった。
彼は余程疲れ切っていたのか、目も開けない。
ずっと眠り続けた。
日菜はしばらく、彼の寝顔を見詰めていた。
「昔はもっと、バカ丸出しでさ。年中、頭の中空っぽで、チャラくてエロくて、香水臭かったのに。ギャグ言っても、すべってばっかりで。ねぇ、どうしちゃったの? 急に最近、難しい顔なんかしちゃって。クールな発言したりして。私と二ヶ月も同じ部屋で、何もして来ないし。あんたの変態菌、死滅しちゃった?」
日菜がこんなにひどく嫌味を垂れているのに、由紀はやはり、返事がない。
静かな寝息が続く。
「つまんない。由紀のバカ」
日菜は吐息を漏らし、部屋を出た。
日菜はココアから借りたドットプリントのワンピースを着て、黒い帽子を斜めに被り、ウェッジヒールのサンダルを履いた。
日菜が着ると、ハードで個性的なココアとは全然違うイメージで、活発で可愛らしくなる。
彼女の財布には、初回のバイト給料が入っている。
これで服でも、買いに行きたい。
「今日の私はドキドキしてる。こうなったら、とめられなーい!」
日菜がビルの敷地から、大きな一歩でジャンプした。
住んでいたビルの日陰から飛び出し、コンクリートの谷間から狭い空を見上げる。
ビルの窓に、紺碧の空と綿のような雲が映り込み、空が屈折して見える。
道には、通勤途中のサラリーマン達。
日菜はタクトに借りた携帯電話のGPSを使い、初めて、その場所が東京のどこなのかを知った。
後はナビに従い、渋谷を目指す。
まずは地下鉄の駅を探して、日菜が歩き始めた。
しかし、日菜は思う場所に辿り着けなかった。
途中で行く手を阻まれた。
ふいに背後で、何か異様な音がした。
日菜は振り返るなり、顔色を失ってよろめいた。
ビルに映り込んで屈折していた、青い空が、折り紙のように簡単に破れていくところだった。
破れ目から、見覚えのある暗い炎が噴き出し、ぼんやりと周囲に青みがかった光を放った。
午前中の白く明らかな光の下で、空間が大きく引き裂かれ、金属のゲートが異空間から迫り出してくる。
藍色の光が蠢くような、不思議な発光金属の扉が観音開きに開く。
日菜は踵を返し、無我夢中で走った。
彼女には、わかっている。
あの後、地上にタラップが長い舌のように吐き出される。
ゲートの向こう、暗がりの中から、何者かが現れる。
道ゆく人々は、余り気付かないし、注意を払おうともしない。
映画の特撮現場みたいな光景なのに、無関心に腕時計だけを見て、通勤の足をひと時止めることもなかった。
日菜は道を曲がり、赤信号で飛び出して車道を渡り、クラクションを鳴らされた。
ヒールが高くて走りづらくて、僅かなマンホールの段差に躓きそうになりながら、一瞬、振り返った。
タラップから、男達が数人、駆け下りてきた。
男達はみな、黒かグレーのスーツを着てネクタイを締め、薄い色のサングラスを掛け、通勤の時間帯にうまく馴染もうとしていた。
けれど、サラリーマンとして見るには、男達は体格が良すぎる。
柔道の選手か、空手家みたいな体格と髪型だ。
肌の色が薄くピンクがかっており、白人だとわかる。
日菜は悲鳴を上げた。
彼女は慌てて道を曲がり、大型ディスカウントショップの店先のワゴンの横にしゃがんだ。
歯の根が噛みあわず、かちかち震えて鳴った。
異時空から現れた男達が大股で走り、日菜をまっすぐ追ってくる。
周辺の人は誰も、日菜を助けてくれないだろう。
他人のことに関わり合うのは、面倒だ。
日菜は荒い息をしながら、ワゴンの横から這うように歩道へ出て、脇道へ下る石段に向かった。
一方、外国人の男達はビジネススーツが窮屈そうな厚い胸で、身長は道ゆく人より頭一つ分高く、歩幅は倍ぐらい大きくて、街から浮いていた。
彼らは軍人のようにきびきびとした動きで素早く歩き回り、日菜を探した。
日菜はすぐに追いつかれ、乱暴に取り押さえられた。
軽々と肩の上に担ぎ上げられ、荷物を運ぶように運ばれていく。
数人の仲間がすぐに集まり、日菜は男達に囲まれた。
彼らは英語ではない言葉を交わしている。
ノグチの仲間じゃないと、日菜は直感した。
余計、まずいことになったと思った。
日菜は男の肩の上で暴れた。
が、もがいてももがいても、男はびくともしない。
彼女の視界が一秒、青く光った。
彼女はゲートを潜って、転送機の中へ入った。
入ってすぐのところで、日菜はトランクに荒っぽく突き落とされた。
痛いのと、怖いので、呻き声ぐらいしか出せない。
助けを呼ぶ為に、叫ぼうとしているのに、喉に舌が張り付いてしまっている。
トランクの内側に、照明はなかった。
転送の衝撃から身を守ってくれるシートもヘルメットもなく、ベルトで固定されることもなく、日菜は激しくシェイクされた。
振動がピークに達した瞬間、気を失っていた。
3
暗闇で、日菜は反省した。
あんなに注意されていたのに、日菜は無謀なことをした。
モモカにもオーナーにも止められていたのに。
タクトの携帯電話は紛失してしまった。
馬鹿みたいに必死に持って走ったのは、物理のノートが入った鞄の方だった。
誘拐犯が何者なのか、全くわからなかった。
国籍も言語も、不明。
もし未来に連れて行かれていたら、誰に助けを求めたらいいんだろう?
どのぐらいの時間が流れたのか。
トランクのドアが開いた。
突然、眩い光が差し込み、白人の男が日菜に、ここから出るように、ジェスチャーで示した。
転送機の降り口で、彼女の背中に銃口が当てられた。
日菜はその感触にゾッとして、足が竦んだ。
通訳らしい男が側に来て、日本語で、
「声を出さないで下さい。歩いて下さい」
と指示をしてきた。
日菜は地下室のような場所に降ろされた。
誘拐犯の一味が先に立ち、日菜は通訳と銃を構える男と共に、後ろからついて行く。
このままではマズイと、日菜は思った。
冷や汗が流れてきた。
日菜は通訳に、トイレに行きたいと訴えた。
窓のない回り階段を三階ぐらいまで昇ったところで、日菜はトイレに案内された。
彼女は西洋式のバスルームで、やっと一人になることができた。
彼女は極度の緊張の中にいた。
こめかみで血がガンガン叫んでいた。
そのバスルームには、窓がなかった。
白い陶器の洋式便器、白地に青い植物模様のタイル張り。木製彫刻の付いた、厚い額縁に収まった鏡が、日菜の困惑した顔を映す。
束ねられたシャワーカーテンの向こうに、バスタブがある。
装飾のドラゴンが付いた蛇口。
日菜は震える手で、鞄から銃を取り出した。
以前、殺される前に撃てと、カノンに渡された銃だ。
二十発の実弾が込められている。
彼女は黒いナイロン製のホルダーを、太腿に装着した。
ワンピースの丈が、ぎりぎり銃を隠せる長さ。
座る時に気を付けないと、見えてしまいそうだ。
日菜は深呼吸をすると、トイレから出た。
第六話まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
前回、第五話が長過ぎまして、反省しました。
今回は少し短くなってます。
その分、今後は早めに次話を更新していきたいなーと思っております!
最後まで、お付き合いくださいますよう、よろしくお願いします。