ⅩⅤ 救出
2
日菜は転送機に向かう途中、東大くんに聞いた話を思い出した。
東大くん、本名はネイ。
ネイは店長の知人で、日菜に物理の資料を届けてくれる。
後から考えれば、エンジニアのネイは日菜が完成させる予定の理論をよく知る専門家なのだろう。
ネイの届ける資料で、実際、役に立たないものはなかった。
ネイは由紀を毛嫌いしていた。
単純に嫌いというよりは、憎悪とか、嫌悪とかいう感情が見える。
ネイの由紀に向ける視線は、天敵のようだった。
日菜は好奇心に駆られ、ネイに聞いた。
「どうして、そんなに由紀が嫌いなんですか?」
ネイは周囲を確認し、店の誰にも聞かれないように小声で、
「あいつが人間の心を持たない化け物だからだよ。勿論、嫌って当然の理由がある。由紀は……味方を殺して、裁判で有罪になったことがある。…そんな奴、どうして仲間と認められる? 後ろから撃たれそうだ。俺はあいつと、同じ現場に居たくない」
と話した。
日菜は口を押え、何も言えなかった。
思い出すうちに、日菜は希望をなくしそうだった。
「ケッズさんとイリエさんを助けて!」
と頼んだ自分が、どうかしてたんじゃないかと思う。
この由紀が助けてくれるわけがない。
彼女は喉が渇き、舌が張り付くようだった。
「由紀。…仲間を殺したって……本当…?」
日菜の質問は、声が尻すぼみになった。
由紀は声を尖らせた。
「はぁ!? その話、ネイか!?」
途端に、由紀が不機嫌になるのがわかった。
彼は何も弁明しなかった。
日菜は気まずく思いながら、転送機に搭乗した。
3
拘束されたケッズとイリエは、ノグチの転送機によって、未来の別の場所に運ばれていた。
飛行場の滑走路に降り立った転送機から、二人は軍用車両に乗せ換えられ、同じ敷地内にある施設に移されようとしていた。
ケッズとイリエは狭いコンテナのような箱の中で、護送される死刑囚の気分だった。
二人を見張る為に迷彩服の警備員が付き、無言の圧迫をかけていた。
二人は溜息ばかり漏らし、私語をする雰囲気じゃなかった。
彼等は身に迫る危機をひしひしと感じながら、どう対処するべきかわからなかった。
未来人からどうやって逃げればいいのか?
現代に戻る方法は?
二人は途方に暮れる。
このままでは、記憶を削除されるか、最悪の場合は抹殺されるか、とにかく無事では済まないのに。
その時、急に、奇妙な音が座席の下から聞こえた。
自転車のタイヤから、勢い激しく空気が漏れる感じの音。
ガスの噴き出す音だ。
ケッズとイリエは互いに目を見合わせた。
警備員にも、その音は聞こえていた。
彼等は騒然となり、各自武器を手に取った。
「ガスだ! 車を停めろ! ドアを開けろ!」
米語で喚き、換気しようとする。
「マスクを着用しろ!」
「車を停めるな。停めたら、来るぞ!」
この速度で走行していたら、exitを開けられないと主張する男。
車両は走り続け、警備員の一人がドアを蹴って開いた。
その瞬間、風が吹き込んできて、ドアがガタガタ鳴った。
「たぶん、睡眠ガスだ」
イリエがケッズの耳元に囁いた。
何が起きたのか、イリエには薄々わかった。
転送機のキャビンで、由紀は靴だけ履き替えた。
彼は底に厚みのあるミリタリーブーツの紐を締め上げ、薄い手袋を付け、腰と腿の部分にホルダーを巻いた。
彼が右手で持ち上げたのは、ライフルよりは短く、ショットガンよりごつい感じの銃器だった。
日菜には玩具のウォーターガンみたいに見えた。
「由紀、それは何?」
「クイックヘールの外殻をぶち破るんだよ。ただし、五発でリロードだけど」
由紀は予備の弾倉をホルダーに差し込んだ。
それから、左手に防毒マスクを持ち、ゲートの手前で日菜を振り返った。
「いいか、日菜。ケッズとイリエを助けると、アメリカは日本にもう一機、転送機があることを知るんだぞ。それがどのぐらいヤバいことで、日本を危機に陥れることになるか、わかってるよな?」
「私、政治はよくわかんない」
日菜は由紀の質問に、首を傾げた。
彼は舌打ちした。
日菜はキャビンで、由紀の目線に合わせたカメラからの映像を見守ることになった。
彼は単身、exitの光を潜った。
由紀は車両の床にexitを開き、睡眠ガスを投げ込んだ後、次には車両の天井にexitを開いて、上から車内へ飛び降りた。
飛び降りるなり、ドアを開けて換気していた警備員を、ドアの外へ蹴り落とす。
蹴られた警備員は、疾走する車両の外を回転しながら転がって、後方へ去った。
車内に、残る警備員は三人いた。
一人はガスを吸ってしまい、ふらふらだった。
残る二人はマスクを着用し、機敏な動きで由紀に襲いかかってきた。
由紀は身を沈めて|躱≪かわ≫したかに見えたが、車両が大きくハンドルを左右に切り、ジグザグに走り始めた。
彼等は箱の中でシェイクされ、重力と遠心力に遊ばれるように振り回された。
肝心のケッズとイリエは…、マスクを持っていないのだから、昏々と眠っていた。
由紀は端末をどう操作しているのか、瞬間的に床にexitを開いた。
そして、まず体重の重いケッズから先に、exitに突き落とした。
由紀は隣の座席のシートベルトで締められた、イリエを抱えようとした。
しかし、警備員の一人が由紀の胸ぐらを掴み、渾身の拳を打ち込んだ。
日菜の見守るディスプレイの中で、拳の画像が大きく映し出された。
何かが砕ける音がして、由紀の付けていたマスクが吹き飛んだのがカメラに映った。
日菜は彼を軽装で行かせたことを悔やんだ。
転送機には、軽量素材の防弾ジャケットやヘッドカバーが積んであったのに。
「由紀!!」
日菜が叫ぶ声が、彼の耳に届いているはずだ。
彼女はケッズの腕を自分の肩に掛け、おんぶの姿勢で引き摺ろうとして、前につんのめった。
とてもじゃないが、七十キロほどもあるケッズを背負うことは出来なかった。
ディスプレイを見ていると、身長が平均程度で痩せ身の由紀は、苦戦しているように思えた。
格闘技は体重でほぼ決まると聞いたが、実際の戦闘でもそうなんだろうか?
由紀はやけに殺傷力の高そうな武器を携帯して行ったが、彼は本気で殺し合いを彼女に見せるつもりなんだろうか。
「由紀、早く!! 早くイリエさん連れて、戻ってきて!!」
日菜は泣き出しそうになった。
狭い車両内では、敵も由紀も発砲できなかった。
迷彩服の警備員は防弾ジャケットを着用していたけれど、由紀は私服にブーツだけだった。
相手はみな、鍛え上げた逞しい体躯をしている。
由紀は締まっているが、見た目に細くて弱そうだ。
由紀は一撃でも食らうと、軽く吹っ飛んでしまう。
相手は何発食らっても倒れなさそうな、鋼の精鋭だ。
由紀は男二人と揉み合いになり、絡まって、狭い床を転がり、殴られた。
画面がぷつんと切れた。
カメラが壊れ、マイクもどこかへ飛んだ。
日菜は由紀が無事か、確認できなくなった。
由紀にはむろん、日菜の悲鳴が度々聞こえていた。
ただ、返事どころじゃなかった。
彼は車の揺れをうまく利用していた。どう揺れるのか、わかるみたいに彼は合わせて動いた。
組み合う警備員は、次第に焦り始めた。
由紀は何か柔術を会得しているようで、警備員が少しでも由紀の体に触れると、一瞬でひっくり返されたり、投げられたりした。
確実に蹴りや拳をヒットさせなければならなかったが、それが皮一枚のところで避けられる感じで、ちっとも強いダメージを与えられなかった。
マスクを吹き飛ばした瞬間に勝ったと思った警備員は、思った次の瞬間に蹴りを食らっていた。
由紀が素手だと思っていた警備員は、彼が隠し持っていた小型の刃物で腿をえぐり込まれた。
しかし、車内での格闘はほんの二、三分の出来事だった。
車両が突然、急ブレーキを踏んでスリップし、イリエを抱えた由紀はそのままドアの外へ投げ出されたのである。
車両がノグチらに爆撃され、大破した。
ノグチは仲間ごと、由紀を殺そうとしたのだ。
由紀は泥水の水溜りを転がり、泥と機械油で汚れた。
周辺の格納庫が燃え、由紀達を火が囲っていた。
立ち上がる火焔の壁を機械の指で掻き分け、黒いクイックヘールが十機ばかり、姿を現した。
由紀は急いでイリエに駆け寄った。
イリエはまだ、意識がない。
応急処置の包帯の下から、再び出血している。
由紀は舌打ちした。
「くそ。あの女の子のせいで、俺はなんだって、こんなお人好しみたいに人助けしてるんだ!?」
由紀はイリエを水溜りに捨てた。
泥水が由紀の顔まで撥ね返った。
彼はクイックヘールを睨み、イリエを見下ろした。
どう考えても、イリエが足手まといだった。
見捨てても、それで悔やむような良心など持ち合わせてない。
彼は腰を浮かせ、立ち上がりかけた。
日菜の為に英雄になる気なんて、さらさらなかった。彼女には後で、何とでも言い訳できるだろう。
けれど、彼の脳裏に別の記憶が蘇った。
由紀に自分の連絡先を書いた紙を渡した時の、イリエの心配そうな顔。
逃亡してから久し振りに再会した時、出迎えてくれたイリエの温かかった手。
ノグチの襲撃があった時には、イリエは由紀の為に身を挺して、クイックヘールに立ちはだかった。
由紀は無表情な顔のまま、手にぐっと力を込めた。
水溜りからイリエを引き上げ、膝の上に抱え上げた。
彼はイリエを友人だと本気で思ったことは一度もなかったが、ここに置いて行けない気がした。
彼はクイックヘールを睨みながら、あの装甲を貫くことが出来る銃をホルダーから外した。
銃は磁石でくっついていたみたいに、するっと外れた。
醜いクイックヘールが身を屈め、蝦の甲殻のような装甲を開く。その隙間から銃口が|迫≪せ≫り出してくる。
銃弾の雨が降った。
由紀は跳んで転がって、仰向けの体勢から撃った。
一機のクイックヘールが崩れ落ちたが、そこから彼等は散らばり、四方八方から襲いかかってきた。
由紀は火焔の幕を潜りぬけ、ふと眠気を感じた。
「ヤバい。ちょっと吸ったかな…」
由紀は頭を振り、すぐに銃を両手で構えた。
かなり長いマズル、ごつめのボディ、彼好みの銃ではないけれど、今、目の前の敵を倒すには最適だ。
由紀の構えた銃が火を噴く。
クイックヘールも火焔をジャンプして越え、飛び跳ねた空からの角度で機銃を回転させる。
アスファルトの地面がえぐれ、煙を吐く。
由紀を背後から、クイックヘールの鰐のような尻尾が襲う。
由紀は背後に目があるみたいに、その攻撃を躱し、この黒い鰐に銃弾をぶち込む。
黒い鰐は痙攣して倒れ、その胸からは火が昇った。
由紀はここでリロードしなければならない。
その間に、一気にクイックヘールのコンビネーションが展開される。
訓練通りの左右からの波状攻撃。
また真上から機銃の雨が降りしきる。
由紀はいったん、exitを使って逃れた。
間を置かず、由紀は彼等の背後の建物の屋根に出現し、弾丸を込めた銃から、彼等に死を撃ち込んだ。
ノグチは様子を窺うだけではなかった。
由紀のダイブの母体とも言える、転送機を探した。
ノグチは日没後の空の上に、日菜の乗る転送機を発見した。
ノグチはこの転送機が自分達の転送機より新型であると見抜き、喉から手が出るほど欲しくなった。
彼は地上から命令した。
「何とかして、回収するんだ。爆発させるな!」
ノグチが部下を振り返り、次の指示を下そうとして、愕然とした。
ノグチの部下が倒れ、由紀が代わりに真後ろに立っていた。
「させないよ。お役目、ご苦労さん」
由紀が奪ったピストルの引き金を引いた。
ノグチは何か呟こうとして、口を動かした。
ノグチは遠い空を見た。
藍色に暮れていく空の地上近くに、明るい金色の星が見えた。
ノグチは婚約者と見た、夕暮れの景色を思い出した。
幸せな気持ちが一瞬だけ、蘇ってくるようだった。
彼は倒れ、永久に目を閉じた。
由紀はイリエを抱え、exitを開いた。
暮れゆく空のように、青く弱々しい光が二人を包んだ。
4
「由紀ぃー!!」
日菜が由紀に跳び付く。
泥だらけの由紀がイリエを抱えてキャビンに入り、日菜がタオルと救急箱を持ってきた。
由紀はタオルで髪と顔を拭き、続いて手を消毒する。
「由紀ー!! ありがとう! ほんとにありがとう!」
日菜が涙で顔をくしゃくしゃにしている。
由紀はイリエの手当てをして、抗生物質の点滴をした。
イリエとケッズは、まだ目覚めない。
由紀がてきぱきと動き、二人にワクチンを注射し終えた。
日菜はとても感動していた。興奮が冷めず、また由紀に跳び付くのを、彼の方が面倒臭そうに払い除けた。
「この結果、日本がどういうことになるのか、君は見ることになるんだからな!」
と、厳しい調子で言った。
日菜は予想もつかず、ただひたすら、ケッズとイリエが無事なことを喜んだ。
その後、由紀はコクピットの操縦席を倒し、しばらく疲れたように目を閉じていた。
日菜は彼が仲間を見捨てず戻ってくれたことが嬉しくて、彼の横顔をじっと見詰めていた。
彼等は転送し、工房が襲撃を受けた日の夜明けの時点へ遡った。
座標は全て、由紀が設定し、日菜は横から観察した。
由紀が私物のリュックからスマホを取り出し、
「この二人を連れて店に戻れないから、モモカに預けようと思う。日菜、モモカの携帯番号を教えて」
と言った。
日菜は、
「モモカに? じゃ、私が電話するよー。それ、貸して」
と、由紀のスマホを奪おうとした。
「君だと、話が長くなるんだよ!」
由紀は日菜の手を払い、聞いた番号を登録した。
彼はすぐにexitを開き、ケッズとイリエを先に地上へ落とす。
そして、自分も後を追う。
日菜はキャビンに残された。
徐々に雨が小降りになり、東の空が白んでいく。
イチョウ並木の公園通りのバス停、ベンチで眠るケッズとイリエ。
由紀は仕方なく助けただけだが、心配そうに二人の様子を見て、ほっとしたような表情を浮かべた。
ケッズは擦り傷程度、イリエは病院で治療が必要だろうけど、命にかかわるほどの怪我でもない。
深く静かに眠り続けていた。
由紀は隣に腰掛け、スマホの呼び出し音を聞いていた。
その頃、モモカは港公園の近くの現場オフィスで、仮眠していた。
日菜を探し回ったけれども、見つけられない。
既に、カノンからの連絡待ちの状態だった。
オフィスはモモカの他に誰もいない。
モモカの携帯電話の着信音が鳴った。
彼女は寝ぼけ眼で知らない番号の表示を眺め、首を傾げた。
「はい…、モモカです…」
モモカの欠伸を噛み殺した声が、由紀に届く。
「もしもし? モモカ?」
どこかで聞き覚えのある声がして、モモカは飛び起きた。
この声は……。
モモカの心臓がドクドク鳴って、爆発の秒読みみたいだった。
「モモカ? 俺だよ……」
モモカの携帯を持つ手が震えた。
画面には誰も映っていないけれど、この懐かしい声は……。
モモカの頬に涙が溢れた。
「ケイ…なんだ…? やっぱり生きてたんだ…!?」
彼女は指で涙を拭い、信じられない思いで携帯電話を握りしめ、相手の声に集中した。