ⅩⅦ 紅島の自宅で
3
昼頃、由紀の悪友クッキーが来た。
イチゴ色の前髪を鬱陶しいぐらい目元に垂らし、サングラスを襟に引っかけ、クッキーは今日もちょっと、いかれた格好をしている。
肩には大きな鞄を担ぎ、キャリーも引っ張っている。
移動中のスタイリストみたいだ。
「クッキー、すごい荷物。何入ってるの?」
日菜が、A室へ荷物を運ぶのを手伝う。
A室にはピヨが暮らすが、まだベッドが一つ、余っていた。
「これ全部、俺の着替えと変装道具だよ」
クッキーが得意げに話した。
しかし、日菜は悲鳴を上げた。
「えーっ!! 何泊するつもり!? そんなに長くオーナーいないなんて、寂しいよう!」
日菜が嘆くと、モテない男クッキーも嘆いた。
「俺じゃ、ご不満!? 遂に作戦部隊が動くからね。ここまでお膳立てした俺と由紀は、休みなの。ここからがクライマックスなんだけどねー」
クッキーは日菜が全部知っていると思い、べらべら喋ってしまった。
日菜は愕然とした。
「やっぱり、オーナーがリーダーなの!? 作戦部隊…って、何するの? それって、ヤバい?」
日菜は夜中、オーナーと別れた時のただならぬ様子を思った。
クッキーは荷物をA室に入れ、デスクにPCを出した。
「俺達、いつでもヤバいんだよ。未来からの難民は、見つかり次第、射殺される。資産家は過去に亡命できるのに。ズルいよなぁ?」
クッキーはデスクの椅子に座り、溜息をついた。
「オーナー、何をしようとしてるわけ?」
日菜はなかなか、部屋の入口から去らない。
出された質問に、クッキーは丁寧に答えた。
「俺達の時代の政治家が、過去に亡命してんのさ。何の責任も取らないで、ヤバくなったら一番に逃げ出した。そいつらのせいで、俺達はとんでもない目に遭わされたんだ。大勢死んだよ。俺達の家族も友達も…、戦争に連れてかれた奴はみんな…。その鬼みたいな、悪魔みたいな政治家どもが、俺達の最後のターゲット。死んだ家族の報復だよ」
クッキーの話を聞く限り、日菜は何が正しいのか、わからなくなった。
彼等のやろうとしていることは間違っているが、彼等自身も被害者だった。
何を批判したらいいか、何が真実で何が正義で、そんなことさえ暗くて濁り、見えなかった。
「他にいい方法はない? 転送機を使っても、どうにか出来ない?」
日菜は息が苦しくなる。
報復なんて言葉自体、ショックだ。
オーナー達がそんなことを考えていたなんて。
「うーん、日菜ちゃんとトキオを殺したら…、未来は転送機が発明されなかったことになって…、戦争も起きないかも。俺達の時代も変わる。あ…、ゴメン、ゴメン。俺達、ちゃんと話し合って、その方法はなるべく避けようって決めたんだ。だって、日菜ちゃんとトキオは悪くない。俺達は一番悪い奴等を、一番苦しめる方法を選択した。へへへ…」
クッキーが話した内容は、日菜を苦しめた。
以前、ノグチも、日菜とトキオを殺したいぐらい憎んでいると言った。
ノグチにとって、日菜達のせいで彼の父親と婚約者が死んだのも同じなのだ。
そのことはきっと、ノグチ以外の大勢にとっても同じで、転送機がもたらした戦争が、とても多くの人々を苦しめたのだと痛感させられる。
そこへ、由紀とコハクが通りかかった。
コハクは黒一色の、ポケットやジッパーがたくさん付いた戦闘服のようなものを着て、黒のミリタリーブーツを着用していた。
「コハクくん、何!? そのカッコ!?」
日菜は目を丸くして叫んだ。
それは夜襲用のダイブスーツだった。
「日菜さん、わかったんですよ! 例のワクチンの買占め事件! 新型インフルエンザの感染患者を、未来からこの時代に連れ込んだ女がいるんだ! Y市の病院の院長で、大原って女だよ」
コハクがわざわざ、知らせに来た。
コハクは作戦部隊の出発間際に、息を切らし、日菜のところへ走ってきたのだ。
「大原院長ー!?」
日菜が大声を上げた。
彼女がトキオとはぐれた事故で運ばれた救急病院、そこで穂高医師を愛人にしていた女医の顔を、日菜は今はっきりと思い出した。
「日菜さん、その女を知ってるんだ? そいつ、例の製薬会社とも繋がってたよ!」
コハクは色白の顔を上気させ、興奮して報告した。
「コハク、よくやったな。あの病院の穂高って医者、賞金目当てにトキオを確保しようとしてたし、未来と繋がってそうだ。本命だな」
由紀は新型インフルエンザのウイルスがばら撒かれた真相が解り、情報を集めたコハクをほめた。
コハクは由紀にほめられ、とても喜んで部隊へ戻っていった。
日菜の握った拳が、怒りに震えた。
「許せない。大原…」
日菜が歯軋りした。
小林教授と、多くの無関係な人々の命が失われた人災。
いや、これは生物テロとも言える。
しかし、由紀はそんな日菜の昂りを冷静に眺め、
「俺が言ってた秩序の崩壊って、こんな感じなんだよ。みんなが金の為に、好きなことをやり始める。そんな事件がこれから山のように起きて、世界がグッチャグチャになっていく」
と、現実を彼女に突き付けた。
「最後に誰かが勝ち残るまで、混乱が続くんだよ」
「イヤだ!!」
日菜が耳を両手で塞いだ。
日菜と由紀は午後から、リビングでテレビのニュースを見ていた。
新型インフルエンザで、人がバタバタ死んでいく。
通りから人が消えた。世間話や、笑い声も消えた。
臨時ニュースで、アメリカのホワイトハウスの報道官が、
「日本は大量殺戮を目的とする新型戦略兵器を極秘に開発。再びファシズムへ傾倒しようとしている」
と、発言したと速報が流れた。
それが転送機のことだと、由紀が日菜に教えた。
日本政府は躍起になって、血眼で日菜を捜していた。
テレビのニュースで連日、日菜の写真が報道され、街のあちこちに写真が貼られた。
二日経ち、夜が更ける頃、日菜はチェロの啜り泣く声で目を覚ました。
オーナーの部屋の前で、パジャマ姿のチェロが、
「お姉ちゃん、オーナーがまだ帰って来ないよー。オーナー、死んじゃうの? もう帰って来ないの?」
と、泣きじゃくった。
日菜はまだ幼いチェロを、ぎゅっと抱きしめた。
彼女も泣きそうだった。
翌朝、元気のないタクトとチェロを学校へ送り出し、日菜は次第に辛くて堪らなくなってきた。
「オーナー達の帰り、遅過ぎじゃないー!? 襲撃って、こんなに時間かかる!?」
日菜は抑えきれなくなった気持ちを、由紀とクッキーにぶつけた。
由紀はあっさりと答えた。
「何かあったかもね。そのうち、連絡入るだろうけど。…まあ、普通に考えて、SATに追われてるんだろうなー」
SAT、警察の対テロ特殊部隊だ。
日菜は最悪の事態を考え、びくびくした。
「オーナー、私には知り合いの結婚式に行くって言ったんだよっ!」
日菜は頬を膨らまし、拗ねた。
「だから、紅島の結婚式じゃないか。その日に襲撃を決行したんだよ。歴調の奴等、その日に揃って休み取って、教会に集合してんだぜ。間抜け面して」
由紀とクッキーが爆笑した。
日菜は爆笑の意味がわからない。
「な、紅島って、すごい美人だけど、相当凶暴なんだってな。新郎、知らないのかな。気の毒に」
クッキーが由紀に尋ねた。
「俺は紅島と結婚するぐらいだったら、鰐と結婚するね!」
由紀は紅島が、鰐より獰猛だと言いたいらしい。
男二人で、また爆笑する。
「由紀、聞いて。リンがね、トキオを未来の東京で見たって。紅島さんと並んで歩いてたって。…紅島さん、ノグチからトキオを取り戻してくれたんじゃないかと思う」
日菜は真面目に話しているのに、由紀とクッキーは笑いが止まらない。
由紀はリビングのソファーから転げ落ちそうになりながら、
「いや、そんなはずないよ。まだじゃないかな…」
と、手を大袈裟に振った。
即座に否定され、日菜はムッとした。
「なんでわかるの?」
「わかるさ」
クッキーが間に入った。
「紅島のことは、由紀が何でもよーく知ってるんだ。スパイで紅島に半年も、べったり張り付いてた時期があったからね」
クッキーが由紀に代わり、説明した。
「それじゃ、どうして紅島さんは、由紀の正体に気付かなかったの!? モモカよりニブいってこと!?」
「そんだけ、顔が以前と違ったからだ。俺様が作ったマスクの威力ってことだな…」
クッキーは由紀をほめるようで、自分を称えている。
聞いていた由紀から笑顔が消え、吐息が漏れた。
「最近、紅島と会った…。だから、もうバレてる…」
由紀が俯いて白状し、クッキーは目を剥き、唾を飛ばして叫んだ。
「はぁ!? 何、それ!? コウさんに報告したか? ダメだろぉー!」
クッキーに肩を掴まれ、由紀は苦々しく呟いた。
「ああ。でも、いずれバレるし。先に紅島を殺そうかと思ったんだけど、襲撃の前にトラブルはマズいだろ? その時、トキオは紅島と一緒じゃなかった。本当」
由紀が日菜とクッキーの両方に言い訳した。
日菜は悔しく思った。
「私に内緒で、一人で紅島さんに会いに行ったんだ? ズルい…」
「まぁ、なんて言うか、…別に会いに行ったわけじゃ……」
日菜に睨まれ、由紀が狼狽えた。
4
日菜から電話をもらい、トキオが自宅を訪ねたことを知った紅島は、先回りしてトキオを待ち伏せしようと考えた。
紅島はダイブし、日菜達が自宅に来た日の昼間まで、時間を遡った。
自宅にはまだ、トキオは到着していなかった。
未来から来た紅島は自宅に入り、猫を膝に載せて、トキオを待っていた。
妹は出勤している。
その日の自分は公休で、婚約者の家に出掛けているはずだ。
ドアホンが鳴った瞬間、紅島はトキオが来たと思った。
モニターに映し出されたのは、男の黒いジャケットの肩の部分と、黒い帽子の鍔の部分で、顔はカメラから死角を向いていた。
紅島は気にも留めなかった。
何故なら、彼女のフィアンセの声で、
「綾生ー、俺ー。ちょっと、忘れ物。ドア開けてー」
と、男が言った。
紅島はそれを信じた。
「何よ? どうしたの?」
彼女はすぐに玄関ドアを内側から開けた。
ドアを開けた紅島は、そのまま硬直し、声を失った。
「ダメだなぁー。そんなに簡単にドアを開けちゃうなんて。綾生さん、言っとくけど、幽霊じゃないよ」
立っていたのは、フィアンセではなかった。
シンプルだけど、組み合わせ方が絶妙に上手い、オシャレの上級な着こなし方で、黒いスーツ姿の二十歳ぐらいの男が入ってきた。
シャツとジャケットの間に見えるベストが、地味だけれど、いい色だった。
帽子がちょっと斜めで、片耳にシルバーのピアスが連なっていた。
彼は可愛らしく悪戯っ子のように笑い、勝手に上り込んできた。
「お邪魔しまーす。アレキサンダー、元気だった? おまえ、久し振りだな」
彼が猫の頭を撫で、呆然と立ち尽くす紅島の前を通り、リビングに入った。
広々としたリビングの床が大理石で、中央に純白のふわふわのラグが敷かれ、純白の革張ソファーが向かい合っていた。
窓側に背の高い、熱帯性の観葉植物の鉢植えが並び、白い蘭の花が咲いていた。
部屋は白を基調として、濃い緑が目に鮮やかだった。
「トキオ、まだ来てないんだね。ま、話してるうちに来るよね? ちょうどよかった。久し振りだから、俺はゆっくり話したいんだけど、ねぇ、綾生さん。コーヒーでも淹れてよ」
彼は純白のソファーに座り、クッションを並べ替えて自分好みのポジションを作り、脚を組んだ。
紅島は幽霊を見るような目つきだった。
「い…生きてたんだ。ケイ…?」
紅島は未だ信じられないように呟く。
あれは、半年前。
彼は銃で首を撃たれ、血を噴きながら、銀色の深淵に落ちていった。
「ちょっと! あんた、何しに来たの? なんで私が、あんたにコーヒーなんか」
紅島はキッチンに行きかけ、戻った。
彼女の視線が泳いだ。
「綾生さん、何を探してるの? 銃? クロコダイルのバッグに入ってる? ここにあるよ」
ケイがソファーにあったバッグを持ち上げ、紅島に見せた。
紅島は窮地に落ちた。
「あんたの目的は何なの? 今度はトキオを狙ってるの!?」
紅島は仕方なく、コーヒーメーカーの二杯分のボタンを押した。
スパイラルの長い髪を掻き上げ、彼女はふと思いついた。
「そうか。あんただったのね。誰か、私の他にもう一人、時間の針を進めようとする人間がいると思ってた」
彼はやんわり否定し、
「俺はそんなんじゃないよ。大戦の勝者が捏造した歴史を本来のカタチに戻そうとしてる、綾生さんの涙ぐましい努力には、敬意を払ってるつもりだよ…。そうなんだろ? 失敗しなきゃいいね…。紙一重で、未来が振り出しだよ」
と嫌味を言った。
紅島は彼の毒舌に、不快感を示した。
「私は大戦をなかったことにしたい。あんたと北見コウの目的は、逆。今すぐ大戦を起こしたい。聞かなくたって、わかってる。その振り出しの未来が、お望みなんでしょ?」
紅島は彼等のことを詳しく知っていた。
「ケイ。あんた達が絡んでるとなると、私も脚本を修正させてもらう。あんた達の思うままにはさせないから! トキオも日菜も、絶対に渡さない……、…あっ!?」
紅島は話の途中で、彼がトキオを追って、この場に来た意味に気付いた。
「宮島由紀! そうなんだ!? あんた、ずっと日菜ちゃんの傍にいたのね? 由紀に関しては、おかしいと思ってた。この計画の為に用意したような、由紀の自宅の工房とか、転送機の材料の手配が完璧過ぎて…、そういうことだったのか。あんただったら、確かに由紀とそっくり入れ替われる。純粋な日菜ちゃんを騙すにも、打ってつけの役だ!!」
紅島は動揺を隠せなかった。
よろめいて壁に寄りかかり、恐ろしそうに彼を見た。
彼は可笑しくてたまらないようだった。
「なかなか気付いてくれなくて、寂しかったよ。毎日一緒に仕事して、一緒にランチを食べてたのにね。俺の時間では、二年ぶり。懐かしいよ。どう? 身長も少し伸びた。綾生さんと同じぐらい」
彼は左手をソファーの背凭れに掛け、右手で自分のネクタイをいじった。
「結婚するそうじゃない。おめでとう。売れ残って、悩んでたもんね。相手はあいつだろ? あのワイルドな検事。俺もお祝いしなくちゃ」
彼は飾りのようにゆるく結んでいたネクタイを解き、シャツの襟を開いて、首の傷を紅島に見せた。
「あの検事に、このお礼もしなきゃいけないし…!」
一瞬、彼に殺意が過った。
彼の首筋には、赤味を帯びた傷跡が残っていた。