ⅩⅡ トキオからの警告
2
ノグチは日菜を手に入れることが出来ず、転送機の試作01と工房を丸ごと押収した。
由紀は彼の母親が泣き喚く前で、クイックヘールに従わされ、連れて行かれた。
ケッズとイリエも拘束された。
日菜だけが、未来を経由してきたモモカによって救出され、港公園の近くの現場オフィスに保護された。
日菜は由紀や、ケッズやイリエが心配で、胸が苦しかった。
特に、由紀。彼は熱があったのに。
イリエは怪我をしたようだった。
ノグチは彼等を、どう扱うつもりだろう。
単に記憶を削除するのか、存在自体をリセットしてしまうのか。
日菜は明日の朝、起きた時に、仲間の顔と名前を憶えていられるのだろうか?
そして、日菜を裏切った小林教授。
日菜はまだ信じられないし、信じたくない。
彼女は子供の頃から、あの嗄れた声で大きく口を開けて笑う、変な訛りの小林教授が大好きだった。
とても親しみやすい人柄で、立派な人だった。
「ノグチにやられた。あいつ、トキオを確保したばかりか、俺達が守ってた小林教授まで、まんまと買収しやがった…!」
カノンが悔しそうに言う。
モモカは四月からの苦労が水の泡になったが、それでも、寂しそうに首を振った。
「小林教授は悪い人じゃないんだ。ちょっと、お金が欲しかっただけ。奥さんに楽をさせてあげるお金が…」
モモカとカノンは窓の外の、本降りになった雨を眺めた。
日菜はオフィスの隅に座り、黙って聞いていた。
一方、宮島家の庭先で、ケッズとイリエは地上に開いたexitから、ノグチの転送機に搭乗するところだった。
彼等は初めて、試作01以外の転送機に乗った。
暗く燃える地獄の門のような光を潜り、その奥の真の闇へ流され、送り込まれていく。
手探りでシートに座り、ノグチにシートベルトを固定された。
彼等は言葉もなく項垂れ、呆然自失の状態だった。
記憶を削除されるということは、ケッズには死ぬに等しいほどの苦痛だった。
イリエは腹と手に応急処置を施されていた。
イリエはもう救出できなくなるトキオのことを思い、姿が消えた日菜とモモカの身を案じた。
由紀はなかなかキャビンに現れず、ノグチを苛々させた。
途中、何やら、キャビンの外が騒がしくなった。
ノグチが慌てて、キャビンの出口に向かい、ディスプレイに映し出されたクイックヘールから米語の報告を受けた。
ノグチが外へ降りた。
「さすがだな。由紀くん、逃げたらしい」
ケッズとイリエは顔を見合わせ、小さく笑った。
その後、三十分ほど経過して、ノグチが席まで戻ってきた。
彼は何事もなかったかのようにすまして、管制塔と交信し、転送の手続きを進めた。
日菜は現場オフィスのソファーで、毛布に包まり、仮眠していた。
モモカは日菜から少し離れ、コンピューターのデスクに突っ伏し、うとうとしていた。
カノンは出払った。
他に誰もいない。
窓をコツコツと叩く音がした。
雨が強まってきたのだと、日菜は思った。
空は真っ暗で、降りしきる雨が時折、横殴りになる。
日菜は眸を閉じていた。
また、窓を叩く音がした。
日菜はモモカを振り返って見た。
モモカはぐっすり熟睡してしまい、音に気付かない。
日菜は音のした窓辺に寄り、そっと窓を開けた。
窓の下に、ずぶ濡れの由紀がしゃがんで、人差し指を口に当てていた。
彼はこのマンションに隣接するクリニックの、一階の屋根の上にいた。
日菜は満面に笑みを浮かべ、窓を跨いだ。
隣りの屋根まで少し離れていたが、由紀がしっかりと支え、日菜を渡らせた。
日菜と由紀は、屋根の上を猫のように軽快に歩き、マンションの階段の踊り場を使い、うまく地上に降りた。
「どうやって逃げて来たの!? ケッズさん達はどこ!? モモカに言わなくていいの?」
日菜が焦って聞くと、由紀は不快そうに言った。
「いっぺんに質問すんなって。モモカちゃんには、後で電話すればいいや。今は急いでるから」
由紀は寒そうに震えている。
「俺の悪友のクッキーが車で迎えに来てくれるから、北見さんの店に戻ろう。あそこが一番、安全だから」
由紀は珍しく、嫌とは言わせない強引さで言った。
「もう…、信じられるのは由紀だけ…!!」
小林教授に裏切られ、傷心の日菜が泣きながら、由紀にしがみついた。
由紀は日菜を無言で抱きしめ、唇を重ねた。
雨の中、景色は灰色に霞んでいく。
由紀がキスを繰り返し、日菜はおとなしく身を委ねていた。
やがて、クッキーの黒い4WDの車が到着し、二人を乗せて走り去った。
モモカは雨音と、吹き込む冷たい風に気付き、目を覚ました。
窓が開いており、日菜がいない。
「日菜ちゃん!?」
モモカはびっくりして、開いている窓から外を覗いた。
クリニックの屋根の向こうに、イチョウ並木があるはずだったが、それも雨で霞む。
その時、モモカの携帯電話にカノンから着信があった。
「ねぇ、モモカ? 由紀くんが教えてくれた、日菜さんの住み込み先のダイニングバーの電話番号、現在使われておりません、なんて言ってるけど、これって、ヤバい?」
モモカは全身の力が抜けていくのを感じ、オフィスの床に崩れ落ちた。
3
日菜は都内のバーへ戻り、熱いシャワーを浴びた。
彼女がバスルームを出たら、由紀とダイニングで話し込んでいたクッキーが、ちょうど帰るところだった。
「由紀もシャワー浴びて、温まりなよ。濡れたままだと、風邪こじらせちゃうよ」
髪を拭きつつ、日菜が声を掛け、
「わかった。そうするよ」
由紀も素直に従い、バスルームへ向かった。
オーナーやココア達は、まだ店にいる時間だった。
子供達は部屋で熟睡しているだろう。
日菜はC室で緊張しながら、由紀を待っていた。
彼女には、まだ由紀の触れた感触が余韻のように残っていて、それが胸をどきどきさせた。
「どうしよう。聞きたいことが山ほどあるのに、由紀の顔が見れない…」
日菜は独り言を言った。
枕元のパンダのぬいぐるみを手に取り、ぎゅっと抱きしめた。
「どうしよう…。トキオも、由紀も、両方好きだ……」
彼女は自分に腹立たしく、パンダのぬいぐるみをポカポカ殴った。
Z市のタイムカプセルから出てきた、パンダのぬいぐるみだ。
これとともに出てきた、転送機の設計図。
そこから事態は急変した。
日菜とトキオは再会できたが、救出には至らない。
ぬいぐるみを殴る、日菜の手が止まった。
パンダの首の縫い目がほつれ、糸が飛び出ている。
首の部分の中に、何かが詰められている。
日菜が何の気なしに指を入れ、摘み出してみると、それは折り畳んだ紙切れだった。
彼女の手が汗ばみ、指が震えた。
こんなところに、トキオが日菜に宛てたメッセージが入っていたのを、今日まで気付かなかった。
急いで、紙を広げた。
ミミズが這っているような、相も変わらず汚いトキオの字。
短い文章は、たったの四行だけ。
日菜の心臓の音が、全身に響く。
今読んで、日菜は凍りついた。
「 気をつけろ
その由紀はニセモノ
本物の由紀を殺した
犯人が入れ替わってる 」
紙切れを持つ、日菜の手が小刻みに震え続けた。
いや、全身が震えた。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
そんなはずがないと思う一方で、あの違和感は別人でしかないと、妙に納得もする。
しかし、由紀は由紀だ。
確かに、以前よりずっと頼もしくなったけれど、クセも、表情も、記憶の細かな部分でも、由紀じゃないか。
由紀じゃないとしたら、誰があそこまで完璧に、由紀になりきれる!?
後ろでドアを開閉する音がした。
日菜と同じシャンプーの香り。
日菜は小さく跳び上がり、心臓が止まりそうになるほど驚いた。
恐々、ゆっくり振り向くと、由紀が腕組みして、あごを少し上げ、日菜を見下ろしていた。
由紀は上から、トキオの手紙をちらっと見た。
「ふーん。…で、どうする?」
由紀が別人みたいな、冷たい表情で言った。
彼は腰に手を当て、日菜に決断を迫った。
「そこに持ってるんだろ? あの銃」
日菜は反射的に、鞄を引き寄せた。
彼女は何か言おうとしたが、口をぱくぱく動かしても、何も声にならなかった。
ただ恐ろしくて、何がどうなったのか理解できなくて、日菜は完全にパニックに陥った。
彼女は息ができなくなったみたいに、細かな呼吸で喘いだ。
そして、やっと、掠れた声をどうにか絞り出した。
「…どうして…? 本物の由紀じゃないの!? あんた、…誰…!?」
「由紀を殺した人間さ」
由紀のニセモノが本性を現し、目を細め、残酷に笑った。
その瞬間、日菜の心はガラスのように脆く、粉々に砕けた。
由紀のニセモノは傷付く日菜を面白がるように、自ら秘密を暴露した。
「どう? 今の今まで、完璧な演技だったろ? 記憶は、本物の由紀からコピーした。由紀のクセを真似て、由紀だったらどうするか考えて、由紀のように振る舞ってきた。由紀は本当に、君を好きだったよ…。だから、そう振る舞った。何もかも、演技。君を騙して、利用する為の」
日菜は由紀そっくりの男が語る言葉に、拒否反応を感じながら、続きを尋ねずにはいられなかった。
「由紀を殺した…って…いつ!? いつから、…ニセモノだった!?」
ニセモノは得意になり、べらべら喋った。
「アメリカ留学から帰国した時から、ニセモノだったんだよ。由紀の母親も気付かなかったな。気付いたのは、モモカだけ。あいつ、他人の波長が読めるからな……。さぁ、俺を撃って、由紀の復讐をしろよ。俺を殺す為に、あの紅島から銃を渡されてるんだろう?」
由紀のニセモノが低い声で命じ、日菜はがたがた震えながら、鞄の中のホルダーを取り出し、銃を抜いた。
日菜が銃を構えた。
しかし、手が震えている為に照準が合わない。
ニセモノの由紀も、シャツの背中側を捲り、バックサイドホルダーから自分の銃を引き抜いた。
日菜は先刻、雨の中で彼と抱き合った時に、彼の腰の後ろに何かあったのを思い出した。
由紀のニセモノは落ち着き払い、ゆっくりと片手で銃を構え、ピタリと彼女の眉間に照準を定めた。
二人は至近距離で、互いに銃を突き付け合った。
日菜は彼の銃を、すぐ間近に見た。
銀色に光る、バランスの取れた美しい銃だ。
人を殺す凶器であるのに、何故こんなに美しいのか。
黄金比率を全体のバランス、部分ごとのバランスに組み込んだのか、美しさを追求したのかとも思えるほど、比率の見事な銃だった。
日菜はカノンの言葉を思い出していた。
殺されそうになったら、撃てと…。
自分はこんな時の為に、銃を渡されたのだと思った。
日菜はあれから必ず銃を携帯し、いざという時には、本気で撃とうと考えていた。
しかし、実際、いざとなったら、こんなことは計算外だったのだが、日菜を殺そうとしている相手が、彼女の幼馴染の由紀と同じ顔をしていた。
撃とうにも、右手の指が引き金を引いてくれない。
「はぁ…、はぁ……」
日菜の息が荒くなっていき、そのまま気絶してしまった。