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Ⅳ 宝探し

 Ⅷ 宝探し


 1



 小林教授の書斎の出窓を、ケッズが押し開き、新鮮な空気を胸に吸い込んだ。

 雨上がりの軒下や庭木の葉先で、滴が滴り落ちていた。

 書斎では、禁煙中だったはずの小林教授が、妻に内緒で、しけったタバコに火を点けるところ。

 資料を読んでいたイリエの手が、ページを捲るのを忘れたまま、動作が停止している。

 その場の空気まで換気したかったケッズだが、生憎、うまくいかない。

 日菜の結果報告を聞き、由紀が腹を立てていた。

「だから、バカ日菜は俺が頼りねぇってこと? なんでトキオを拉致した奴らのとこへ、一人で行っちゃうの?」

 日菜はどうでもよさそうに、

「そうじゃないけど。どうせ、由紀は胸の大きい女の人を追っかけ回すだけかなー、と思って」

 と言い返した。

 そして、日菜は彼を無視するように、携帯電話をいじり始めた。

 由紀が赤くなった。

「どうせ? 俺のこと、何でもわかってるみたいに言うなよ。…そうなる可能性もあるけどなー」

 由紀が日菜の手から、携帯電話を取り上げた。

「なぁ、日菜ー。俺が思うに、トキオはEカップの虜になってるぞー。もう、手遅れだろ。トキオは過去に残したペチャパイのことなんか、すっかり忘れてる。Eカップ美人と毎日楽しく暮らしてるぞ。クソー、羨ましいな!」

 日菜が皮肉ばかりの由紀の頬を、思いきりつねった。

「痛てぇー!」

 由紀が頬を押さえ、床に転がった。

 二人のケンカの勝敗が決まった。

 小林教授はタバコの煙を輪の形に吐き、また深く吸い込んで吐きながら、

「ほんまにタイムマシン、あったんじゃのう…」

 しみじみと呟いた。


 小林教授の書斎を出た日菜、由紀、モモカは、暇を持て余して向かいのカフェに向かう。

 トキオの情報が思うように得られず、日菜は落ち込んでいた。

「それに、いつまでも、モモカと一緒に寝てるわけにもいかないし」

 日菜がモモカを気遣って言う。

 もう半月ほど、日菜はモモカの下宿先に居候している。

 六畳しかない部屋を分け合い、シングルベッドに二人寝るのはしんどかった。

「私はいいよ、日菜ちゃん」

 モモカは紅茶に入れるミルクをうっかり、チョコレートのケーキにかけそうになり、

「何をぽやっとしてんの。新メニューになっちゃうよ」

 と、由紀に注意された。

 彼が日菜に聞いた話では、モモカと暮らし始めてから、毎日がハプニングの連続らしい。

 モモカは観葉植物に水をやろうとして、ペットボトルのお茶を注いだり、ヘアワックスとクレンジングを間違えて顔を洗ったり、デオドラントスプレーを間違えて髪にかけたりするそうだ。

「日菜、俺んちに来ればいいのに。モモカちゃんがうるさくて寝れねーだろ? うちは空いてる部屋もたくさんあるし。一緒に通学できるじゃん。そしたら、俺が日菜を守ってやれるし」

 由紀は何も考えてないみたいな口振りで、軽くて薄っぺらい言葉を並べる。

 日菜はそんな彼を罵っていると、いつものパワーが戻ってくる。

「うるさいのは、あんたよ。由紀。私は宇宙の仕組みを学ぶ。由紀はエンジニアを目指す。私と由紀じゃ、学科が違うんだ。どっちみち、毎日一緒に通学はできないよ」

 由紀はぺろっと舌を出す。

「ひゃはは。そんだけ元気があったら、もう大丈夫か。じゃ、お先に」

 由紀がテーブルの端にあったレシートを掴み、苦笑いで退散した。



 日菜が小林教授宅のお風呂を借りて、バスタオルで髪を拭きながら、モモカのいる二階の部屋に戻ってきた。

 モモカは慌てて、携帯電話の通話を切った。通話の相手は、若い男の声だった。

 日菜は気まずく思いながら、髪をドライヤーで乾かした。

 自分のせいで、モモカは部屋にいる時も話したい相手と話せないのかと、彼女の都合も聞かないで押しかけたことを悔やんだ。

「モモカ。今の電話…、彼だった?」

 聞かれたモモカは、笑窪を刻んだ。

「ふふ。日菜ちゃん、私に彼とかいないと思ってるでしょ?」

「思ってた…。ごめん」

 モモカは可愛いけれど、とてもおっとりして世間知らずなので、恋人はいないと日菜は決めてかかっていた。

 モモカは気にしていないようだ。

「モモカが前に言ってた、由紀に似てる人っていうのも…、その彼なの?」

「違うよ」

 モモカは頭を振り、懐かしい思い出を話した。

「…由紀くんに似てるって思った人は、よく考えたら全然似てないかも。顔も、性格も、笑い方も歩き方も…。絵を描くのが上手で、おとなしくて内向的な……人間不信の男の子だった」

 話を聞いて、日菜は腹を抱えて爆笑した。

「全然違うじゃんー。それじゃ、どこが似てたんだよー?」

「さぁ? なんでそう思ったのかな。その人は首に大怪我して死んじゃった。会いたいけど、もう会えないから、由紀くん見てて思い出したのかも。…日菜ちゃんは、早くトキオに会えるといいね」

 モモカは春の陽射しみたいに、暖かい微笑みを浮かべた。



 その頃、小林教授宅のガレージでは、イリエのワゴンにケッズと由紀が乗り込んだ。

 ワゴンは余り調子のよくない音で、プスプス鳴きながら発進した。

「イリエさん、最近はバイク乗ってないんですか?」

 由紀が何気なく、イリエに問いかけた。

「お、由紀くん。俺がバイク乗ってるの、知ってたんスね」

 イリエは嬉しそうに眼を細め、ミラーに映る由紀に笑いかけた。

「知ってますよー。だって、トキオが……」

 言いかけた由紀は、口を噤んだ。

 ケッズとイリエは、トキオの親しい友人だったのに、記憶がない。

 数秒、静まり返り、由紀は後悔した。

「由紀くん、トキオって、どんな奴だった?」

 ケッズが助手席から振り返って、由紀に尋ねた。

 由紀は寂しそうに笑い、記憶を共有する為に話し始めた。

「うざくもホットなオッサンでしたよ。真面目過ぎて、何もふざけた遊びはしないんですけど、パチンコ、スロットはたまに行ってたなぁー。あのオッサンのせいで、俺までオタクゲームにはまって、女の子にモテなくなりました。どこにでもいるオタク、PCとバイクいじりの好きな、ごくごく普通の男です…」

 由紀はしばらく無言になった。

 何秒か遅れてケッズが笑い出し、イリエもにやにや笑った。

「俺達の友達なら、そんな奴だと思ったよ」

 ケッズとイリエが顔を見合わせ、頷いた。

 由紀は俯いて、顔を見せずに、シャツの袖先で目頭を拭った。




 2



 現状を打開する為に、どんな方法があるか、日菜は考えていた。

 いつもと同じように朝が来て、目が覚めたら考えているけど、忙しく雑事に振り回されているうちに、また夜が来て、朝が来て、何も決まらずに一週間ぐらい過ぎてしまう。


 毎朝、日菜とモモカが通学電車に乗ると、手前の駅で乗った由紀がいつも同じ場所に座り、狸眠りしている。

「おはよ、由紀」

「ふぁ…、おはよ。ブス日菜…」

 日菜とモモカは彼の前に立ち、吊り革を持つ。

 彼は大抵、だらしない座り方で寝ている。

 日菜は上から由紀の寝顔を見下ろし、男の子って睫が長くていいなぁと思う。

 日菜とモモカの会話が盛り上がっても、由紀は眠り続ける。

 K大前駅まで六分程度だから、大したことを話す暇もないし、読書する間もない。


 その日はたまたま、由紀の隣りが空いていたので、日菜が並んで座った。

「ねぇ、由紀。週末、どこに行きたい? って聞いてよ」

 日菜が由紀を起こした。

 彼女は今日こそ、考えてきた話を聞いてもらおうと意気込む。

 しかし、寝起きの悪そうな由紀は、

「俺の彼女になったら、聞いてやらぁー。どんだけ、貸しがあると思ってんだよ。そろそろ、返す気になったかぁ?」

 今朝は特別、不機嫌だった。

 日菜のせいで、最近ろくでもないことばかり。彼は命がいくつあっても足りない気がする。

「由紀、私ね、行きたいとこあるんだ。憶えてる? 小学校の卒業式の何日か後、宝物を持ち寄って埋めたじゃない。私と由紀と、トキオも一緒に」

 由紀の機嫌悪さに負けずに、日菜は声を弾ませ、楽しそうに話した。

 彼女は一つの提案を、彼に持ちかけるつもりだ。

 由紀も薄く目を開き、懐かしそうに喋った。

「憶えてるよ。トキオは高校卒業だな。六つ上だから…。俺は確か、ゲーム入れた。日菜はパンダのぬいぐるみだろ」

「トランペットは大き過ぎて、箱に入らなかったの。それで、ぬいぐるみ。あっ、トキオの袋、小さかったよね。あれ、何だったんだろうね?」

 日菜と由紀は、トキオの宝物について知らなかった。


 六年前、日菜とトキオと由紀で宝物を埋めて、十年後に掘り出そうと約束した。

 いわゆる、タイムカプセル。

 この話は、三人以外、誰も知らないこと。


 モモカは微笑んで、二人の話を聞いていた。

「いや、あいつのことだから、スゲェつまんねぇ物入れてそうー。たぶん、物理の本だろ。萌えアニメグッズか、アイドル写真集とかの可能性も…」

 その時、K大前駅に到着し、彼らは電車を降り、改札に向かった。

 混雑の人の波は、K大生が大半を占める。

 学生の列が商店街の歩道も埋めて、キャンパスまで続く。

「トキオがリセットされても、彼の宝物は地面の下にあるのかな?」

 モモカがぼんやり呟いた。

「そうなんだ。だから、掘り返してみたいんだ。約束の十年はまだ経ってないけど、もしかして、トキオが現在の私達にメッセージ入れてるかも知れないよ。由紀、今週末、行ってみようよ。宝物を埋めた裏山!」

 日菜が由紀の腕を掴み、誘った。

 日菜の家は全焼し、トキオのアパートには兄が住んでいた。トキオの家族と知人は記憶を失い、公共機関の記録も削除されている。

 となれば、トキオに関わるものはもう全て消されたのか?

 日菜なりに、必死で考えてきたのだ。


 だが、彼女の思いつきに、現実的な由紀は声のトーンを少し落とした。

「あれ…って、Z市のうちの別荘だっけ? …裏山? 三家族揃って、別荘で春休み過ごした時か…。日菜、わかってるか? 俺達、ノグチに監視されてんだぞ…。たぶん、まだ、あの医者も諦めてねぇ」

 由紀はすごく嫌そうな顔をした。

 そうだ、割に合わない。危険なことばかり。見返りは一切なし。

 彼は怒ったように歩を速め、正門前の坂道を昇っていく。

 日菜が肩を落とすのを、モモカが見ていた。

「何とかなるよ。私もケッズさん達もサポートするから、行ってきて。私が由紀くんを説得してあげるよ」

 モモカが日菜を励ました。

 日菜は挫けそうになったけれど、由紀と同じ学科のモモカに後は任せることにした。

 モモカは午前中の講義を、由紀の隣りで受けた。

「今のとこ、わかんないの? 私、教えてあげてもいいよ。単位保障付き。条件あるけどねー」

 モモカが講義中、小声で囁いた。

 何しろ、K大ぎりぎり合格の由紀だった。

「モモカちゃん、意外に汚ねぇーな…」

 由紀はモモカが大の苦手で、結局折れた。


 こうして、日菜がプランを立て、週末、由紀とZ市へ旅行することになった。




 3




 旅行当日の土曜日。

 日菜と由紀はなるべく目立たないように、途中で変装した。

 日菜はジャケットの襟と帽子で髪を隠し、大人びたメイクをして雰囲気を変えた。

 由紀が器用にブラシを使い、日菜のメイクを整えた。

 彼自身も、カジュアルな日頃とイメージを変え、地味で落ち着いたコーディネイトに装った。

 二人はまるきり、別人みたいだった。

 日菜はこれなら、誰にも気付かれないと思った。


 二人は何度も電車を乗り換え、夜、Z市に着いた。

 宮島家の別荘には寄らず、ビジネスホテルに偽名でチェックインした。

 今頃、Y市では、モモカとイリエが日菜と由紀に扮し、各部屋で一晩中明かりを点け、アリバイ工作をしているはずだ。

 日菜と由紀は今週もY市にいる、ということだ。


 ホテルの部屋のテレビを点けた時、ちょうど、ニュースが始まった。

 日菜はニュースなど無関心で、コンビニで買ってきたサンドイッチとアイスティーを取り出し、玉子サンドにかぶりついた。

 由紀がすぐに気付き、リモコンでテレビのボリュームを上げた。

「…Y警察署では、この殺人事件の重要な鍵を握る参考人として、十八歳の男女大学生二人の行方を追っています…」

 ニュースキャスターの背後の映像で、K大のYキャンパスが映った。

「うわっ! これって、俺達を捜してるんじゃねぇの!?」

 由紀が叫び、日菜は絶句した。

 全然知らない殺人事件で、その場所には行ったこともない。

 でも、参考人とされた二人の大学生の特徴は、確かに日菜と由紀を思わせた。

 慎重に行動し、完璧なプランのつもりだったのに、Y市を離れたことが、誰かにバレた。

 由紀は、穂高医師を港公園に誘い出した時のことを思い出す。

「ほら、見ろよ。だから言ったんだよ。警察はずっと、トキオを捜してたよなぁー。あの医者は、日菜とトキオを未来の犯罪者だと思ってた。俺達がY市を出たから、逃亡したと思われたんだ。だけど、いきなり、殺人犯扱いかー!?」

 由紀が怒って、テレビを消した。

 臆病な彼は頭を抱え、恐怖に押し潰されそうになった。

「どうする? 防犯カメラ、マジ怖ぇー。どこに行っても、あるもんな。グズグズしてたら、時間の問題で捕まるな。今度こそ、俺は記憶を消される。日菜はアメリカに送られて、兵器が完成したら処分される…」

「やめて!」

 日菜が大声で喚いた。

 これが仮に逃亡だとしても、殺人の容疑者として追われるのは不条理だ。日菜は警察がそんなことをするはずがないと思う。

 だが、警察に追われているのは、間違いなさそう。どこに逃げたらいいか、思いつかない。

 日菜はモモカの部屋に帰りたくなった。

「Y市には、当分帰れねぇ」

 由紀は焦り、部屋の中を歩き回った。

 未成年者だから、テレビに実名と顔が出ないことが救いだった。

 日菜は携帯電話を見て、パニックになった。

「由紀、穂高先生からメールがいっぱい入ってる…。今頃、なんでかな? なんて返信したらいい?」

「バカ!! GPS付いてるだろ!? 早く電源切って、捨てろよ!」

 由紀が怒鳴った。

 日菜はびっくりした。

 彼はシャワーを浴びに、バスルームに入った。


 日菜はこっそり、テレビのニュースをもう一度見た。

 大学生の特徴について、キャスターが繰り返し述べていた。

「…少年が身長170センチから175センチ、痩せ型。少女が160センチぐらいで、髪が腰までの長さ…」

 日菜はぎょっとして、鏡の中の自分を見た。

 さらさらの綺麗な黒髪が、小さな顔をくっきりと縁取り、意思の強そうな黒目がちの眸を引き立たせている。

「由紀ー、ハサミかカッター、持ってない? 髪を切ろうと思うんだけど…」

 いきなり、日菜がバスルームのドアを開けた。

 シャワーカーテンの向こうで、由紀が慌ててバスタオルを巻く。

「わっ、入るの!? 一緒に!? おまえ、なんて度胸だよ!?」

 日菜は笑ってしまった。

 由紀の慌てぶりは見ものだった。

 追われる恐怖も半減するぐらい、可笑しかった。

「やだ、何を期待してんのー? 子供の時から、何回もあんたの裸ぐらい見てるのに。隠される方がキモイんだけど。ハサミ持ってない? 髪切らないと、目印にされちゃう」

「俺が後で切ってやるよ。待ってて」

 由紀が日菜を追い出し、素早くドアを閉めようとした。

 しかし、日菜が何かに気付き、ドアを止めた。

「由紀! その傷、どうしたの!?」

 日菜が彼の首筋に触れた。

 シャワーで赤味を増した傷跡が、ちょっと目立つぐらい大きかった。

 それも、そんなに古い傷跡じゃない。

「アメリカ留学中に怪我したんだよ。二階から落ちて、鉄のフェンスで首切った」

 由紀はいつになく早口で答え、強引にドアを閉めた。



 翌日の日曜日。

 早朝、日菜と由紀が別荘の裏山に登った。

 とりあえず、まだ警察に見つかったわけじゃないから、計画通りに行くことにした。


 日菜は楽しかった頃を思い返した。

 いつも三人一緒で、歌を歌い、追いかけ回したり、水をかけ合ったりした。

 時間はあっという間に過ぎた。

 あの頃は、世界がキラキラ輝いていた。

 

 今日は、トキオがいない。

 日菜と由紀だけでスコップを取り出し、目印の木を見上げる。

 木登りした木が、一回り大きくなっていた。

 二人は無言で、木の根元を掘った。

 気のせいか、土は予想よりも柔らかかった。

 掘り続けるうちに汗が流れ、顔に泥が付く。

 何でもいい、トキオの手がかりが欲しい。祈るような気持ちだった。

 スコップの先が、何かに当たった。

「あった…」

 二人は震える手で宝箱を取り出し、ビニルの覆いを取って、蓋を開けた。

 最初に、日菜のパンダのぬいぐるみが出てきた。

 次に、由紀のお気に入りだった、古いゲーム機が出てきた。

 更に、その下に、水色の紙袋が見えた。

 日菜がその紙袋を泥塗れの指でこじ開け、中を覗いた。

 手紙は見当たらず、日菜は失望して、その袋を由紀に渡した。

 由紀が中身を確認した。

 彼は鋭く、舌打ちした。

「クソー。ノートPC、置いてきたのに。これ、PCないと見れなくね? ま、いっかー。収穫だ。六年前の旧式じゃなさそうだよ。土も掘り返してあるみたいだし…。やったな、日菜!」

 由紀が紙袋をジャケットの内ポケットに入れ、日菜の肩を叩いた。

 満足そうな彼の表情を見て、日菜はぽかんとした。

「え…、じゃ…、それ、トキオが入れ直したものなの?」

 緊張の糸が切れ、日菜が泣き顔になった。

 思えば、トキオが失踪してから、ここまで長い旅だった。

 後から涙が溢れ出し、洪水のように溢れ続けた。

「帰ろう。…Y市は無理だけど、都内に知り合いがいる。たぶん、匿ってもらえるから…」

 由紀が日菜を抱き寄せ、パンダのぬいぐるみを持たせた。

 彼女は泣きじゃくりながら、

「知り合いって、誰? こんな時に、信用できる人?」

 と聞いた。

 由紀は自分で口笛を吹き、

「女の子だよ。昔、つき合ってた。かなりキレイな女の子だよ」

 と、自慢した。

 日菜は驚いて、涙が止まったほどだった。




 4



 二人は手を繋いで、坂道を降り始めた。

 舗装されてない、細い山道だ。土が水分を含んでいて、滑りやすい。

「気を付けて、日菜」

 由紀が手を取って支え、日菜が降りる。

 子供の頃と、裏山の形が少し変わっている。

 何年か前の集中豪雨の後、土砂崩れがあったそうだ。

 変装にこだわった為に、日菜はローヒールのパンプスを履いてきた。それで、余計に山道を歩きづらかった。

 この裏山は全部、由紀の父親が所有する土地である。

 半分ほど降りて、雑木林から視界が開けた時、二人は嫌な景色を見た。


 日曜の午前七時。

 この辺りの別荘の住人は、まだ静かに眠っているみたいだ。

 宮島家の別荘の裏庭、青々とした芝生に、黒い喪服のノグチと、二体のクイックヘールの姿があった。

 今日のクイックヘールの甲殻は、眩いほどの純白で、朝日を反射して輝いていた。

 遂に、クイックヘールの全身が、白日の下に晒されていた。

 格闘の為だけに、パワーと俊敏性を追求されたカタチ。そのカタチは、グロテスクな印象を与える。

 きっと、見た人の殆どが、異様で気持ち悪いとさえ言うだろう。

 日菜は恐ろしくて、その場で凍りついた。

 由紀は機械と混じり合う兵士の姿を、初めて目撃した。彼が普段、遊んでいるネットゲームのロボットウォリアーによく似ていた。

 由紀がひゅう、と息を吐いた。

 蠍と蟹と人間をデタラメに混ぜたみたいな機械の姿は、彼の眸にどう映ったのか。

 ノグチがクイックヘールの前に立ち、片手を由紀に向かって差し出した。

「おはようございます。日菜さん、由紀くん。さぁ、いただきましょうか? トキオから託されたものを」

 日菜は震えて、由紀を見た。

 由紀は顔をしかめ、日菜に、

「ありゃ、なんだ?」

 と聞いた。

「クイックヘールだよ…。言ってた、身長2メートルの……」

「米軍の失敗作か?」

 由紀が地面に唾を吐いた。日菜は、彼が趣味でロボットの設計をやっていたのを思い出した。アメリカ留学も、ロボット工学の勉強だった。

 小さな声だったが、ノグチにはよく聞こえた。

 ノグチは差し出した手を引き、帽子のつばに、骨ばった長い指を掛けた。

「じゃ、遊んでみますか? 由紀くん?」

「朝のラジオ体操なら、他でお願いしますよ。ここは、うちの敷地なんですけど。クイックヘール? 兎だったら、ニンジン食ってろよ。何様だか知らねぇけど、俺んちから出て行って下さい」

 由紀が両手をジャケットのポケットに入れたまま、大きな声で明確に喋った。

 日菜は彼が口だけのヘタレだと知っているので、より狼狽した。

 引き攣ったノグチの顔から、由紀は目を反らさずに、

「二手に分かれる。後で落ち合おう」

 と日菜に囁いた。

「うんっ」

 日菜も覚悟を決め、由紀に背を向けて走り出した。


 由紀は雑木林から出ずに、山道を一目散に走った。

 トキオの紙袋を持っているのは由紀だから、二体のクイックヘールは共に彼を追った。

 クイックヘールは驚異的な瞬発力で駆け、数歩で由紀に追いつこうとした。

 由紀は木立を盾にしようとしたけれども、クイックヘールがアームの一振りで木を粉砕した。その一撃が由紀の頭頂を掠め、彼の帽子を吹き飛ばした。

 クイックヘールは地面を強く蹴り、空中に浮遊するような体勢から攻撃を繰り出した。鋭い蹴りが由紀を狙い、続けて何本もの木々を砕き、雑木林ごと破壊していく。

 破壊力は折り紙付き。

 二体のクイックヘールが、コンビネーションで由紀を挟み撃ちしようとしている。

 まさに、絶体絶命だ。

 細かな木の破片が周辺に飛び散り、高速で旋回するアームの起こす風の音が、連続する波となって由紀に迫る。

 由紀も飛んだ。

 軽やかな身のこなしで、崖から崖へ、短い距離だが飛び移った。高さは10メートル以上あったが、彼は躊躇しなかった。

 勿論、クイックヘールも即座に飛んだ。

 飛距離は由紀より、ずっと大きい。

 しかし、着地を狙って、その金属の足底部が地面に降りる瞬間、由紀がタックルを仕掛けた。

 びくともしないはずの脚部なのだが、機体の重心の加減と土質で外向きに滑った。

 元々、クイックヘールの足底部は接地面が図体の割に小さく、足場の悪いところでもうまくバランスを取り、バネを生かせるように、犬の足のように踵が浮いていた。

 由紀とクイックヘールは崖から滑り落ちた。

 身軽な由紀は、反対の崖の中ほどに飛び移り、木の枝に掴まったが、重量のあるクイックヘールは崖下まで転落した。

 由紀は素早く草むらへ降りた。

 その辺りを、もう一体のクイックヘールが機銃で掃射する。

 由紀は……。


 一方、日菜を追うのは、ノグチ自身だった。

「いい加減、諦めたらどうです?」

 ノグチはすぐに追いついて、日菜の首根っこを掴んだ。日菜は後ろに引き倒され、滑って尻餅を着いた。

「痛い!」

 日菜が尻を押さえ、呻いた。

「今頃、クイックヘールは由紀くんを片付けてる。彼らはトキオの持ち物にしか興味ありませんから、由紀くんの命が危ないと思いますよ」

 息も乱さず、スーツも汚れていないノグチが、日菜の前に立ち塞がっていた。

 ノグチはバスケットボールを掴むように、指を開いて日菜の頭を掴んだ。親指の爪が額に食い込むほど、強く力を込めて頭を掴み、ゆっくりと左右に振った。

「日菜さん、いいですか。トキオのことは諦めなさい。アナタは私の国に来て、ゆっくり物理の勉強をすればいいんです。好きなだけ、研究に没頭させてあげますよ」

 日菜は痛みに、頭の中が真っ白になった。

「トキオ!」

 日菜が叫んだ。

 彼方の未来にいるトキオを呼ぶかのように。

「ノグチさんは…嘘つきだ…。トキオを誘拐…し損なったのに…、トキオを確保してるみたいに、私に思わせようと、し…、してた…」

 ノグチが手を、彼女の頭から外した。

 日菜の額に、血が滲んでいた。

「ノグチさんは私を監視して、トキオの接触を待ってただけ。穂高先生とやり方は同じ。トキオがどこにいるか、本当に知ってる人はいないのよっ!」

 日菜は涎を手の甲で拭い、荒い息をしながら、ノグチを激しい眼差しで睨みつけた。

 ノグチは彼女を見下ろし、最後まで聞いていた。

 彼は草の上に片膝を着き、日菜の顔のすぐ真ん前まで顔を寄せた。

 次の瞬間、ノグチが日菜を平手打ちした。

「アナタは銃を突き付けられないと、従えないのか?」

 彼はかっと目を見開き、叫んだ。

 痩せた顔の窪んだ眼窩や高い頬骨が、骸骨みたいだった。

「どうだ。もう結果は見えてるんだ。由紀の命が惜しければ、私に命乞いしてみろ!」

 ノグチが日菜の後ろ側の襟を掴み、引っ立てようとした。

 日菜は地面を転がり、半メートル引き摺られた。

「早く、私の未来を乗っ取ればいいじゃない。私の代わりの科学者に、私の発明をするように仕向けなさいよ!」

 日菜が喚き、その場にしがみついた。

 ノグチは日菜を引き摺るのをやめ、歯噛みして悔しがった。

「それが出来れば……」

 日菜はノグチの歯軋りを聞いた。

 彼女が驚いて顔を上げると、もうノグチはいなかった。

 風が吹き渡り、日菜の汗ばんだ肌を爽やかに撫でて、吹き抜けていった。



 その日の夕方。

 日菜はZ市の繁華街のネットカフェで、漫画を読んでいた。

 額には絆創膏。

 泥がこびり付いたジャケットとスカートを、パーカーとデニムのミニスカートに着替えているが、パンプスは泥だらけ。

「オンラインゲームの席で漫画読むなよ」

 男の声がして、日菜が漫画から顔を上げた。

「個室が満席だったの。よくこの店だってわかったね?」

 日菜は由紀を不思議そうに見た。

 彼は顔にいくつか擦り傷を作っていたが、とりあえず無事みたいだった。

 彼も駅のコインロッカーの荷物を取り出し、既に着替えを済ませていた。

 シャワーでも浴びたのか、癖のある髪もさらさらして、きれいだった。

「今夜、ここに泊まろう」

 由紀は質問に答えず、笑顔で隣りの回転椅子に座り、大きく伸びをした。

「由紀、クイックヘールは?」

「躱した。これも無事」

 由紀が日菜に、ポケットの中のトキオの紙袋を、ちらっと見せた。

「惚れるなよー。惚れるなぁー。俺は女の子みんなのアイドルだからな!」

「バカ猿」

 日菜が一喝し、読みかけの漫画に視線を戻した。




 Ⅷ 設計図



 1



 月曜の朝、日菜と由紀は通勤ラッシュに紛れ、東京23区の中に入った。

 日菜は都内に詳しくないので、由紀が頼りだ。

 彼女は顎のラインで、髪を切り揃えていた。

 由紀がカットしたとは思えないほど、上出来で、日菜の可愛らしさが増したようだ。


 未来を知るということは、恐ろしいことだった。

 トキオは未来を失った、と表現した。

 日菜は自分の未来が恐ろしくて、いっそ、別人になりたかった。


 日菜はZ市に行ったことを後悔した。

 当分、モモカやケッズ達、大学の新しい友達にも会えない。

 捕まったら、どこかに監禁されるかも知れない。

 警察に追われ、帰る場所がなくなって、不安で仕方ない。

 今、彼女にあるものは、頼りない由紀の細腕と、鞄の中の銃、トキオが託した紙袋の中身だけである。


 由紀は日菜を、雑居ビルのダイニングバーへ連れて行った。

 彼が先にエレベーターに乗り、七階のボタンを押した時、日菜は、

「由紀、こんなとこに何しに来てるの? よく来るの?」

 と不安を覗かせた。

 彼は肩を竦め、つまらなさそうに言う。

「まさか。知り合いの店でなきゃ、わざわざここまで来ないよ」

 日菜はエレベーターを出て、驚きの声を上げた。

 バーへと続く、おしゃれなアプローチを見て、急に自分が場違いだと感じた。

 心細い日菜を残し、由紀がさっさとアプローチへ入っていく。

 日菜も慌てて後を追った。

 バーとは言うものの、店内はテーブルの席数も相当あって、広々としている。

 岩の洞窟に入るようなアプローチから、深い海へダイビングするかのように、店内は更に凝っている。

 自然石をあしらい、海底や砂底を表現した店内は暗く、岩影の一つ一つに席が隠れている。

 店内の光源となっているのが、主に水槽だ。

 趣向を凝らした水槽が水族館より巧みに、水槽とわからないように、うまく隠して配置されている。

 日菜はディープブルーのレザー張りのソファーに座ってから、目の前の熱帯魚に気付いた。

 席に着いてから、あちこちの岩陰から魚の群れが泳ぎ出す。魚の種類は水槽ごとに違う。

 バーカウンターは沈没船を模したデザイン。

 本当に、暗い海の中に迷い込んだ気分だ。

 日菜はすっかり、リラックスした。


 まだ時間が早いからか、他に客も少ない。

「日菜、なんか食べる? この店、料理もうまいんだよ。飲み物は何がいい?」

 由紀がメニューを捲りながら、カウンターの方に片手を振り、知り合いのバーテンダーを席まで呼び付けた。

 ショートの赤毛に鼻ピアスの、若い女性バーテンダーが、二人のテーブルのキャンドルに火を点し、こんなことを言った。

「由紀くん、久し振りじゃない。今日はどうして、カウンター来てくれないの? 可愛い彼女と二人きりがいいんだ?」

 冷やかされても、由紀は平然として、

「フローズン・ストロベリー・ダイキリ」

 と、甘いカクテルを注文した。

「ちょっと、由紀! 未成年でしょ」

「ジュースだよ。あれはマジでジュース」

「オレンジジュース二つ下さい」

 日菜が注文を訂正した。

 二人は今後どうするか、話し始めた。


 こういう店は、芸能人がよく遊びに来る。

 話の途中で、日菜が甲高い声で叫んだ。

「由紀、見て! 信じらんない! カウンターに超人気モデルのRINがいるよ!!」

 日菜は立ち上がって騒いだ。彼女はモデルのRINの大ファンだった。

 ファッション雑誌のカバーを飾る他、CMでも売れっ子のRIN。

 本物のRINはテレビで見るより、数倍綺麗だった。

 日菜の声を聞き、RINがこっちを振り向いた。

 RINの身長は175センチ、更にピンヒールを履き、小さなヒップが何とか隠れる超ミニのワンピース姿。脚が細く長く、しなやかで美しい。

 金髪のベリーショート、個性的なメイク。政界の若手実力派やハリウッドスターとのスキャンダルでも知られる。

 そんなRINが、何故か微笑みながら、日菜の方へ歩いて来る。

 日菜は胸が高鳴って、震えがきた。

「由紀。来てたの?」

 RINが呟いた途端、日菜は…由紀を睨んだ。

 由紀が昔つき合っていた女の子とは、このRINのことだった。


 由紀がRINに日菜を紹介した。

「リン、俺の幼馴染の日菜。…日菜、有名だから、知ってるよなー? モデルのリン。母親がロシア系のハーフ…だっけ? 俺達より、四つ年上。いいか、日菜。マスコミには内緒だぜー。ひゃはは…」

 由紀が調子に乗り、バカ笑いする。

 日菜は驚き過ぎて、声も出ない。

 十分ほど経って、

「あ、有り得ない。あんたが相手にされるわけがない。ただの知り合いなんだよね? 私のRINのイメージを壊さないでぇー」

 日菜が泣きそうになった。

「お見それしましたと言えー。ひゃはは。ひゃは…!」

 由紀のバカ笑いを、日菜が一発殴って終わらせた。

 本気で殴られた由紀は、ソファーに仰向けに倒れた。

 リンは何も言わず、ただ微笑むだけ。由紀の話を全く否定しない。

 リンはむしろ、何か面白いものを見るように、日菜をまっすぐに見詰めている。

「…な、そういうわけだからさ、リン。俺達をしばらく匿って。飯代、後でちゃんと払うからさ。ここに泊めてくれない?」

 図々しいことを頼む由紀に対し、リンはすぐに了承しした。

「いいよ。空いてる部屋、奥にあるから自由に使って。食べ物はバイトくんに頼んでおく。冷蔵庫の中のものは、好きに食べていいよ」

 涼やかな風を思わせる、少年のような話し方だった。

 由紀は元カノを拝むようにして、

「なぁ、リン。PC貸してくれー」

 と、頼んだ。

「そこのVIPルームに、兄さんのがあるよ。由紀ならPC持ち出しても、兄さん、怒らないと思うよ」

 リンもごく親しげに受け答えした。

 リンの実兄が、この店のオーナーだ。

「じゃ、由紀。また後でね」

 リンが笑顔で席を離れ、カウンターに戻った。


 日菜がまた、由紀に突っかかろうとした。

「ねぇ、本当につき合ってたの? いつ頃?」

「女房みたいなこと、聞くなよ。行くぞ、VIPルーム。トキオのメッセージ、見ねぇの?」

 由紀がポケットから、水色の紙袋を取り出した。

「わっ、見る!」

 日菜は急いで、由紀の背中を追いかけた。


 いつの間に、あのマザコン由紀の背中がこんなに広くなって、大人になってたんだろう。

 日菜は彼の背中を見ながら、考えていた。




 2



 VIPルームの窓から、東京タワーの夜景が見えた。

 日菜はスカイツリーより、東京タワーの方が好きだ。

 日菜が無邪気に喜ぶが、由紀は馬鹿にしたような目で見て、PCの操作に戻る。


 入口の扉がガラスで、VIPルームの中は洞窟の一つみたいになっている。

 壁の一部が、サンゴがメインの水槽になっており、残りの岩壁にはきれいな貝殻がちりばめられていた。

 サンゴは薄暗い場所で花を開き、風に揺れるように揺れて、クマノミと戯れていた。

 音楽が大きめのボリュームで流れてきて、日菜は海を漂う気分になる。

 重低音の音楽に、心臓をノックされている。

 赤毛のバーテンダーの奢りで、パスタとサラダとジュースが届いた。

 それなのに、由紀ときたら、赤毛のバーテンダーに、

「ココアさん、音楽、デカ過ぎー。クラブじゃあるまいしー。この選曲、ココアさんだろ?」

 と、文句を垂れていた。

 余程、よく通った常連みたいだった。


 音楽がボリュームダウンして、由紀が日菜を呼んだ。

 日菜も画面を覗いた。

 トキオからのメッセージとは、一切の文章を含まない、機械の設計図だけだった。

 日菜は、トキオらしいとも思う。

 トキオの夢は、空飛ぶバイクだった。

 今頃、未来のどこかで、トキオはそういうバイクに乗っているかも知れない。

「残念だな。手紙じゃなくて。…で、これ、日菜は何の設計図だと思う?」

 由紀に尋ねられ、日菜はそっぽを向いた。

「機械設計なんて、私のジャンルじゃないし。由紀の専門でしょうが」

「俺も、こんなの見たことねぇもん。トキオ、何を作ろうとしてたんだよ? 乗り物なんだろうな。操縦席、巨大装置、いや、さっぱりわかんねー。ハンドルもレバーもないけど、先が尖って、キャノピー可動で、戦闘機みてぇー」

 由紀が首を傾げた。

 日菜はとっさに、先日カノンと乗った転送機を思い浮かべた。

 あれも先が尖って、コクピットの前方部と屋根の部分がアンバー色の窓だった。

 見た目は、ステルス爆撃機に似てなくもなかった。

「もしかして、転送機(トランスファー)の設計図!?」

 日菜が由紀を押し退け、PCの前に座った。

 膨大な量の設計図がコピーされている。

 とても、トキオ一人の設計とは思えない。

 パーツ、断面、ディテール、その組み立てに至るまで、詳細に記されている。

 日菜は震えた。

 とんでもない内容だ。

「これ、…転送機作れちゃうよ…」

「そうだな」

 日菜は設計図の世界に熱中した。

 ノグチやカノン達の転送機とは型式が違うみたいだったが、細かいことはどうでもいい。

 恐らく、小型の量産タイプか。

 その方が構造もシンプルで、作りやすい。

「トキオ、これを作って、未来に会いに来いって言ってるのかな?」

 日菜の声が熱っぽくなる。

 トキオの真意がわからない。

 しかし、この設計図を見て、作りたくならない科学者はいないだろう。

「トキオの奴、こんな図面、よくコピー出来たなぁ? それで、追われる身になってんのか? あいつ、無事かな?」

 由紀が画面に釘付けになった。

 日菜はもう、おとなしく見ているどころではなくなってきた。

 全身がむず痒い。

「これ、作ったりしたら、ヤバくない? 使ったりしたら…もっとヤバくない?」

「日菜、正直に言え。おまえ、今、楽しくてドキドキだろ?」

 由紀が低い声で囁いた。

 日菜は赤くなって認めた。

「俺もドキドキしてる」

 由紀が手で胸を押さえた。


 日菜はこの部屋の酸素が薄くなったみたいに感じた。

 興奮して、息苦しい。

 もし、転送機を自由に使えるようになって、トキオを迎えに行けるとしたら…それを考えずにはいられないのだ。

 ただ、それは容易なことじゃない。

 多くの問題が待っている。

「由紀。設計図があったって、未来のものだもん。そう簡単に作れないよね」

 日菜はわかりきったことを、由紀に確認した。

 そう、設計図だけじゃ、無理だ。

 まず、資金。

 そして、設備。人材。未来の製造技術。

 ノグチも邪魔してくるだろう。

「待って。…コバはどうだ? ケッズさんや、イリエさん。モモカちゃんも天才少女エンジニアだっけ? 材料は俺んちで大体揃う…。俺の工房に、プレス機も加工機械もいろいろ揃ってる…」

 由紀は宮島重工の社長の息子で、自宅の庭に専用の工房を持っていた。

 元は彼の父のものだったが、今は由紀が譲り受け、ロボット作りに使用していた。

 足りない材料は、いつでも宮島重工本社から仕入れることが出来る。

「じゃあ、作ってみる? 由紀も…やりたいよね。私もやってみたい。何年かかるか、わかんないけど…」

 日菜と由紀は満面に笑みを浮かべ、ハイタッチした。

 何だか、すごく面白そうだった。


 作ることが決まったら、日菜の胸に別の気持ちが湧き起こった。

 不安と恐れ。期待が裏切られて失望することを想像してしまう。

 でも、トキオに会いたいという気持ちが、日菜の背中を押す。

 ごちゃ混ぜになる感情の波、そのうち、日菜が感極まって泣き始めた。

 啜り泣きから、次第に蛇口が壊れたように涙が溢れ出して、止まらなくなった。

「いつか、トキオと会えるかも知れねぇな…」

 由紀が静かに囁いた。

 日菜はなかなか泣き止まない。

 由紀が弱り果て、彼女を抱きかかえて、髪を撫でた。

「わかった。わかったから、日菜。…もう泣くなよ。俺、困ってんじゃん…」

 彼は号泣する日菜をどうしたらいいかわからず、狼狽えた。



 やがて、日菜は泣き疲れ、VIPルームのソファーで寝てしまった。

 由紀が彼女の体の上に、自分のジャケットを掛けてやった。

 彼女のメイクは涙で滲み、すっかり落ちてしまい、元のあどけない顔で寝ている。

 しばらくの間、由紀は無表情に、彼女の寝顔を眺めていた。


 由紀がVIPルームの外へ出た。

 深海のような暗がりの店内、客が増え、満席になっているようだ。

 月曜日なのに。

「ダメだね、由紀…」

 リンが笑いながら寄ってきた。

 由紀の肩に手を掛け、親密な態度で寄り添う。

「まぁ、見てろって」

 由紀が余裕を見せた。

「狼の宴が始まる。由紀も席に付いて」

 リンがホールを振り返り、少し酔ったように言う。

「ミーティングでもするの? 今更? 毛布出してよ、リン。俺も、あそこで寝る」

 由紀がVIPルームを親指で差す。

 仕方なく、リンは店のクロークから毛布を二枚取り出し、由紀に渡した。

 けれど、何故か、彼は一枚だけ受け取って、一枚をリンに返した。

 由紀はVIPルームに戻り、一枚の毛布を分け合うように、日菜の傍で眠った。

「期待してるからね、由紀…」

 リンがVIPルームの外からガラス越しに覗き、呟いた。


 








 

 

 

 


 

 



 


 


 





 









 

 










 








 

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