ⅩⅠ 裏切り
3
ノグチはトキオを殴りながら、
「父を返せ! 私の恋人を返してくれー!」
と涙を流し、叫んでいた。
トキオは殴られるままだった。
日菜はそこが二階だったらバルコニーに飛び移ったかも知れないが、高層マンションの最上階では、そうもいかなかった。
日菜がためらううちに、ぐったりしたトキオがノグチの肩に担がれていく。
「クソッ。俺達、先回りされたんだ!」
由紀が舌打ちした。
ノグチは日菜達が見ていることを承知で、余裕すら見せている。
ノグチの背後に、空を切り裂いて青い鬼火が出現した。
日菜は慌てふためき、
「カノン! いいの? あいつ、個人宅に転送してるよ!?」
と、カノンに助けを求めた。
だが、カノンは、
「僕は警察じゃないんだ」
と、馬鹿げたことを言った。
法律の規制の枠内でしか動けないカノン達と、なりふり構わないノグチ。
勝負にならない。
それに、ノグチがクイックヘールを何機か連れていたら、彼等に勝ち目など無かった。
「誰か、トキオを助けて!」
日菜が悲鳴のように叫ぶが、誰も動けない。
トキオはノグチとともに、青い光の中に吸い込まれていった。
トキオは紅島の元から、ノグチの手に落ちた。
ノグチの居所など、日菜には全くわからない。
日菜はノグチのことを、殆ど知らない。
仮にトキオを見つけたとしても、一人乗りの転送機でどうやって、現代へ連れて帰ればいいのだろう?
日菜達が現代の由紀の工房へ、空しく引き上げた時、ちょうど小林教授がダイブから帰還してきた。
小林教授はすこぶる上機嫌で、興奮して喋った。
教授の話を聞かされたケッズとイリエも、ダイブのプランで盛り上がり、大急ぎでテストダイブに向かった。
日菜は脱力感で、ふらふらした。
モモカが先刻、紅島本人に電話してくれたが、紅島と来たら、
「へぇー。そうなんだ?」
と、他人事みたいに聞き返した。
日菜はブチ切れて、モモカの連絡用のモバイルに怒鳴った。
「紅島さんがトキオを攫ったんでしょ? 私、見たんだ。あなた達は、私を助けてくれたんじゃなかったんだ? 嘘つき! トキオは紅島さんちにいたよ! ねぇ、早く、トキオを私達の時代に返してくれない?」
すると、紅島は朗らかに笑った。
本当に、大輪の薔薇みたいに美しい人だった。
「私はトキオを保護しようとしたんだけど、トキオが自分の意志で逃げたの。その後は知らない。彼が私の留守中に、部屋にいたなんて…、私もよくわからない」
紅島の釈明を、日菜はちっとも信じなかった。
「一緒に住んでたわけじゃないの?」
「やめてぇー。そんことしたら、結婚がダメになっちゃう。今年の誕生日で、もう三十歳なの。早く結婚したいの。…トキオがどこにいるか知らないけど、今日来たんなら、足取りを過去へ追えると思う。過去に少し遡って、部屋に来たトキオを捕まえればいい。やってみるから」
紅島が胸を叩き、電話を締めくくった。
ⅩⅤ 裏切り
1
翌日になっても、紅島から連絡はなかった。
小林教授と研究生達のダイブ熱は冷めず、日菜に順番は当分回らなさそうだ。
小林教授達は転送機の魅力に憑りつかれ、次のダイブのアイデアで頭がいっぱいになった。
トキオのことも考えているのだけれど、ダイブは強烈に刺激的で、病みつきになる。
紅島はダイブのことを、麻薬のようなものだと言っていた。
日菜もそう思う。
現代に帰ってきても、次に行く時のことばかり、頭に浮かぶ。
日菜達が宮島家で合宿を始めてから、数日が経過した。
日菜とモモカは、由紀の家の応接間でテレビを見ながら、ぼーっとして過ごした。
由紀は転送機の制作中の過労からか、風邪を引いて熱を出した。
応接間にいるのは、日菜とモモカだけ。
テレビでは、Y市で最初の患者が出たとかいう、新型インフルエンザの臨時ニュースをやっていた。
モモカの方が先に、K大のキャンパスが映っていることに気付いた。
「見てよ、日菜ちゃん。例のインフルエンザ。夏なのに、もう流行の兆しだよ。K大関係者だけで六人も入院したらしいよ! 私達も、気を付けなきゃね。Y市の感染者は数十人…、東京にも飛び火…。K大でも死亡者が出たんだって!」
モモカがニュースのテロップを読んだ。
日菜も顔をしかめた。
「夏休み中で、まだマシだったんじゃない? 九月から、感染者増えそうだね。嫌なニュース!」
「由紀くんは新型インフルエンザじゃないよね?」
モモカが心配した。
「過労でしょ。朝から微熱が出たとか、何とか言ってたよ…。たぶん、大したことないよ。それより、モモカ。コバを見なかった?」
「教授、明日から出張なんだ。今日も来れないってさ。おかげで、ケッズさん達がダイブ張り切ってたよー。教授は残念だろうね」
少女達は笑い合った。
まさか、小林教授がそのまま工房に戻らないとは、思ってもみなかった。
深夜、日菜は妙な気配で目覚めた。
日菜とモモカが布団を並べる座敷は、照明の豆電球の明かりも切れたのか、真っ暗だった。
彼女は何かが、畳の上を歩く気配を感じた。
それで、反射的に手元に置いていた竹刀を掴み、飛び起きた。
彼女は暗闇に向かって、竹刀を振り下ろした。
有段の日菜の一振りが、途中でぐっと掴まれ、竹刀をもぎ取られた。
その動きだけで、日菜は勢いよく横向きに倒された。
「誰っ!?」
日菜が闇に向かって問いかけ、さっと後ろへ身を引いた。
何者かが長い腕を伸ばし、日菜を捕えようとした。
「モモカー!!」
最初の攻撃を躱し、日菜が叫んだ。
モモカも布団から飛び起きた。
何かが砕ける音がした。
日菜の竹刀が縦に裂かれ、真っ二つになった。
日菜は相手が何者か気付き、ぶるぶる震え始めた。
恐怖で、日菜は腰が抜けそうだった。
彼女は四つん這いで這うように、敵から逃れようとした。
しかし、敵から彼女は、この暗闇の中でも丸見えだった。
「日菜ちゃん、大丈夫!?」
モモカが日菜の方へ寄ろうとして、黒いクイックヘールに襟首を掴まれ、床の間に投げ飛ばされた。
モモカは掛け軸を破り、障子を体で飛ばして広縁までふっ飛んだ。
その頃。
由紀とケッズ、イリエは応接間で語り合っていた。
由紀は熱っぽい顔で、咳もしていたが、ケッズとイリエの冒険物語を最後まで辛抱強く聞いていた。
そして、インターホンが鳴った。
「誰かな? こんな真夜中に。俺、ちょっと見てきます」
由紀がソファーを立ち、ガラス板戸をカラカラ音立てて引いて、取次の間に降りた。
由紀の家の母屋は、門から結構離れているのに、彼が鍵を開けて玄関戸を引くと、既にその人物が目前に立っていた。
ノグチだった。
ノグチはずかずかと、玄関の内側に入ってきた。
応接間のガラス板戸を引き、イリエが取次を覗いた。
「ちょっ……、あんた! いきなり、何だよ!?」
由紀がノグチの腕を押えようとした。
ノグチが振り払い、
「こんばんは、由紀くん。日菜さんはどこですか?」
と、陰気に尋ね、靴を脱いで取次の間に上がった。
玄関上がり口の畳の間、正面の掃き出し窓から中庭が見える。石灯籠にぼんやり明かりが灯っている。
「朝に出直して下さい。日菜なら、もう寝てるよ」
由紀がノグチに答えながら、イリエに目で合図をした。
イリエは心得て、別の出口から応接間を出て、日菜に知らせに走った。
その足音が、ノグチにも聞こえた。
この不気味な男は骸骨にも似た、眼窩の窪んで暗い目元と、斜めに傾けた唇に死神のような笑みを浮かべた。
「無駄なことをしますね…。由紀くん、転送機を作ったそうですね。それを頂いていきます。予告通り、出来上がったものは私の国で管理する。トキオくんも、私達のもの。日菜さんも、そろそろ頂いていきますよ」
「はぁ!? ふざけてんのか、てめぇ!!」
由紀が怒鳴り、ノグチに詰め寄ろうとした。
その瞬間、ノグチの通ってきた玄関の夜闇から風が吹き込んだ。
身長2メートルのクイックヘールが二機、巨体を軋ませ、玄関から入ってきた。
広々とした玄関が、急に狭くなったように感じられた。
あの醜い、おぞましいカタチをした甲殻魚類のような、昆虫のような、機械と人間が混ざり合い、変形した体。
「この間はふいを突かれましたけどね。どういう目くらましの忍術を使ってくれたのか、由紀くん。もう一度見せてもらいましょうか…。ああ、不法侵入だなんて言わないで下さい。我が国は正式に、小林教授から世界初の転送機を買い取ったんですから!!」
ノグチが勝ち誇って、話す。
由紀の目の前をクイックヘールが通り過ぎ、畳の上に上がった。
クイックヘールの重みに、畳に凹みの足跡が付いた。
由紀は彼等を止めようとしたが、クイックヘールが彼を押し退けた。
由紀とノグチが口論になり、激しく喚き合った。
最後には、ノグチが由紀を突き飛ばし、クイックヘールを連れて母屋を奥へと向かった。
日菜達は母屋の外の、離れで寝ている。由紀はノグチの後ろ姿を見送り、反対側の離れへ走った。
「由紀くん!」
話を戸口で聞いていたケッズが、由紀を追いかけてきた。
「試作01、どうする? アメリカに渡すのはマズイだろ!? 緊急で転送して、どこかに棄てて来ようか?」
ケッズは血色を失くし、青白い顔をしている。
ケッズはクイックヘールを初めて見た。
「いや、ケッズさん。逆らわないで。渡しちゃって下さい。逆らうと、ケッズさんの方がヤバいんで。ひとまず、早く逃げて下さい!」
年下の由紀が言う。
ここは先輩のケッズが由紀の判断に従い、やむなく、転送機を諦めた。
由紀より一足先に離れに向かったイリエは、着くなり、異変を感じた。
イリエは座敷に踏み込む前に、座敷の中に蠢く気配を感じ取った。
続いて、襲われた日菜とモモカの悲鳴が聞こえた。
彼はとっさに、廊下の蛍光灯のスイッチを入れた。
白い光がくっきりと、黒塗りの異様な姿を二つ、浮かび上がらせた。
「うわ、なんだ…。これ!?」
イリエも腰を抜かしそうになった。
日菜達を抑え込みにかかっていた二機のクイックヘールは、突然の光に一瞬眸を灼かれた。
クイックヘールが一瞬怯んだ隙に、日菜は柔らかく体を捻り、長いアームから逃れ出た。
彼女はそのまま鞄を取り、俊敏な小動物のように座敷から駆け下りて、庭を疾走した。
三機目のクイックヘールがイリエの死角から出現し、軽快な動きで彼を掬い上げ、アームをしならせてぶっ飛ばした。
イリエは座敷を飛び越え、庭の池に落ちた。
モモカを捕えていたクイックヘールは、片手の一突きで床の間の柱と壁を粉砕し、蠍のような長い尻尾で襖と障子を叩き割り、檜柱をへし折った。
彼等は遠慮なく、建物と庭を破壊した。
めきめきと音が鳴り、柱が砕け、梁が下へと歪んでくる。
周辺に白塵が舞う。
クイックヘールは日菜の奪取を命じられていた。
彼等は日菜だけに、狙いを定めた。
夜襲専門の彼等は暗い庭で、的確に獲物を求めて動く。
彼等がどういう武器を撃ったのか、庭木の間を駆け抜ける日菜の数歩前を木端微塵に砕いた。
凄まじい砲弾の連続音がして、日菜は後ろ向きに倒れた。
轟音で耳の感覚が麻痺する。
彼女を取り囲むように撃ち込まれ、和風庭園を彩る四季折々の庭木や、岩や石橋が粉々になった。
日菜は地面に伏せ、両手で頭を庇った。
彼女の体の上に、粉々になったかけらが降り注いだ。
日菜は荒い息をした。
彼女はまた立ち上がり、走り出そうとしたけれど、自分が暗闇で丸見えなのはわかっていた。
どこの茂みの影にも、隠れることは出来ない。
雨がぱらぱら降ってきた。
日菜は素足で、パジャマ代わりのTシャツ、短パン姿だった。
とっさに、銃の入った鞄だけ、肩に掛けて持ち出していた。
でも、銃がクイックヘールに有効でないことは容易に想像できた。
日菜はよろめき、追い詰められるように庭の奥へと進んだ。
周辺は全て粉々に砕かれ、焼き焦げる臭い匂いが鼻の粘膜を刺激した。
日菜の防衛本能が、危険を告げてきりきり叫んでいる。
彼女が座敷の方向を見ても、モモカは見えない。
殴られて、暗がりで失神しているのかも知れない。
由紀が懐中電灯を持ち、
「日菜ーっ!!」
母屋から叫びながら駆けてきた。
彼はクイックヘールに阻まれ、広縁の脇から庭に向かって叫んだ。
「日菜ー!! ノグチが来たー!! アメリカがコバから、試作01を買ったって言ってるー!!」
その声はよく通り、日菜の場所まで届いた。
池から這い上がってきたイリエが、呆然とした。
「小林教授が!? 嘘だ、そんなこと!!」
「マジです。出張はデタラメ。今、奥さんと成田のホテルにいる。アメリカ行くって。試作01を手土産に。自分の研究成果だとか、言ってるらしい。おまけに、コバ、ノグチに日菜の居場所を教えた。日菜を売りやがった!!」
由紀がノグチから聞いたばかりの話を、イリエと日菜に伝えた。
由紀の眸が怒りに燃え、イリエは失望と驚きで立ち尽くした。
「コバが……」
日菜は愕然として、頭の中が真っ白になってしまい、何も言葉が続かなかった。
由紀の前に立ち塞がるクイックヘールは、先日のZ市でのことを憶えていた。
機械に包まれ、ゴーグルとマスクが一体になった人間離れした醜い顔で、懐中電灯の光を下から受けていた。
虫の威嚇する声のように、エアーを噴いて軋みながら、由紀を憎々しげに見下ろした。
クイックヘールの尖った爪が、両側から由紀の頭部を狙った。
「俺達のことはいいから、由紀くん、逃げろ!! 日菜ちゃん連れて…」
池から上がった、ずぶ濡れのイリエが、クイックヘールの長過ぎるアームに命懸けでぶら下がった。
「イリエさん!! 危なっ…」
由紀はしゃがんで爪を躱し、イリエを振り返った。
もやしのように色白で細長いイリエが、クイックヘールの軽い一振りで空を飛ぶ。
イリエは逆さまに落ちて呻き、胸を押えて倒れた。
爪に抉られ、血がぼとぼとと滴った。
イリエを弾き飛ばしたクイックヘールが、由紀に向きを戻した。
クイックヘールは前回、由紀に加え損なった一撃を今度こそ与える為に、機械の足を一歩前に踏み出した。
日菜は別の二機によって、白い漆喰の塀の手前まで追い詰められていた。
彼女はもう後がないのに、腑抜けになったように呆然と、クイックヘールを見上げている。
彼女は小林教授に裏切られたショックから、立ち直れない。
目の前に迫る危機に対し、何も抵抗することが出来ない。
何だか、眸に涙さえ浮かんでくるのだ。
クイックヘールが日菜の手を掴もうとした。
「日菜ちゃん!! こっち!!」
日菜の手を、モモカが先に掴んだ。
小柄なモモカが、グレーの迷彩服を着ている。
モモカが日菜の手を引き、クイックヘールの脇をすり抜けようとした。
日菜は意識がないみたいに、手を引かれるまま、モモカの方へ二、三歩、よろめいた。
上空で大きな羽音がした。
漆黒の翼が風を切る。
クイックヘールの体がみしみし音を立てて変形し、背中の甲殻が開き、漆黒の翼に向かって連射した。
空には月も星もなく、小雨が降り、暗い。
空を裂く、砲弾の煙。
日菜の視力では、巨大な鳥が飛び回る姿が速過ぎて、はっきりと確認できない。
怪鳥の羽音はクイックヘールが放つ轟音で掻き消された。
煙が煙幕のように空を灰色に覆う。
日菜はぼんやり、空を仰ぎ見た。
突如、鷲の鉤爪のようなものが、彼女の体を捕えた。
日菜は宙へ舞い上がっていた。
翼長3メートル以上の機械の怪鳥が、日菜を捕えて飛翔し、一気に急上昇して、砲弾を躱して斜めにロールした。
彼女の視界は、宮島邸を一瞬見下ろし、夜空と煙と雨の間で回転した。
後は藍色の光に包み込まれ、それが次第に光を失って、闇に帰した。