Ⅲ 未来と過去へ
Ⅵ 未来へ
1
由紀をノグチの部下に預け、日菜は炎の門を潜った。
鬼火の門の向こうは、一寸先も見えない暗闇だった。
日菜は両手を前に突き出し、壁を探した。
何も、手に届かない。
ここは寒い。冷蔵庫の中みたいに。
日菜は震えつつ、暗闇を進んだ。
やがて手摺を探り当て、掴まろうとしたら、地面が動いた。
駅のコンコースにある、動く歩道のようなものだろうか。日菜は行き先を定められた、急な傾斜を昇っていく。
上昇する装置の動きが停まった後、周囲はまだ、静寂の闇に包まれていた。
ここが鬼火の中に見えた建物なのか、乗り物なのか、とにかくその内部にいることは間違いない。
徐々に、暗闇に目が馴れてきて、内部の気配がわかるようになってきた。
日菜は旅客機の搭乗口のようなところにいる。
映画の宇宙船みたいなイメージはない。
その場所は中二階で、降りと昇りの動くスロープがあった。天井が低めで、狭苦しい圧迫感がある。
日菜は周囲を見回し、無人の一階へ降りた。
壁に手を触れると、壁が青くぞわぞわと発光し、扉が左右にスライドした。
彼女は扉の中を覗いた。
「あっ!」
彼女は声を上げ、思わず後退さった。
目の前に、七夕の夜に現れたのと同じ、ロボットウォリアーが一体立っていた。
頭部が頭部の形状をしてないし、腕は異様に長いし、下腕外側に銃口みたいなものがあった。甲殻の色は、黒と褐色の斑模様で、夜戦仕様だった。
日菜は慌ててよろめき、息を吸うのも忘れかけたが、よく見たら、何かが先日と違う。
それは抜け殻だった。
兵士が着用していないのだ。
日菜は2メートル以上ある抜け殻を見上げ、ここが奴らのロッカールームだと気付いた。
トキオを追って現れた、未来からの襲撃者。
彼女はその敵陣の只中にいる。
「それはクィックヘールという機体です。…一階は貨物庫ですよ。日菜さん、二階がキャビンです」
暗視ゴーグルを掛けたノグチが、中二階から日菜を呼んだ。
彼女はノグチに従うしかない状況だ。
我ながら、無謀だと思った。日菜は急に心細さを感じた。
二階に着く頃には、日菜の猫みたいな眸は、暗闇にすっかり馴れていた。
キャビンはだだっ広い空間なのだろうが、機械と一体化している。どこが天井と壁と床で、どこが機械なのか、見てもわからないほどに。
蜂の巣のような空間だと、日菜は感じた。
「すごい…。トキオ、これの修理を手伝ったの…!?」
床から卵型のカプセルが幾重にも連なって、そこから無機質なチューブが伸びて壁や天井と混ざり合う。
天井もフラットじゃなく、いくつもの孔、いくつものドームを繋ぎ合わせた複雑な形で、機械の一部のようである。
どこが出口なのか、混乱するような多数のゲートと壁の孔…。
微かにキャビン全体が、鬼火のような薄青い光を浴びている。
二人の他、誰もいない。
日菜は入口から近い、一つのカプセルに案内された。
座ると、沈みながら弾力もあり、軽く反発するシートで、日菜の体に合わせてフィットする。頭の先から腰、足首まで、一体型のシートに心地よく包まれ、日菜はびっくりして叫んだ。
「へぇー、この椅子。これ、欲しいな!」
ノグチは頷いて言う。
「トキオが修理した席ですよ。彼も、そこに座りました」
ノグチは日菜にヘルメットを被せ、シートベルトのロックを確認した。
「これ、そんなに揺れるの?」
「転送しますからね、念の為ですよ」
ノグチが離れた途端、カプセルのフードが降りてきた。
日菜は狭い棺桶のような空間に密閉された。
しかも、シートが後ろ向きに回転したので焦った。
アミューズメント施設のアトラクションのようだ。
シートの緩やかな回転は、上を向いた姿勢になったところでストップした。
「うわ、ちょっと、待って…。ねぇ、何が始まるの?」
日菜が呟いた。
彼女の声に応じるように、何もない空中に突然画面が出現し、ノグチが映し出された。
ノグチは隣りのカプセルに入り、ヘルメットを着用していた。
「大丈夫ですよ、日菜さん。操作は管制塔で全部やってくれますから。コーディネーターは自分で行きたい時点を入力できないんです」
「コーディネーターって、何?」
日菜は画面の中のノグチに尋ねた。
「時空を超える資格のことですよ。転送機に乗る免許みたいなものを持ってる人」
ノグチが未来のことを教えてくれた。
日菜は目を丸くした。
「私、そんなの持ってないけど」
「違法な時空接触に対しては、法律が過去に遡って適用される。アナタが未来の警察に見つかれば、すぐに逮捕されるでょうね」
ノグチが嫌味に笑う声が、彼女のヘルメットの内側から聞こえた。
「ノグチさんがトキオを攫ったのも、違法なんでしょ?」
日菜は脅しに動じない。
どうせ、そんなに簡単に捕まらないと思った。
日菜はカプセルの中で、管制とノグチの、米語のやりとりを聞いた。
秒読みの後、ぷつんと糸が切れるように意識を失い、日菜は暗闇に落ちていった。
2
日菜が初めてダイブした先が、現在から何年後なのか、ノグチは教えない。
彼はトキオの捜索に、始めから協力的ではなかった。
それに、日菜に未来を余り見せたがらなかった。
ノグチが都合のいいところだけ見せるので、日菜は不満に思う。
注意深く観察していたはずなのに、彼女には転送の仕組みが皆目わからなかった。
シートが前向きに回転し、日菜が目覚めた。
一瞬で意識がなくなったから、ほんの一秒しか経ってないように感じる。
「日菜さん、着きました。未来ですよ」
フードが自動的に上昇し、彼女はヘルメットを投げ捨てて、カプセルから走り出た。
出口らしきゲートが青白く、鬼火に浮かびあがって見えた。
「ああ、日菜さん。防護服が必要なんですよ!」
ノグチが後ろから言葉を投げた。
日菜は冷や水を被ったようにぶるっと震え、ノグチを振り返った。
「防護服? 放射能汚染か、有毒ガスか…、それとも伝染病ってこと?」
ノグチは死神のように不吉な薄笑いを、痩せこけた顔に浮かべて頷く。
彼は別の出口を指差した。
「先に、窓から景色を眺めませんか。まずは、未来を説明したい」
彼は日菜を連れ、小部屋に入った。
そこでは彼の意志に反応するように、同時に三方向の窓が開いた。
三つの窓の景色は繋がらず、見下ろす角度も異なった。
「これが未来? 合成映像みたい!」
日菜は不満を口にした。
一つ目の窓には、廃墟となったアジアの街が映し出されていた。
二つ目の窓には、UNの文字が入ったトラックと、無数の難民キャンプのテントが海原の波のようにどこまでも続く景色が映っていた。
三つ目の窓には、どこかの医療施設のようなところで、貧しそうな子供達が、白人の医師に診察を受けていた。
「これが、この時点のY市。アナタの街です」
ノグチの言葉に、日菜は愕然とした。
そういえば、あの瓦礫の山は港公園からそう遠くない、高層ビルが建ち並ぶ辺りだ。背後に海も見える。
医療施設の窓の向こうには、Y市から見える山の尾根が覗く。
「こ、これって爆撃されてるよね?」
日菜は焼け野原を、食い入るように眺めた。
中東の爆撃された市街地みたいに、ビルが崩れている。
その周辺一帯が焼け野原になっている。
「何があったの? 戦争?」
日菜の胸が鼓動を速め、息が苦しくなった。
「では、トキオに会いに行きましょう。会えるかどうか、わかりませんけど、彼が確実に存在した年代です」
ノグチが親指で、ゲートの方を指差した。
日菜は防護服を着る時間さえ、もどかしかった。
彼女はワンピースの上に、防護服を急いで着用した。
防護服は白一色。見た目より軽量の素材で、ヘルメットとスーツが繋がっていた。
X字型の扉が上下左右に開き、タラップが、吐き出される獣の舌のように地面に垂れる。
日菜は自動で動くタラップによって送り出され、地面に一歩踏み出した。
青い霧が晴れていくように、少しずつ、現地の景色が見えてきた。
日菜が降ろされたのは、目立たない路地裏だった。
ガラスの破片とコンクリートの屑が散らばる路地裏から、日菜が通りに出た。
コンクリートの建物は何とか形骸を残すものもあるけれど、大概は焼けてしまっている。廃材で作られた、粗末な掘立小屋が、建物の跡地に並んでいた。
ぼこぼこにへこんだ車、落書きだらけのトラックが通り過ぎ、砂埃が立つ。
古い映像で見た戦後の日本みたいだが、ここは未来の日本のはずだ。
毛布で作られた日除けの下で、片足のない若者が露店を出している。
防護服は……誰も着てないじゃないか。
「日菜さん、そこから歩いて、通りをまっすぐ右に進んで下さい。半壊した黄色いビル…が見えたら、左へ。Y市の公共施設のエリアに出ます。私はそこまで行けませんから…」
ノグチの声が、ヘルメットに組み込まれたイヤホンから聞こえた。
「ここって、スラム街じゃない? どうなっちゃってんの? ここがY市? 誰も防護服を着てないよ」
日菜は通りに出て、住人達の白い視線を浴びた。
「誰も、防護服を持ってないんでしょうね。…勇気があるなら、日菜さんも脱いでもいいですよ。まぁ、おすすめしませんけど。…トキオはK大学院に新設された、科学技術研究所のH棟にいるはずです…」
ノグチがトキオの居場所を言ったので、日菜は逸る心を抑えきれずに、道を急いだ。
ガラの悪い連中が、政府のものと思われる防護服着用の日菜を追ってくる。
彼らは長髪を染めていて、軍隊のような編み上げブーツを履いている。年も若く、目つきが悪く、歩く途中で唾を吐く。
日菜は何度か後ろを振り返り、気味悪く思った。
それと同時に、自分だけ防護服を着ている後ろめたさがこみ上げ、脱ぐべきかどうか、迷った。
でも、正直に言って、脱ぐのは恐ろしい。
何が起きているのか、どういう状態なのか、一切知らないだけに、恐ろしさも大きかった。
防護服は通気性が悪い。
彼女はすぐに汗だくになった。暑くて、湯気が出そうだった。
日菜が黄色いビルの角を曲がると、不良グループはその先までついて来なかった。
日菜の歩く道程を、ノグチは転送機の画面で追っているらしい。
彼は正確に道順を指示する。
日菜はK大の科学技術研究所・H棟に辿りついた。
その周囲には、同じ白一色の防護服を着ている人達が歩き回り、ぴかぴかに磨かれた公用車が走る。また、警備員が多くいた。治安の悪そうなスラム街から一転、安全な地域に入れたようだ。
車道も広く、整備されている。
片側に、アーミーの災害用トラックが何台か停まり、ライフルを担いだ兵士達の姿が見える。
日菜の時代では見慣れない、武装したアーミーの姿に、気持ちがぴりっと引き締まった。
そう言えば、上空を先程から飛び交っているのも、米軍のヘリコプターばかりだ。
高い塀で囲われ、内側が見えない門の前に、日菜が立つ。
塀には、銃撃された跡が残る。
日菜がインターホンに触れた。
画面に女性の画像が出た。
女性は事務的に、日菜に問いかけた。
「お名前をおっしゃって下さい。ご予約はなさっていますか?」
日菜は緊張しながら、返事をした。
「平原日菜と言います。予約はしてません。ここに、荒川トキオさんはいますか? 私はトキオさんの友人です」
女性は機械のように愛想なく、にこりと形だけ微笑んで、
「IDが確認されません。IDはお持ちですか? なければ、荒川さんと連絡を取ることができません」
と、棒読みで答えた。
日菜は必死に頼んだ。
「やっぱり、ここにトキオがいるんですね!? 私は友人の日菜です。本人に聞いてもらえば、すぐにわかります!」
女性は何の感情も示さず、丁寧に答えた。
「荒川さんの友人の平原日菜さんは、この研究所にいます。H棟は平原さんの研究室です」
日菜はびっくりした。
この汚染された未来の、K大の科学技術研究所に自分の研究室があるなんて。
そして、研究員の一人として、トキオがいた!
日菜はなかなか、開いた口が塞がらなかった。
唖然とする彼女に、アンドロイドの受付嬢がたたみかけてきた。
「ご本人かどうか、虹彩で確認します。……確認できました。あなたは平原さん、ご本人です。でも、現在の平原さんより、年齢が若いと判断されました。現在の平原さんは、H棟の研究室17から19にかけての廊下を歩行中です…。あなたは過去から来た平原さんです」
日菜はとっさに、一歩下がった。
まずい! まさか、バレるとは思わなかった!
続けて、アンドロイドは淡々と語った。
「同時に存在することは違法です。警察に通報します。警報が作動します。あなたを捕縛します…」
門の上で赤色灯が回転し、けたたましくサイレンが鳴った。
日菜は一目散に駆け出した。
門の左右から、ゆらゆら蛇腹状のものが伸びて来て、自在に動き、その先端の挟みで日菜を捕まえようとした。
日菜は躱したが、自動追尾するように伸びてくる。
それに、サイレンを聞いて、付近にいた大勢の警備員がこっちを振り返り、駆けつけようとしていた。
日菜は防護服で足がもつれそうだった。
「ノグチさん!」
彼女が叫んでも、ノグチの応答がなかった。
日菜は罠に嵌められたのか?
ラジコンみたいな小型の無人ヘリコプターがローター音を響かせ、彼女を追撃する。
日菜は廃墟のビルに駆け込んだ。
そこで、防護服を脱ぎ捨てる。
もう、怖がっている場合じゃないと思った。
服は絞れそうなほど、汗で濡れている。髪も濡れている。
日菜は廃墟の中を走って、埃を被り、蜘蛛の巣を被り、木の破片にスカートを引っかけて破いた。
裏口から出て、スラム街へ入った。
日暮れ時で、どこかで鐘の音が鳴っていた。
あれは、K大のカリヨンだ。日菜は思い出した。
ここは日菜のよく知る街だったのだ。
K大の正門前から桜坂を降れば、駅前の商店街があった。古い商店街だったが、学生が多く通るので寂れなかった。
おいしいカフェが並び、おしゃれな店がたくさん軒を連ねた。
重要文化財になっている古寺があり、胴回りの太い木々が夏には濃い葉陰を作り、蝉の声が響き渡った。
トキオとよく行ったラーメン屋があった。
両親と七五三で記念写真を撮った神社があった。
この辺りに住んでいる、高校の同級生がいた。
日菜は走りながら、涙が溢れるのを止められなかった。
日菜は元来た路地裏へ戻ってきた。
「ノグチさん…」
息切れして、喋れない。
ノグチの乾いた笑い声が聞こえた。
ノグチは路地裏に、防護服を着込んで、影法師のように立っていた。
「誤解しないで下さいね。助けようがなかったんですよ。私も逮捕されちゃいますからね…。うまい具合に、土地勘を活かして逃げましたね?」
日菜は荒い息をして、呆然とノグチを見る。
彼女は混乱していた。
過去の時代では、トキオは生まれて来なかったことにされたのに、未来では、トキオは日菜と一緒に研究している。
それが、新型兵器に繋がる研究なんだろうか。
日菜の疑問を察し、ノグチは外人のように両手を広げ、肩を竦めた。
「日菜さん、ここはね…。日本じゃないんです。アメリカになりました」
「はぁー?」
日菜は何とか喋ろうとした。
「あ、呆れたよ…。ノグチさん…。日本とアメリカの同盟は…どうなっちゃったの?」
彼女は尻を地面に着いて、座り込んだ。
ノグチは平然とした口振りで、日常の挨拶を交わすように軽く答えた。
「勿論、同盟は継続中です。日本を守る為です。北海道はロシアに、九州・沖縄は中国になりました。戦争は続いています。きっかけはアナタとトキオが発明した兵器です。どんな気分ですか? 日菜さん?」
日菜は反論を試みた。
「絶対、何かが変だよ。私とトキオは、兵器なんか作らないもん。日本が分割されてんの? あなた達が何か工作したんじゃないの?」
ノグチは日菜を立たせ、鼻を鳴らして言う。
「馬鹿なことを。歴史を変えることは禁じられてると、教えてあげたはずですよ。この未来は、アナタとトキオのやったことの結果です。自分の生まれた街を、よくご覧なさい」
日菜はふらふらしながら、路地裏の、壁に挟まれた隙間からスラム街を眺めた。
何か、納得できなかった。
「東京もこんなことになってるわけ?」
「もっとひどい焼け野原ですよ」
ノグチは日菜を促した。
「さぁ、帰りましょう。アナタの現代に。由紀くんが待ってます」
二人の前に、青い鬼火が出現した。
炎が揺れながら、二人に近付き、斜め十字に口を開いた。
その口に噛み裂かれるように、二人は鬼火に取り込まれた。
突然、地下鉄の連絡通路の壁が黒く切り裂かれ、空中から日菜が転がり出た。
日菜は由紀の腕の中に、崩れるように倒れ込んだ。
「日菜ー! 無事か!? トキオは?」
由紀がしっかりと日菜を受け止め、まずはトキオのことを聞いた。
「トキオと、会えなかったよ。未来はひどいことになってた…」
日菜は由紀に寄りかかり、ぐったりとした。
彼らの後ろで、ノグチの部下が壁の裂け目に入っていく。
ノグチが空間の裂け目から上半身だけを覗かせ、手を振った。
「では、日菜さん。またお会いしましょう。アナタは私の監視下にあることを忘れないで下さいね…」
壁の裂け目がまるで、傷が修復されるように薄くなって消えていく。
そして、何事もなかったかのように、連絡通路にじめじめとした空気と黴臭さだけが残った。
日菜は玻璃が入っているみたいに煌めく眸で由紀を見詰め、
「きっと、未来を変えることが出来るはずだよ。どこかで、トキオも同じことを考えてる…」
と小声で呟いた。
彼女は小刻みに震えていた。
日菜と由紀の耳に、地下鉄の通過する音が聞こえてきた。
地下鉄に、未来へと向かう自分達を思い重ね、日菜は疲れて目を閉じた。
Ⅶ 過去へ
1
K大のYキャンパスのメインカフェテリヤは、数百人分の席があり、とにかく広くて、展望がよい。
三階分の吹き抜けの窓から、桜坂とY市の街並みを見晴らし、明るくて、まだ新しくて綺麗。
昼は混むけれど、他にもいくつかカフェやファーストフードの店舗があるので、座れないということはない。
由紀が一人で列に並び、日替わりランチを受け取ろうとしている。
「生きてたんスか、由紀くん」
イリエがトレーで由紀の頭を軽く叩き、列に割り込んできた。
彼は由紀が取ろうとしていたランチを奪い、ライスを大盛りに変えた。
「イリエさんも、今から学食のご飯ですか」
由紀は頭を撫で、のほほんとしてイリエを見た。
工学系の修士課程は、同じキャンパスにある。
イリエは由紀と日菜のことを、相当心配していたはずなのに、そのことを口に出そうとしない。嬉しそうに、ただ笑っている。
ふいに、由紀は誰かにヘッドロックされた。
大柄なケッズが、彼の背後から太い腕を回していた。
「由紀くん。一人で日菜ちゃんの前で、カッコつけようとしたんだって? おいおい、ズルいな。君は」
小柄でか細い由紀はもがきながら、ケッズの腕を振り解こうとした。
「で、由紀くん。お姫さまは、どこにいるんスか? お休み?」
イリエが横から問う。
由紀は半分本気でケッズを押し退け、
「お姫さま? あのワガママ女がですか? 日菜は見てきた未来が、よっぽどショックだったらしくて。ほーら、あの通りですよー」
テラスの外を顎で示した。
ケッズとイリエがカフェテリヤのテラスの外を見回した。
日菜は……。
午後の陽光が、眠気を誘う。
眩い光に満ち、心地よい微風が吹き、木々の新芽が色鮮やかに青い。
昼休みの終わりを告げるカリヨンの音が聞こえるが、日菜は動かない。
芝生の上に座り込み、煉瓦風の外壁に凭れ、完全に呆けてしまっている。
未来は日菜の想像を超えていた。
もしかしたら、何かの間違いで、やっぱりタイムマシンなんて有り得ないんじゃないかと疑っていた。
トキオは何か妄想を騙っていただけで、きっとオタクゲームの中毒で、ノグチも頭のおかしな人なんじゃないかと。
そして、そういう現実逃避の考えは、彼女の希望でもあった。
日菜は自分の未来を知ってしまった。
知らなきゃよかった。
子供の頃に夢見ていたのと、現実は違う。
日菜はぼんやり空を眺め、流れる雲を目で追いかけながら、心は虚ろだった。
かなり長く、彼女は放心状態だった。
昼休みが終わり、カフェテリヤの賑わいが遠のいていく。
彼女の心も更に遠くへ、雲とともに流れていく。
日菜は何気なく、通り過ぎる人に目を留めた。
その人はすらりと背が高い女性で、細いのにとてもグラマラス。たぶん、学生ではなさそうだった。
黒いVネックのニットと、短いタイトスカートにハイヒールで、白衣を着ていたけれど、教員にも見えなかった。
日菜は思わず立ち上がり、そろそろと女性の後ろ姿を追った。
その女性は薔薇の香りが漂う。
ミルクココア色のスパイラルヘアがうねりながら、肩、背中と流れて渦巻き、長い睫とぱっちりした瞳、薔薇色の頬がフランス人形みたいだ。一度見たら忘れられないような、特徴的な美貌だった。
学生達がみんな振り向いて見るぐらい、目立つ。
女性はテラスの端にある喫煙所で、タバコを一本取り出した。
テーブルに肘を付き、煙を吐きながら、Y市の街並みを眺めている。
日菜は勇気を振り絞り、その綺麗な女性に話しかけた。
「あの、大原病院で一度見かけたことがあるんですけど…K大の方だったんですか?」
女性は驚き、日菜を振り向いた。
それから、大きな口を開けて笑い、嬉しそうに返事してくれた。
「私? 私のこと、知ってるの?」
日菜は唾を飲み、深く頷いた。
「はい。目立つ方だし、間違いないと思います。大原病院のロビーで一度見た…。…未来の…方ですよね?」
日菜の質問に、女性は声を立てて朗らかに笑った。
「やだな、バレてるのか。そうよ。私は、紅島綾生」
紅島は堂々と、日菜に本名を名乗った。未来人であることを、隠す気がないらしい。
「ノグチの仲間ですか?」
日菜は最初、警戒心を持っていた。
その警戒心を解くように、紅島は明快に話す。
「知らないな。誰? ノグチ? 私の仲間にはいないわ」
気取りのない、さばさばした話し方で、日菜は好感を持った。
「じゃ、…もしかして…私を助けてくれた、髪のツンツン立ってる男の人の…仲間?」
紅島は吹き出し、質問に答えた。
「ああ、彼ね。そう、その人の仲間だと思う」
日菜はやっと知りたかった真実に辿り着けそうで、緊張してきた。
「どうして、私を助けてくれたんですか?」
「あの日、あなたとトキオくんが攫われることは、正しい歴史になかったからよ。礼を言う必要はないから。私達、当前のことをしただけ」
紅島が言った。
「紅島さん達は、警察? トキオがどこに連れてかれたか、知ってますか?」
「あらゆる意味で、警察じゃないけど。あなた達のことはよく知ってる。未来じゃ、有名だから。私達、たぶん、あなたの味方よ。日菜ちゃん」
紅島は余裕を見せて微笑み、日菜のどんな質問にも答えてくれそうだった。
「トキオは現在、私達も見失ってて……、行方不明なの。でも、必ず見つけ出して、この時代に戻したいと思ってる」
紅島は落ち着いてメンソールのタバコの火を消し、シルバーのシガレットケースを白衣のポケットに戻した。
日菜はトキオの喜ぶ顔が、目に浮かんだ。
ノグチとは別のグループの、紅島達がトキオを取り戻してくれる。
心にもう一つの景色が浮かんできた。
未来の街にひしめいていた、あの白い難民テントの景色だ。
日菜の喉の奥で何かが張り付いたみたいに、急に声が出にくくなった。
日菜は拳を強く握りしめ、俯いた。
「私と…トキオの発明のせいで…戦争が…」
紅島はすぐ、表情を曇らせた。
「あなた達のせいじゃない…。誰かに聞いた? あの戦争は…誰にも止められなかったの。戦争を避けたかったけど、どうにもならなかった……」
紅島が悲しそうな顔で、長い吐息を漏らした。
日菜は何を聞いても、顔を上げられなかった。
脳裏に、未来の街の景色が鮮明に蘇り、胸が苦しくなった。
さぞかし、未来の人々は日菜とトキオを憎んでいるに違いない。
ノグチみたいに。
「わ…私…」
口籠る日菜を、紅島は優しく抱きしめた。
日菜を薔薇の香りが包んだ。
「日菜ちゃん、謝らないで。あなたは何も悪くない。日菜ちゃん、私達は遠い未来から、あなたを守る為に来たの」
日菜の心が軽くなった。
澄み渡る空のように、清々しく澄んでいった。
日菜は思い切って、今日初めて会ったばかりの紅島に頼んでみた。
「紅島さん、私を助けてくれた男の人に、お礼が言いたいんだけど」
紅島はちょっと考えてから、首を傾げた。
「伝えておくけど、会わせてあげられないと思う。他に何か、聞きたいことは?」
日菜は胸がどきどきと高鳴るのを感じた。
「紅島さん、お願いがあるんですけど」
「なぁに?」
「私を、紅島さんのタイムマシンに乗せてほしいんですけど」
日菜は断られるのを承知で言った。
自分でも、無茶苦茶だと思っている。
しかし、意外なことに、紅島は快諾した。
「なんだ、そんなことか。お安い御用よ。でも、時間中毒という病気には気を付けてね。麻薬のようなものよ、時空を超えるということは。現在という感覚がわからなくなって、神経が昂るの。…じゃ、迎えを寄越すから、明日の午後三時、K大の正門前のバス停で待ってて。一人でね。絶対に、誰にも秘密!」
あんまりあっさり快諾してくれたので、日菜の方が驚いた。
紅島は秘密というところで念を押し、日菜に笑顔で手を振った。
その艶っぽい後ろ姿に、日菜は同性ながら見とれてしまう。
いつの間にか、日菜の隣りに、由紀が立っていた。
彼も、午後の講義をサボったらしい。
「すげぇー美人ーっ! すげぇー美乳っ! ありゃ、Eカップだな。日菜、知り合いか?」
赤くなって騒ぐ由紀の足を、日菜は力いっぱい、踏んづけた。
「エロ猿!! 知らないよ、バカ!」
「痛てっ! 何すんだよ、ブス日菜! ペチャパイ! Bカップが悔しいのかよ? 痛てぇー!!」
由紀は痛みに飛び跳ねた。
日菜は彼に、紅島の転送機に乗せてもらえることになったことを話さなかった。
日菜は一人で未来人のアジトへ行くことになる。
2
翌日、正門前で、日菜は紅島を待っていた。
三時きっかりに、バスロータリーに濃いピンクのマイクロバスが入ってきた。
まさか、あんな目立つバスが迎えじゃないだろうと思って眺めていると、ピンクのマイクロバスは日菜の前で停車した。
バスの車体側面に、BENISHIMA TRAVELと社名らしき文字がある。
ドアが開き、バス会社の制服を着た、若い運転手が降りてきた。
「平原日菜さん? ご予約のお客様ですね? どうぞ、どうぞ。お好きな席にお座り下さい。本日、貸切です。僕は相沢カノン」
運転手は二十歳ぐらい。
カノンは愛想よく胸のバッジを見せ、白い運転手袋を嵌めた手で、日菜をバスに案内した。
日菜はバスの中を見回し、
「紅島さんは?」
と聞いた。
「紅島さん? 今日は公休です。まぁ、いいじゃない。代わりに、僕が転送に同行するんで。さぁ、楽しいドライブにしましょうね、日菜さん」
カノンがはしゃぎながらバスのドアを閉め、運転席に着く。
日菜は紅島が来ないと聞き、目に見えて落胆した。
だって、紅島に聞きたいことが山ほどあった。
日菜は彼の真後ろに座り、運転席の背凭れに齧りつくようにして、喋りかけた。
「カノンさん、私を助けてくれた男の人は? 大体二十二歳ぐらいで、髪をツンツン立ててる人」
「吉井プロデューサーかな。あの人は来ません。部署が違うし。怖いから、来なくていいや。じゃ、出発しまーす!」
カノンはミラーを見て笑いかけ、バスを発車させた。バスロータリーを回り、Y市の中心街へ向かう。
今日はこの男と二人きり。
日菜は残念に思ったけれど、すぐに好奇心が湧き上がってきて、カノンを質問攻めにした。
「カノンさん。どういう組織の人なの?」
カノンは運転しながら、時折ミラーを見て、日菜に答えた。
「カノンでいいよ。僕ら、規則で、自分達のことは話せないんだ。ごめんね」
カノンは紅島ほど率直に話さずに、慎重に言葉を選んだ。
「僕らは何とか、日菜さんを助けることが出来た。トキオは行方不明になったし、こうなったら、日菜さんに頑張ってもらわないと。というわけで、今日は射撃を教えるよー」
カノンが言い、日菜は、
「え、なんで?」
仰天して聞き返した。
「射撃って、ピストル? そんなの持ち歩いたら、警察に捕まるよ!」
日菜の反応に、カノンは大笑いした。
「あはは、呑気だね、日菜さん! 殺されかけたのに! あのね、日菜さんは未来じゃ、かなり有名人なんだ。僕も会えて光栄です。てなわけで、有名過ぎて、命を狙われるほどの歴史上の人物!! 今後はセキュリティの為に、警備班をこっそり付けるから。でね、自分でも最低限の護身用の銃の一丁ぐらい、持っていただきたいわけ」
「私が歴史上の人物? 何言ってんの? 有り得ないんだけど!」
日菜が叫び、自分ではっと気付いた。
「例の、私とトキオの発明で?」
日菜は嫌な気分になった。
「私、まだ監視されてるだけだよ。ちゃんと大学にも通ってるし。リセットされてないし」
「まだ発明してないでしょ。発明してからがヤバいの。まぁ、平気だよ。日菜さんは暗殺されたりしないから。僕が知ってる歴史では、そうなってる」
カノンはすまして、前方を見ている。
日菜は年の近いこの男が、だんだん憎らしく思えてきた。
「カノンや紅島さんは、どうして私を助けてくれるの? 私の発明した兵器で、人が大勢死んだんでしょう?」
日菜の問い掛けに、カノンは不思議そうな顔をした。
「兵器!? そうと言えなくもないけど。確かに、戦争の引き金にはなったよねぇー。でも、僕らは日菜さん達の発明を歓迎してる。してない人達もいる。その人達が、日菜さんとトキオを狙った。お金とか、権力とか、国益の絡む話…。そんなの、いつの時代にもあるでしょ? そういう説明じゃ、ダメ?」
カノンはお喋りな男だったが、肝心なことは曖昧に濁した。
「その兵器で、どのぐらいの人が死んだの?」
日菜はずっと気にかかっていたことを尋ねた。
「兵器って言い方、誰がしたの? 日菜さんはアインシュタイン級の物理の理論を発表しただけじゃないか。理論の使い方次第では、大勢殺せるけどね」
カノンの返事は、日菜の心の呪縛を解いた。
バスは山手の坂を昇っていく。
街の中心を見下ろす丘の上に、古めかしい洋館が建っていた。
カノンは白い手袋をした手で日菜の手を引き、バスから降りた。
彼はポケットから鍵束を取り出し、洋館の正面の大扉の鍵穴に、鍵を挿し込んだ。
木製の厚い扉が軋みながら開く。
埃臭い匂いがする。
「誰の家?」
「さぁ…? 僕も、今日初めて」
カノンは先にエントランスに入り、鹿の剥製の角に運転手の制帽を掛けた。
彼はリュックから無造作に、本物の銃を取り出した。
そして、日菜に握らせ、耳栓、ゴーグル、手袋、何種類かのホルダーを続けて手渡した。
日菜の右手に冷たい金属の感触が伝わった。意外に、銃は軽かった。
「警備班が付いててくれるんなら、こんなの不要じゃない?」
日菜は何だか恐ろしかった。
「そんなんじゃ、生き残れないって。日菜さん達の発明を横取りしたい連中はたくさんいる。世界中に、数え切れないぐらいだよ。いい? 殺される前に撃って。殺そうとしてきた敵を撃って」
カノンは他人事だと思って、素気なく言い捨てる。
彼は同じ型の銃を抜き、握り方を見せた。
「この時代の九ミリ弾、二十発装填してあるよ。オートマチック。女の子でも楽に操作できる軽さで、殺傷能力は高め。撃った時のショックも小さいから、すぐ連発できる。ここが安全装置で、切り替え。わかるね? 右手は伸ばして、軽く握って。左手で右手をしっかり支えて」
日菜は言われても、おどおどした。
ゾンビを撃ち殺すゲームなら楽しそうだけど、これは人を殺す本物の武器だ。
カノンがお構いなしで、次に照準の合わせ方を教える。
「そう、そのぐらい。屋内では跳弾に気を付けて。壁とか天井とか、撃ったら跳ねるよ。姿勢は低く」
日菜はそれどころじゃなくて、
「待って。いつ撃つの? 誰を撃てばいいの?」
未来を知る相手に聞こうとする。
カノンは困ったような顔をする。
「トキオが攫われるなんて、僕らの習った歴史にない出来事だからね。とにかく、君を殺そうとする奴ら、全部をさ、殺すつもりで撃たないとね。生き残れないよ。未来に繋がらなくなる。絶対に手加減しないで」
日菜は庭に用意されていた的に向かい、一発撃った。
的の一部が砕け散った。
彼女は初めての感触を知った。
案外簡単で、面白かった。
一通りの練習が済み、日菜は洋館の二階へ連れていかれた。
廊下の突き当たりの扉を開くと、また扉があった。
その扉はこの洋館に似つかわしくない、金属製の重厚な扉で、内側は同じ金属で囲まれた、箱状の狭い空間だった。
カノンは日菜が狭い空間に入ったことを確認した上で、彼の生体認証で開く、次の扉を開けた。
「おはようございまーす」
カノンが出勤時のサラリーマンのような挨拶で、奥の空間に入った。
日菜も続く。
扉の奥が古びた洋館から一転し、ありふれた賃貸マンションの玄関になっていた。
細い廊下の先には、八畳ほどの、散らかりまくった仕事部屋。
バルコニーに面した窓に、安っぽいレースのカーテンが掛かっている。コーヒーとタバコの匂いがする。
「おお、カノンか。お疲れさーん」
「カノン、お疲れー」
若い男女の声。
日菜は面食らってしまった。
「ここはY市内のマンションで、僕らの現場オフィス。今日はあの洋館の二階の部屋と、連結してあった」
カノンは説明を、かなり省略した。
日菜は目瞬きしながら、未来人のオフィスを見た。
コンピューター以外は、全て現代の物が使用されていた。
三人の未来人の現代での格好は、何故かジャージだった。
カノンは散らかった部屋を横切りながら、バス会社の制服を脱ぎ捨て、グレー系の迷彩服を着た。
迷彩服はパイロットのフライトスーツのように上下繋がっており、腰回りがゆったりしていた。
ポケットが多く、いろんな機能の端末が付いて、日菜には戦闘服みたいに見えた。
更に、カノンは片手に編み上げブーツを持ち、南側のバルコニーの戸を引いた。
戸の向こうはバルコニーではなく、再び金属の小部屋になっていた。
窓からはバルコニーが見えるのに、戸の開いた先は別の空間が存在している。
まるで、トリックアート。
手品みたいで、不思議だった。
3
日菜とカノンは、歩いて時空を超えた。
異なる世界へ、たったの三歩で辿り着いた。
扉の向こうは、深い森のような、仄暗い影と緑がかった淡い光が入り混じる世界。
よく目を凝らせば、何層もの吹き抜けで、細いキャットウォークと支柱が木立のようなシルエットを形作っている。
何か、ぼんやり影が見える。
流線型の物体だ。円盤じゃない。
日菜は初めて、転送機の外観を見た。
UFOと呼ぶには、イメージが違い過ぎる。
それは大型の乗り物であり、宿泊するような場は持たず、かなりの高速で空を飛ぶことが出来そうだった。
色はカメレオンのように、自在に周辺に馴染みそうだった。日菜が見た時は、この場所に合わせて淡い緑がかった光沢の、鏡のようなガラス的質感で覆われて見えた。
日菜は歓喜の声を上げ、走って転送機に近付いた。
転送機が鏡と同じように、日菜を映し込む。
ステルス爆撃機にも似ているが、エンジンの位置がよくわからなかった。
何もシステムがわからなくても、日菜にはとても美しく見えた。
ノグチの転送機と似ていると思われるところは、自動のタラップと搭乗口だけだ。
搭乗口の左手に、前方部の視界を確保したコクピット。
コクピットには、レバーもハンドルも見当たらない。
右手にキャビン。
キャビンの中も、ノグチの転送機とは大きく違う。チューブや、壁と天井の孔がない。
こちらの機体は天井が低く、室内が狭く、すっきり、整然としている。
最も異なる点は、座席の数である。
たったの、八席しかない。
八席は背中合わせに円形に並び、花びらのようなフードが八枚、開いている。
卵みたいなカプセル型でもなく、連なる八席が一つの蓮の花みたいだ。
「八人定員? こじんまりしてるね」
日菜は思わず、笑った。
ノグチの転送機は、一度に数十人の部隊と大量の荷物を運搬できそうだった。
カノンはタラップの下で、編み上げブーツの紐を結んでいた。
「そう? 他の転送機を見た? でも、僕らは各部署・各班ごとに転送室をもらってるから、これで充分だけど」
日菜は待ちきれずに、シートの一つに座ってみた。
その柔らかさと弾力のバランスときたら、ノグチの転送機と比較にならないぐらい、極上の心地よさだった。
彼女は浮かれ、シートの上で足をバタバタさせた。
すると、目の前に画面が出現し、カノンの様子が映し出された。
画面の中のカノンは、転送室の大型スクリーンを仰ぎ見ていた。
「日菜さん、シートベルトはロックした? 滅多に転送事故なんてないんだけど、一応ちゃんとヘルメットもしてね。さぁ、どこへ行きたい?」
カノンは大型スクリーンの前で腕を組み、画面越しに日菜を見詰めた。
日菜は遂にその時が来て、大喜びでリクエストした。
「2012年7月7日、午後8時。場所はY市海岸線の…」
カノンはそれを聞き、大型スクリーンを振り返った。
「…だってさ。聞こえた? 管制塔?」
大型スクリーンには、カノンと同世代ぐらいの若い管制官が映った。
管制官は制服ではなく、自由な私服だった。
「カノン、それはヤバいよ! 紅島さんの許可、あるのか? それ、例の日付と場所…じゃないか」
管制官が慌てて、カノンに伝えた。
カノンも気付いた。
トキオが消えた、七夕の夜だ。
日菜はどうしても、トキオが攫われたあの瞬間を見たくて、そこは誰にも譲る気がしなかった。
「いいよ、やっちゃって。紅島さんが日菜さんを、好きな時点に連れてってやれと言ったんだからね」
カノンがタラップを昇り、搭乗した。
彼は貨物庫に降り、荷物を確認した。
「カッパ要るぜ。カッパ。カッパって、昔の言葉なんでしょ? あの日は雨の七夕だった。星が一つもなかったね」
彼はキャビンに入り、日菜の隣りのシートに座った。
「カノンも、あの時あの場所に居たんだ?」
日菜はびっくりした。
「怖ーい吉井プロデューサーの指示で、日菜さんを担架に載せて運んだのが、僕。救急車を運転したのも、僕」
「そうだったんだ。ありがとう、カノン」
日菜は心から、お礼を言った。
フードが下がり、管制官の秒読みが聞こえてきた。
日菜とカノンは、白い光の中を落ちていくような錯覚を感じた。
4
あの日、雨は夜にかけ、徐々に激しさを増した。
日菜はあの夜のことを、一つずつ克明に思い出した。
雨に景色がけぶる。
日菜とカノンは事故現場のすぐ近くの、ガードレールの外側に黒いテントを張っていた。
日菜はテントのファスナーの隙間から、暗視ゴーグルを手に持ち、事故の瞬間を待ち構えている。
二人は黒いカッパを着込み、黒い手袋と黒いマスクを付けた。
「一瞬だから、見過ごさないでね。吉井プロデューサーと僕は、あの崖の下に陣取ってる。これと同じ、特殊素材のスーツを着てるから、暗視ゴーグルでも見えないよ」
カノンが話す声は、イヤホンから聞こえた。
「日菜さん、来たよ。あの日の日菜さんとトキオだよ」
カノンに言われる間でもなく、日菜もトキオのバイクのヘッドライトを見出していた。
暗闇を流れる、光の行列。後続はパトカーのヘッドライトと赤色灯だ。
その光の行列が、海岸線のカーブを曲がってくるのが、暗視ゴーグルなど必要なしにしっかり見えた。
日菜が額の冷たい雨を拭う。
「パトカー、五、六台いるなぁ…。日菜さん、そろそろ、奴らが着時する。道路の上、数メートルぐらいの高さ…」
カノンが呟いた。
その刹那…、空が裂け、稲妻のような閃光が走った。
彼が予告した通り、空間が斜め十字に裂けていき、青い鬼火が噴き出した。
その炎は球状に膨らんだ。
「あっ、光の中に何かあるよ!」
日菜の記憶が事故の瞬間と重なっていく。
彼女は今、違うアングルから客観的に眺めている。
「全体は大きいんだけど、こっちの次元には一部分しか出て来てないから…」
カノンが不思議な説明をした。
その間に、鬼火とトキオのバイクの距離が縮まっていく。
「exitが開く…! バイクがぶつかる!」
カノンの解説と同時に、バイクが転送機の出口に衝突した。
バイクが跳ね飛ばされ、あの日の日菜が宙を舞う。
「私、あんなに飛んだの!?」
日菜が自分の事故を目撃した。
タイムマシンが存在したからこそ、見ることができた瞬間だった。
「飛んだねぇー。死んだかと思ったよ。…ほら、日菜さんは道路を滑って、うまい具合に吉井プロデューサーの方へ転がった。トキオは反対側か…」
カノンが唸る。
ここから先は、彼も初めて客観的に見ることになる。
跳ね飛ばされた日菜は、闇の中に消えてしまった。
カノン達が隠したからだ。
米兵が降りてきた。あのクイックヘールとかいう、アーマーを装着した状態である。
何度も見た悪夢と重なり、日菜は恐ろしさで息が苦しくなった。
米兵達は、バイクとの衝突で歪んだ出口の扉に困惑し、口々に何か叫んでいた。
カノンと日菜もテントの床に伏せ、見つからないように息を殺した。
緊張の時間が続く。
日菜は倒れているトキオの方向を、暗視ゴーグルで見た。
トキオは血塗れで、ぴくりとも動かなかった。
日菜は内心焦りまくり、助けに飛び出したかったが、米兵がいるので我慢した。
日菜が無言で見詰める中、トキオに異変が起きた。
突然、漆黒の闇がトキオの全身を覆い隠したのだ。
日菜は何事かと思った。
アーマーを付けた米兵達は、トキオを拉致するどころか、見つけられなくて騒いでいた。
トキオの居たはずの場所で、闇が蠢いていた。
蠢く闇の中に、暗視ゴーグルのレンズが一瞬、光を放って見えた。
闇をまとうようにして、誰かがトキオを攫おうとしている。
闇で自らの全身を覆い尽くし、夜に紛れた二人組が、手際よく、トキオをす巻きにして抱え上げる。
日菜は叫びそうになって、口を必死で押さえた。
「あれは…」
日菜は信じたくないけれど、確かに見た。
蠢く闇を繋ぎ合わせた隙間から、一筋の茶髪が渦を巻きながら零れ出ていた。
あの微妙なミルクココア色の波うつ髪は……紅島だ。
カノンも同じものを見た。
「ありゃー!? どういうわけだよ。ヤバいもん見ちゃったな。あれ、紅島さんじゃないかな…」
カノンも混乱した。
彼はトキオと日菜を保護する為、あの夜、この時点を訪れた。
トキオを見失い、日菜だけを助けることに成功したつもりだったが…。
「日菜さん、誤解しないでくれよ。僕はこんなこと、知らなかった。知ってたら、たぶん、ここに日菜さんを連れて来ないし。僕は新人で下っ端なもんだから、ちょっと意味がわからない…」
カノンの言い訳を、日菜は拒んだ。
トキオを拉致したのは、ノグチじゃなかった。
「トキオをどこに隠してるの!? トキオを拉致したのは、紅島さんじゃない!!」
日菜がカノンの雨具の襟を掴んだ。
カノンが体勢を崩し、二人は絡まるように水溜りを転がった。
「やめろよ。こんなとこで話してても仕方ない。帰ろう」
びしょ濡れのカノンが咳き込んだ。
七月とは言え、雨は冷たく、寒かった。
カノンが蒼褪めて震えてるのを見て、日菜も冷静さを取り戻した。
日菜とカノンは転送室へ戻り、タオルで顔や頭を拭いた。
「紅島さんの自宅って、ここから近い?」
日菜は今にも、押しかけそうな勢いだった。
「聞いてどうするの? 紅島さんはトーキオからシャトル通勤だよ」
カノンは渋い表情になった。
「日菜さん、何を疑ってるか、わからなくはないけど、僕らも一応、過去の人間を誘拐したりすると犯罪になるからさ。まさか、自宅に連れて帰ったりしてないさ」
「東京は壊滅状態になったんでしょう?」
日菜が食い下がった。怒りで興奮状態だった。
「それは昔だよ。トーキオはとっくに復興して、また高層ビルが建ってる。汚染地のスラム街も殆どなくなって、もう難民テントなんかない」
カノンは、ノグチが日菜に見せた未来の先を語った。
「紅島さんに会ってくる!」
日菜が転送室を飛び出した。
エアシャワーの小部屋の次に、鏡張りの細長い通路があった。
日菜が自動ドアを抜けると、耳慣れない音の警報機が鳴り響いた。
侵入者を知らせるコンピューター音声が、館内アナウンスで流れる。
日菜は迷う暇もない。
行き当たりばったりで全力疾走した。
何かの機械室へ入り込み、露出した配管をまたぎ、バルブの下の小さな点検口の扉を潜る。
急に空間が開けて、眩しい表通りに出た。
…いやいや、まだ屋内だった。
しかし、屋外のような、果てしない広さだ。通りの先は遥か彼方まで直線で、終点が見えない。
目の錯覚なんだろうか?
上を見上げると空があり、雲が流れていくが、よく見ると、映像の雲である。天井に空が投影されているだけだ。
この通路は何キロ先まで続くのだろう?
この天井は、何メートルの高さがあるのだろう?
日菜の前を、道が流れていく。
ターミナル駅にあるコンコースと似ているが、大規模過ぎる。立体交差や交差点、信号がある。
有人・無人のカートが空中を飛行して来たり、動く道を流されて来たりする。
壁にも合成映像がデタラメに嵌めこまれ、海辺の美しい景色や、秋の森が登場する。関連がない景色が次々と柱の間を埋める。いくらリアルな映像でも、その嘘臭い世界は所詮、継ぎはぎの絵でしかない。
どこまでも変わり映えしない、薄茶や薄いグレーの建物内都市。本物の植物や、本物の熱帯魚はない。
日菜はすぐ、道に迷った。
もう、一歩も進めなくなった。
自分が来た方角すら、わからなくなって足が止まった。
動く通路をカートで流れてきた男性は、精巧なアンドロイドだった。
カノンと同じ、グレーの迷彩服を着ていた。
「ねぇ、シャトル乗り場はどこ?」
日菜がアンドロイドに尋ねたら、アンドロイドは不快そうに顔をしかめ、
「IDバッジがないと、シャトルに乗れないだろうが」
と、偉そうに怒鳴った。
アンドロイドなのに、態度が悪い。
日菜は困り果て、左右を見回し、荒い息で肩を上下させた。
「日菜さん、こんなとこに居たのー?」
カノンがやっと、追いついた。
彼は日菜が勝手な行動をしたことを責めなかったが、心配した分、怒っていた。
「君の現代へ帰ろう。夕方の五時の時点に送ってあげるよ。…本当に、危なかったんだよ。一人で歩いて、異時空に落っこちても知らないぞ。天才物理学者のイメージが壊れたよ。やみくもに突進するなんて、科学的じゃない」
日菜は小さくなって、反省した。
「ごめん。私も、そう思う。私が歴史上の人物になるなんて、信じられない。無謀だし、根気ないし、いつも考え足りないし、ちっとも科学者に向いてないよ」
「でも、なっちゃうんだよ。歴史じゃ、そうなってるから」
カノンはあっさりと答え、
「また会おうよ。紅島さんを連れてくよ。トキオがどこにいるかわかったら、知らせてあげる。それまで、あの銃で何とか凌いでね」
と、笑顔で励ましてくれた。
日菜は通路に膝を着き、眩暈と吐き気を感じた。
トキオは一体、どこに行ってしまったんだろう。