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Ⅰ 鬼火

 Ⅰ 鬼火


 1



 港公園の入口にバイクを停め、いつものように噴水前のベンチへ向かった。

 その日は人が殆どいなかったので、爽やかな水音が響いて聞こえた。


 空は夕焼けに染まり、徐々に藍色の夜に溶けていく。

 雲の合間から光が射し、微妙な光加減が互いの表情をわかりづらくした。

「追われてるんだ…」

 トキオは遠くを見ながら、日菜(ひな)にゆっくり打ち明け始めた。

「日菜、ヤバい。なんか、俺…、危ない事件に巻き込まれたみたいなんだ…。最初、俺はあいつらを信用してた。仲良くなったと思ってた…。それが…もう、どうしたらいいか、よくわからない。あいつらは今じゃ、俺を消した方がいいって考えてる……」

 トキオの声が掠れた。

 日菜は驚いて、彼の横顔を見詰めた。

「消すって、どういう意味? トキオ、誰かに殺されそうなの?」

 問いかけられたトキオは、力なく頷いた。

「そうだよ。リセットされる。何もなかったみたいに。…日菜は、UFOを信じるか?」

 日菜は一瞬ためらった後、相手を傷付けないように答えた。

「宇宙人はいるよ! でも、地球にはまだ来てないと思うなー」

 すると、トキオは隣りに座っている日菜を振り返り、

「いや、宇宙人じゃなくて。UFO…みたいなやつ。俺が見たのは、ただの機械…」

 ぼそぼそと呟く。

 日菜は彼が夢の話をしているのかと思った。


 既に公園は暗くなり、高層ビルの夜景が、藤棚の向こうに浮かび上がっている。

「日菜、俺さ、機械の修理を手伝ったんだ。そいつら、困ってたからさ…」

「すごいね。UFOを修理したの? さすがはK大大学院行ってるだけあるねー」

 日菜が冷やかした。トキオは首を振った。

「日菜、俺は特殊な装置で未来へ行った。未来の俺が、俺の未来を告げた。俺は…未来を失った。何もかも知ってしまったから」

 トキオは缶コーヒーを地面に置き、両手で頭を抱えた。

 日菜は呆気に取られ、何だか信じられなかった。彼女はわざと、ふざけるような調子で言い返した。

「すごいじゃん。未来人て、どんな感じだった?」

「俺と同じ顔。俺より、ちょっとだけ老けてたよ」

 トキオが即座に返答した。

 日菜は言葉が続かない。

「日菜。未来人と現代人を、見分ける方法があるんだよ。あいつらの手は、微かにアーモンドの匂いがするんだ。異なる時代のウイルスを、自分達の時代に持ち込まない為に、あいつらは丁寧に洗浄と殺菌をする。そのハンドソープに、保湿のアーモンドオイルが含まれてる……」

 トキオの説明が、日菜には嘘臭く思えた。


 トキオは日菜より六歳上。父親同士が親しい友人で、昔からよく勉強を見てくれたりした。兄と妹のようだったけれど、大きくなるにつれ、別な感情も芽生えてきた。

 お互いに意識するようになったのに、今も言い出せずにいる。


 日菜はトキオのことが心配になった。彼は最近、どこかおかしかった。

「ああ、こんな話をしてる場合じゃない。逃げなきゃ。どこへ? 逃げ切れるとこまでだよ。明日、バイクで発つ。かさばる荷物は持ってけない。…日菜、一緒に来る?」

 トキオが誘うと、日菜はしばらく考え込んだ。

「そうだね…。行ってもいいけど」

 日菜はトキオが誰かに騙されているんじゃないかと疑った。

 でも、言えなかった。

「高校はどうする?」

「いいよ、別に。退屈だったし、ちょうどいい」

 日菜は強がって見せた。

「由紀には連絡しとかなきゃな。あいつ、まだアメリカ留学中?」

「あんな馬鹿、連絡なんか後でいいよ。トキオに任せる」

 日菜はベンチから立ち上がり、トキオの手を引っ張った。

 トキオの、指の長い、大きな手。

 日菜は楽しそうに手を繋ぎ、二人でバイクの方へ歩き出した。


 日菜とトキオの時間が、ここから狂い始める。




 2



 翌日の7月7日。


 七夕だったが、午後から暗い雲が空を閉ざし、夜には雨が降り出した。

 星は一つも見えない。

 風と雨が激しさを増し、前方の景色をぼかしていく。

 海岸通りのアスファルトまで、岩場に打ち寄せる波の飛沫が届く。


 海岸通りを西へ、トキオのバイクが駆け抜ける。

 赤色灯を回転させながら、数台のパトカーがサイレンの多重奏を響かせていた。

 トキオの背中にしがみついている日菜の袖口から、雨が侵入してきた。温かいのは、トキオの背中だけ。

 白いセンターラインと、道路を照らす光が後方へ流れていく。

 パトカーが二人を追い立てる一方で、規制されたように対向車が来ない。


 突如、前方に稲妻が閃いた。

 日菜には、空が破れたように見えた。その破れた空から、ガス火のような青い炎が噴き出した。

 合成された画像のような光景。

 やがて、その炎は直径3メートルぐらいの球体になったが、眩しいほど明るくはなかった。ちろちろと鬼火のように、妖しく燃えている。

 暗闇に浮かび上がった鬼火は、その位置から動かない。

 鬼火が動かずとも、バイクは道なりにそっちへ向かって走っていくので、やがて炎の揺らぎが鮮明に見えてきた。

「ヤベェ…! 来やがった!」

 トキオが叫び、鬼火を避けようとしてハンドルを切った。

 バイクのヘッドライトに照らし出される雨が、銀色の糸のように光り、撥ねて散った。

 二人を乗せたバイクは斜めに傾き、スロー再生みたいにゆっくり滑っていくように感じられた。勿論、一瞬のことだった。

「炎とぶつかる!」

 日菜は心の中で叫んだ。

 目の前に迫った鬼火は、X字型の口を開き、青く光る|金属≪メタル≫を吐き出した。

 鬼火の周囲では、空気さえも脈打って振動していた。

 日菜は空中へ投げ出され、回転して落ちた。トキオも弾き飛ばされて、バイクごと濡れた道路上を遠くまで滑っていった。


 日菜は焦げたような匂いと、耳鳴りを感じた。倒れたまま、身動き出来なかった。

 彼女はうつ伏せのまま、周囲に対して目を凝らした。

 青い鬼火の開口部から、金属製のタラップが降りてきた。

 それで、彼女は鬼火の中に機械の塊があることを知った。

 現れた人影は、身長が2メートル以上ある。肩から盛り上がる、不自然な頭部。異様なバランスで垂れ下がる、長過ぎる腕。有り得ないシルエットだ。

「宇宙人?」

 日菜は固唾を飲んで、見詰め続けた。

 いつの間にか、物々しかったパトカーの行列は消えていた。

 日菜は額を流れる、生温かい血を感じた。服も擦り切れ、両腕が血だらけだった。

 彼女の位置から、トキオの様子は見えない。

「動くな! 声を出すな!」

 いきなり、誰かが日菜に命令した。日菜は宇宙人に見つかったと思って、恐怖で縮み上がった。

 背後から現れた男が、日菜のヘルメットをむしり取りった。

「足を骨折してる。額の怪我は軽傷だな。命に問題はない。あんた、運がよかったな」

 男は死角に立ち、日菜を見下ろした。

「じっとして。あいつらは今、暗視機能であんたを捜している。俺はあんたを、あいつらから隠すことが出来る」

 不思議なことを言う。

 この男は日菜を助けようとしているらしい。まだ若い声で、日菜とそれほど歳の差を感じさせない。

「トキオは…?」

 日菜は声を絞り出した。

「そっちは間に合わなかった。トキオがどうなったか、わからねぇ。でも、今はそれより、あんたもあいつらに命を狙われてんだからな。自分の心配しなよ」

 男はよく事情を知っているように話した。


 そのうち、鬼火の口から降り立った巨人達が、日菜に迫った。

 そいつらは、ハリウッド映画で観るようなロボットウォリアーだった。機械と兵士が混ざり合っている。

 聞いていると、そいつらは米語(スラング)を喋っていた。

 巨人達はすぐ側まで近付いたが、彼女には全く気付かず、引き返していった。その間、日菜の心臓は早鐘を打ち、全身が小刻みに震えていた。

 ロボットウォリアーを欺いて、男は満足そうに笑い声を立てた。

 彼は日菜の前方に回り、彼女の顔を覗き込むと、急に驚いて叫んだ。

「あれっ!? なんで、ヒミコに似てんの? あんた、生まれ変わりか?」

 男は整った顔を歪め、意味不明のことを口走った。

 彼は救急救命士の白衣を着ていた。てきぱきと部下に指示を下し、日菜を担架に載せて救急車へ運んだ。

 救急車が病院に向かう頃、道路上には、ロボットウォリアーもトキオも見当たらなかった。


 この夜から、トキオは忽然と消えてしまったのだ。




 3



 翌朝、日菜は病院のベッドで目覚めた。

「雨でスリップして、海岸線のカーブで転倒したのよ。覚えてる?」

 看護師が日菜に囁きかけた。

 日菜は初め、意味がわからなかった。

「バイクは危ないよね。折角、可愛い顔してるんだから、顔に傷付けちゃダメよ」

 看護師が事故について、ざっと教えてくれた。単独のバイク事故で、後から来た車の誰かが、救急車を呼んでくれたと言う。

「後で、警察の方が来るって。その前に、先生が来たー」

 看護師が出て行き、入れ替わりに医者が二人入ってきた。

「担当の穂高です。ご家族に連絡する為に、お荷物を見せていただいたんですが、お名前は平原日菜さんに間違いありませんか?」

 穂高医師が穏やかに話した。


 日菜は返答に詰まった。

 どう考えても妙な話だ。信じてもらえるだろうか?

 昨夜のことが頭に浮かぶ。

 空が裂け、鬼火とバイクが衝突した。あれは、夢か現実か?


 しばらく考えた末、日菜は嘘を言った。

「…よくわかりません。…何も憶えてません」

 二人の医師は、互いの顔を見合わせた。

「いいんですよ。頭を打ってますからね。記憶が混乱してるのかも知れません。焦らず、ゆっくり治療をしていきましょう」

 女性医師が言った。この人は院長で、大原という。若くはないけれど、かなり美人で、頭も切れる女医だった。

 二人の医師が出て行くと、日菜は行方不明になったトキオを思って、胸が張り裂けそうに痛んだ。

 もしかしたら、トキオはあのロボットウォリアーに拉致されたのかも知れない。



 その後、警察が来て、簡単な聴取があった。

 巡査長は、事故を起こしたバイクの持ち主について、しつこく尋ねてきた。

「誰のバイクに乗ってたんですか? バイクを貸してくれた友達は、現在どこにいますか?」

 巡査長は遠回しに、トキオの所在を問う。

 日菜にわかるわけないのに。



 数日後、日菜の自宅が不審火により、全焼した。

 日菜の両親は去年、交通事故で亡くなっている。同居していた祖母は入院中で、不幸中の幸い、今回の難を逃れたが、両親の思い出が灰になった。高校の制服やパソコン、部活の剣道着、写真も教科書も、何もかもが焼けた。

 「命を狙われてる」

 日菜を救急車に載せた男が言っていたことを、思い出した。

 今まで平凡に過ごしてきたのに、ごく普通の女子高生だったのに、何が起きているのか、さっぱりわからない。

 日菜は恐ろしかったけれど、足を骨折しているので、どこにも逃げようがない。

 彼女は記憶喪失のふりを続けた。

 それが実際に、彼女を一時的に守ることになった。



 日菜がようやく、松葉杖をついて歩けるようになった。

 ある夜、彼女は眠れなくて、一人で談話室へ行った。

 消灯時間を過ぎているから、暗がりに包まれている。取り留めもなく考え事をするうちに、静かに時間が過ぎた。

 そこに、宿直の穂高医師が来た。

 彼は人目を忍ぶように柱の影に隠れ、白衣のポケットから携帯電話を取り出した。

 日菜はちょっと、その場に出づらくなった。幸い、観葉植物が視線を遮ってくれている。

 穂高医師が小声で話し始めた。

「…平原日菜ですか。順調ですね。…まだ、記憶は戻りませんが。……はい、監視は続けます。トキオが接触してくるかも知れませんし。…ええ、何とかトキオを確保しなくては。…努力します」

 穂高医師が通話を切った。

 日菜は偶然、立ち聞きしてしまった。気が動転してしまって、どう考えていいかわからない。

 穂高医師はトキオのことを知っていた!

 その上、何か目的があって、トキオを捜しているらしい。

 穂高医師を信じていた日菜は、裏切られた気持ちになった。トキオの情報を聞き出したいが、会話の内容からして、味方とは到底思えなかった。

 

 日菜は病室に戻って、布団の中で目を閉じた。

 目を開けた時に、全てが夢であってくれればと願った。




 Ⅱ 未来から来た男


 1

 


 日菜は怖い夢を見た。


 七夕の夜空を黒い雲が覆い、織姫の涙のような雨が降っている。

 稲妻が走り、異空間からあの青い鬼火が現れる。

 日菜の体を掠めて、バイクが道路を滑っていった。

 バイクはガードレールの手前で、オレンジ色の鮮やかな炎と黒煙を噴き上げ、辺りを照らし出す。

 照らし出された片隅に、トキオが横たわっている。

 ロボットウォリアーも赤々と照らされて、鬼のような顔が露わになった。不快な金属の軋みとエアーの噴出音を響かせ、トキオに一歩一歩近付いて行った。

 あいつらは米語で何か話しかけ、機械と混じったアームでトキオを摘み上げた。

「やめて! 何をするの!?」

 日菜が大きな|眸≪め≫から、涙の粒を散らせた。

 両手を掲げるが、足が折れていて、トキオを助けられない。

 ふいにトキオに火がついて、彼の足が燃え始めた。炎は下から蛇のように絡み付いて、昇っていく。

 日菜の叫びは声にならない。

「日菜、逃げろ! こいつらの目的は、俺達の未来を乗っ取ることだ!」

 トキオが口から炎を噴きながら叫び、全身を炎に包まれていった。

「トキオ、何て言ったの? もう一回…」

 日菜の目の前で、トキオは足から闇に溶けるように消え始めた。

「トキオ…!」

 日菜が必死でもがく。

「日菜ぁ……!」

 トキオが宙に消えていく。

 嘲笑う、未来のロボットウォリアー。


 その時、誰かが日菜の手首を掴んだ。

 日菜は心臓が凍りつくような思いをして、夢から飛び起きた。

 暗闇から白い腕が伸び、日菜の手首をしっかと掴んでいた。

「大丈夫? 平原さん、すごくうなされてたよ。雷鳴ってるから、カーテン閉めましょうね。外は土砂降りよ」

 看護師が無表情に言い、ベッドの脇のカーテンを閉めた。

 夢から覚めても、雨が激しく、稲妻が光っていた。

 日菜は嫌な夢で汗をびっしょりかき、まだ体が硬くなっていた。

「怖かった…」

 日菜は手で顔を覆って、長い息を吐き出した。

 次の瞬間、彼女はゾッとした。

 掴まれた右手の手首から、微かにアーモンドの匂いがする。

「未来人の手は、アーモンドの匂いがする…」

 確か、トキオがそんなことを言っていた。

 いや、ただの偶然だろうけど。


 


 2



 次の夜、消灯後に日菜はこっそり、病室を抜け出した。

 誰にも見つからないように注意を払いながら、エレベーターに乗って、ロビーまで降りた。

 日菜はパジャマのポケットから、ありったけの小銭を出して、公衆電話に向かう。大切な携帯電話は、事故の時に壊れた。


 日菜の記憶喪失は偽りだ。

 だから、同級生に電話を掛けるところなんて、人に見られちゃいけない。


「もしもし? 日菜だけど。…由紀?」

 日菜が小声で言うのを最後まで聞かず、受話器から明るい笑い声が弾けた。

「ひゃはは! なーんだ、バカ日菜か。そんなに俺が恋しくて? ひゃはは…」

 日菜は久し振りに由紀の声を聞いた。

 その途端、罵りたくなった。

「由紀! あんたって、頭の中で年中お花が咲いて、本当におめでたくできてるよね? チャラいわ、バカだわ、香水臭いわ、いいとこゼロ! あんたみたいなバカに、頼ろうとした私が間違ってたよ!」

「まぁまぁ、なんて言うかさ、まぁ…、そんなに熱くなってもさ。俺のバカは変わらないんだしさ。まぁー、落ち着けよー。そんなに心配しなくても、もう少ししたらちゃんと帰るからぁー。日菜と一緒にK大行くしー。二人でラブラブ通学しようなっ!」

 浮かれて話す由紀は、留学しても何も成長してないようだ。


 日菜と同級生の由紀。幼馴染の腐れ縁で、何かと日菜の世話になり、迷惑かけっぱなし。

 トキオの親戚でなかったら、彼女も面倒を見てないだろう。


 日菜は我慢して抑えていた、このところの心の緊張の糸が切れたようだった。

「このバカ。あんたがK大、受かるわけないでしょ。ちょっとは勉強してんの? 少しは将来のことでも考えたら? このゲームオタクが! あんたが継いだら、パパの会社が潰れちゃうよ?」

 罵る声が次第に大きくなり、彼女は慌てて、自分の口を手で押えた。

「それどころじゃないの。由紀、大変なことになっちゃってさ。トキオがUFOの妄想語り出したと思ったら、本当に青い火の球みたいなの出て来てね、バイクでぶつかって跳ね飛ばされたの! その後、トキオが身長2メートルの未来人に拉致されたっぽいの。警察がトキオを必死に捜してて、私も捜したいんだけど、足折ってるし。トキオと全然連絡つかなくて、すごく心配で…」

 話しているうちに、日菜の眸がどんどん潤む。涙が大きく盛り上がって、今にも零れそうになる。

「泣いてるの? 日菜」

「泣いてないよ」

 日菜は強がり、目頭を指で拭った。

 由紀は舌打ちした。

「チッ、トキオの野郎。スゲェ自作自演!! 未来人にさらわれて生死不明って…、マジかよー!!」

 由紀は最悪の感想を述べた。

「ダセー、トキオ! 普通、もうちょっとマシな死に方あるだろ? なぁにが未来人だよ。せめて、エイリアンに誘拐されろよ。うわぁー、友人として恥ずかしくね? 日菜、俺達、テレビのインタビューで何て言う? ああ、トキオは昔から物理オタで変人で、ロリ系大好きで、いつか何かやっちゃいそうでしたねぇー、とか言っとく?」

 由紀がふざけ過ぎ、聞いている日菜は本気で腹を立てた。

「あんた、もう日本に帰って来なくていいから!!」

 日菜が電話を乱暴に叩き切った。


 由紀はいつもそう。ふざけてばかりで、肝心の時に役に立たない。




 3



 日菜の退院が近づいた。


 彼女はリハビリと気分転換を兼ね、散歩に出かけようと松葉杖で病室を出た。

 五階からエレベーターに乗る時、誰も乗ってなかった。一階のボタンを押し、ドア側を向いて立った。

 降下するエレベーターの中、背後から一瞬、風が吹いた。

 日菜が反射的に振り向くと、いつの間にか、闇をハサミで切り抜いたような黒いスーツを着た、中年男が立っていた。

 日菜は自分の目を疑い、背筋に悪寒を感じた。

 先刻まで、絶対に誰もいなかった。

 男は痩せこけて、小柄。眼鏡を掛け、髪はぴっちり梳いている。サラリーマンというより、お堅い官僚っぽい感じ。スラックスの折り目がぴんとして、仕立ても生地も、かなり上等。

 男は日菜をちらっと見たものの、陰気な表情で俯いた。

 日菜は男から一瞬、殺気を感じた。ドアが開くまで、緊張して目が離せなかった。

 男は彼女に続いて一階でエレベーターを降り、無言のまま、正面玄関から出て行った。



 日菜が退院する日、再び、あの気味悪い黒スーツの男が現れた。

 彼女が乗る前には誰もいなかったエレベーターに、知らぬ間に、隙間風のように忍び込んでくる。

 この日の男は、エレベーターから日菜が降りる時に話しかけてきた。外国人のようなイントネーションだった。

「これは、アナタの物ですか?」

 男はにやにや笑いながら、肩に掛けていた黒いナイロンバッグのジッパーを開けた。

 日菜は正面から男を見据えた。男の見た目は現代風で、どこも不自然さはなかった。

 男がナイロンバッグから取り出したのは、焼け焦げたヘルメットだった。

 日菜は危うく、叫びそうになった。

 それは事故当時、トキオが被っていたヘルメットに違いなかった。

 ヘルメットの焼け焦げと、血の黒く固まった跡が、彼女を恐怖に突き落とす。

 男は日菜が蒼くなるのを見逃さなかった。

「記憶喪失は、やっぱり嘘ですね? 日菜さん?」

「そのヘルメットがどうかしたの?」

 日菜は惚けた。

 でも、声が震えた。

「アナタにこれ、差し上げます」

 男が日菜にヘルメットを押し付けた。

「こんなのいらないって。傷だらけで汚いし」

 平静を装おうとしながら、日菜は背中に汗が流れるのを感じた。

「アナタの物じゃない? では、誰の物でしょうね。事故現場に落ちてたんですが」

 男は嫌味たらしく呟き、そして、思いもよらないことを言った。

「日菜さん。アナタはK大を受験するのですか? やめた方がいいですね」

 日菜はびっくりして言葉を失った。

 男は斜めから日菜を見下した。

「ハハ、可哀相ですけど、K大に行かない方がアナタの為でしょうね……。アナタは一体、誰を追いかけて、何をやらかそうとしてますか? 何か重大なこと? 将来の夢は大事なんですけどね、アナタの未来は既に、アナタ一人のものではないんでね。私達も、黙って見てられないんですよ」

 男の眼鏡の奥の双眸で、冷たい炎が燃えている。あの鬼火のように妖しく、暗く、日菜を恨めしそうに睨んでいる。

 この男には、死神のようなイメージがある。

「それ、どういう意味?」

 日菜は去ろうとする男を、松葉杖で追いかけた。

「これだけ警告しても、半年後、アナタはK大に進学します。元々、それは知ってたことですが。残念ですね。日菜さんが未来にどう向かうのか、じっくり見せてもらいます」

 男は含み笑いを残し、正面玄関を出た。

 その後ろ姿は、日菜の見ている前で、突然に消えた。

 一瞬、青い光が走った。


 日菜の手に、トキオのヘルメットが残された。




Ⅲ 消されたトキオ


 1



 国際線の到着ロビーは、多くの人でごった返していた。

 到着したばかりの人々が、大きなスーツケースをカートに積み込んで、楽しそうに笑い合いながら通り過ぎる。あるいは、外貨交換の列に並ぶ。


 ゲートの赤いロープの外側に、高校の制服姿の日菜が立っている。

 彼女の両側には、ツアーガイドがパネルや旗を掲げ、出口を見詰めている。

 アナウンスが旅客機の到着を告げてから、かなり時間が経った。税関が混んでいるのだろう。

 やがて、人の波の間から、誰かが手を振って出てきた。

「日菜ぁー!!」

 由紀が子供のように、跳び上がって叫ぶ。彼は少女のように可愛い顔立ちで、体つきも細い。

「お帰りー。由紀、遅かったね」

 日菜が出迎え、ロープを挟んで向かい合った。

 由紀は横着にも、そのロープを持ち上げて下を潜り、赤いキャリーバッグを引っ張った。

「ただいまー。そんなに待った? お、ちょっと見ない間に、バスト3センチ、デカくなった? 大人じゃん」

 瞬間、日菜が顔をしかめた。

「嫌だ、このエロ猿! グランドキャニオンから落ちて死ねばよかったのに!」

 懲りずに、由紀はへらへら笑う。

「バカ言うなよ。日本中の女の子達が泣くだろ。…はぁ、言ってて自分でキモイ。…で、日菜ぁー、トキオは戻った? あいつ、元気? なんで一緒に来てねぇのー?」

 のほほんと話す由紀の何気ない質問に、日菜の顔がぱっと明るくなった。

「トキオか。…懐かしい。その名前、久し振りに聞いたよ。今じゃ、うちのおばあちゃんまで、トキオのこと忘れちゃったみたいなんだけど」

 日菜は遠い昔を思い出すように話し、由紀と並んで歩いた。

 由紀は意味がよくわからないみたいで、彼女の寂しげな顔を覗き込んだ。

「俺はボケてねぇ。まぁ、あんなオッサンの出迎えなんていらねー。こうして、可愛い日菜がいりゃ充分。もしかして……あいつ、まだ未来に行ってんのか?」

 由紀が大笑いした。

「さあ。どこにいるのか。まだ見つからないの…」

 日菜は元気がなくて、溜息とともに肩を落とした。

 あの事故の夜から、数ヶ月経過している。


「あっ、ママからだー」

 由紀がデニムのポケットから、携帯電話を取り出した。

「ママー、ただいまー。お土産いっぱい買ってきたよー。…迎え? いらない。バカ日菜と一緒に帰るから。…ご飯? 食べる、食べる。日菜なんかと食べない。ちゃんとおうちのご飯、食べるよっ!」

 マザコンの由紀が話すのを、日菜が横から冷めた目で眺める。

 由紀は宮島重工の社長令息だ。


 彼は電話を切ると、日菜の背中を軽く叩いた。

「元気出せよ。トキオは絶対、帰ってくるって。てか、俺達でトキオを捜し出して、迎えに行ってやろうか?」

 由紀が軽いノリで言う。

 それでも、日菜は嬉しかった。

 漸く、彼女の心に希望が射し、長かった雨が上がるように晴れていく。

「由紀。ちゃんと考えてくれてたんだ? いつも頭空っぽだと思ってたけど、急に頼もしくなっちゃって、誰かと思ったよ。一瞬、見違えたよ!」

 日菜の感謝の言葉に、由紀は調子に乗り、

「そう? どの辺が?」

 得意げに胸を反らせた。

「香水付ける量が、ちょうどよくなったよ。前はすごーく臭かった。…それと、ちょっとオシャレになったね? そういうカッコも、前は全然着こなせてなかったのになぁ!?」

 日菜は不思議そうに、由紀をまじまじと見詰めた。

 彼は黒いニット帽を目深に被り、色使いやアクセサリーなどの小物使いが、オシャレ上級者に見えた。

「俺は日々、進化してるよ。時代が進んでくからねぇ、取り残されたくねぇの。しかも、ライバルが未来へ行っちゃってるからな!」

 彼は舌を出し、空に向かって中指を立てた。

 由紀のそういう馬鹿なところは、本当に相変わらずだった。




 2



 日菜は病院を退院してから、穂高医師のマンションに居候していた。

 自宅が全焼して、病気の祖母は特別養護老人ホームに入所している。

 他に頼れる親戚もなく、トキオの情報が欲しかった日菜は、あえて危険な選択をした。

 勿論、穂高医師はなかなか、尻尾を出さなかった。

 日菜も、盗聴や尾行を覚悟しなければならなかった。


 日菜が穂高医師のマンションから出て来た。

 すると、ママに買ってもらった軽自動車で迎えに来た由紀が、すぐに不満を口にした。

「おまえな、いつまであの医者と暮らす気なの? あいつ、30代? すげぇオッサンじゃねぇ?」

 由紀からすると、20代後半から中年ということになる。

「手がかりが穂高先生しかないんだ」

 日菜は由紀を押し退け、助手席に乗り込んだ。

「はぁ。ペチャパイのくせに、そういう作戦かよ」

「妬かないでよ。私はあんたの彼女じゃない」

 二人は車の中で口論になった。

「誰が妬くか。バカ日菜はあんなロリコン医者に養われて…痛っ!」

 由紀が日菜のビンタを食らった。

 日菜は、彼女がどれだけの覚悟でトキオを捜しているか、わかってくれない由紀に腹が立つ。

「クソ。ブス日菜、凶暴ー!!」

 由紀は赤くなった頬を擦りながら、キーを回した。

 彼は日菜に、絶対に勝てない。

 走り出した車の中で、彼は何を思ったか、突然思い出し笑いを漏らした。

「日菜さぁ、小5の夏のキャンプで、崖の上から湖に飛び込んだことあったなー。あれ、水深が浅かったら死んでたな。俺、なんて無茶やらかす女の子なんだーと思って、びっくりした」

「そんなこともあったね」

「俺、あの時、この女の子ヤベェって思ったんだよ」

 由紀は道の先を見詰めていた。


 二人は以前にトキオが暮らしていた、築20年の木造アパートに到着した。

 アパートの前の駐車場に車を停め、日菜が先に降りた。由紀は後から日菜に続き、

「ポンピーン」

 と呟きながら、一階の部屋のインターホンを押した。

 男の声で返事があり、日菜の胸は高鳴った。

 ドアの鍵が回り、現れた男は、残念ながらトキオではなかった。

「よぉ、日菜ちゃん。バカ由紀も一緒か。急にどうしたの?」

 トキオの兄だった。

「キョウ兄ちゃんこそ、なんでこの部屋に…」

 由紀が驚いて、しどろもどろになる。日菜は押し黙っている。

 トキオの兄は機嫌よく答え、

「なんでって、俺はもう3年も、この部屋に住んでるよ。よくここがわかったね。ま、入りなよ。散らかってるけど。久し振りだね」

 部屋の中へ二人を招き入れた。


 1Kの部屋は本当に散らかっていた。独身男の生活感に溢れている。

 狭いリビングに大型テレビ、敷きっ放しの布団。その布団カバーもカーテンも家具も、何もかもがトキオの部屋にあったものと異なる。

 日菜と由紀は戸惑いつつ、部屋を眺め回した。

 トキオの痕跡は全て、消えてなくなっていた。

「トキオが住んでた時と違うな…」

 思わず、由紀が呟いた。

「トキオ? 誰、それ?」

 トキオの兄が演技に見えない、真顔で尋ねた。

 由紀は、頭を殴られたみたいな強い衝撃を感じた。

「冗談だよね? キョウ兄ちゃんの弟だよ!」

 日菜はこんなことって、有り得ないと思う。悔しいし、悲しいし、涙が湧くより、脱力感がある。

「日菜ちゃん、何言ってんの。俺に弟なんかいないよ」

 トキオの兄が、本心から微笑みながら言う。

 日菜はこの現実を、まだ受け入れたくなかった。

「キョウ兄ちゃんと昔、映画観に行ったよね。青いタヌキがタイムマシン乗るやつ…」

「おお、行ったな。小さかったのに、よく憶えてるんだな。俺と日菜ちゃんと、バカ由紀の三人で…」

 トキオと四人だよ、と日菜は言い返したかったが、堪えた。

 トキオの親に電話しても、そんな息子はいないと言われたし、トキオの兄も同様に、弟を忘れてしまったようだった。

 由紀は終始、呆然としていた。

「また来いよ、日菜ちゃん。バカ由紀。じゃあな」

 トキオの兄がドアを閉めると、日菜は寂しくてならなかった。


 トキオが本当に消えてしまった。




 3



 日菜はK大に合格した。

 意外だったが、由紀も何とか合格していた。

 二人のキャンパスは同じ、でも学部が違う。

 合格発表を見た後、由紀が日菜に、

「コバんとこ、寄ってみるか?」

 と、誘った。


 かつて、小林教授の研究室にトキオがいた。

 小林教授は、日菜の父親の学者仲間。幼い時からよく知っている。

 教授の自宅はK大から近い。

 閑静な住宅街、洋風の白いフェンスの内に樹木が並び、出窓にレースのカーテンが掛かっている。


 日菜と由紀が訪れた時、小林教授は明るい光に包まれた書斎で、何人かの研究生と話していた。

「日菜か。おお、由紀も一緒か。よう来たのう」

 小林教授が二人を振り返った。

「コバー! お久し振りです。私達、この春からK大生になりまーす」

 広いはずの書斎は、本が堆く積み上げられたデスク、多すぎる資料の山で狭く感じられるほど。周囲の壁は全て、作り付けの書棚になっている。


 小林教授は深い皺と薄い髪も老いを感じさせないほど、若々しく溌剌としている。

 その割に惚けた一面もあり、とても面白くて、修士課程では人気がある。

 痩せた体に濁声で、豪快な笑い声を響かせる。


 日菜は書棚から物理の専門書を一冊抜き取り、物理の世界に入ってしまう。

 それで、由紀が小林教授に直接質問した。

「コバ。最近、トキオのやつ、来てますか?」

「誰じゃ? トキオて?」

 小林教授は軽く眉を寄せて、聞き返した。

 由紀の方が面食らった。

「え…。俺と日菜の幼馴染のトキオじゃないですか。研究生の」

「知らんぞ、そんなやつ」

 小林教授は惚けるでもなく、真面目に答えた。

 その場の研究生達も、トキオのことを憶えてなかった。

 由紀は打ちのめされてしまって、次第に事態の深刻さに気付き始めた。

「なぁ、日菜。人間一人を、こんな完璧に消してしまえるもんなのか?」

 日菜は物理の本で口元を隠しながら、小声で返事をした。

「びっくりした? 私、由紀がトキオを憶えてくれてて、本当に嬉しいんだ。だって、もし私達までトキオを忘れちゃったら、トキオが可哀相。忘れられるって、辛いことだよね?」

 すると、由紀は苛立ち、目つきが悪くなって、

「どこにいるんだよ、トキオ? なんで連絡して来ねぇんだよ。マジで未来だったら、捜しようがねぇな?」

 一人ぶつぶつと唸った。


 小林教授が二人を呼んだ。

「おい、日菜、由紀。ちょうどええわ。おまえらと同い年のK大新入生じゃ」

 女の子が書斎に入ってきた。

「可愛いじゃろが。天才少女エンジニア、桜井桃花ちゃんじゃ。かみさんの知り合いでな、うちに下宿することになった。仲良うしたってくれ」

 紹介された女の子は、十八歳よりも下に見える。

 肩までのさらさらした髪で、間違いなく可愛いが、どこか垢抜けずに野暮ったい。

「初めまして。モモカです」

 何故か、モモカは日菜達と反対方向にお辞儀した。

「おいおい、そっちは鏡じゃろ。自分に挨拶しとる!」

 小林教授が呆れた。

 モモカは不思議なぐらい、のんびりした女の子だった。

 日菜は爆笑して、由紀の袖を引っ張って囁いた。

「へぇー、本当に可愛いよ。ねぇ、由紀?」

 女の子大好きの由紀もつられて、振り向いた。

「あ!」

 由紀が小さく息を漏らし、顔を強張らせた。

 一瞬だったが、日菜は見逃さない。

「知り合いなんだ? そうなんだ?」

 日菜が冷やかすと、由紀は腹を立てて言い返した。

「知らねー。どこが可愛いの? 普通じゃん。てか、ダセェー!」

 由紀がいつもの毒舌を披露したので、小林教授はその場の空気を和ませようと、大きな濁声で提案した。

「モモカちゃん、こいつらと向かいのカフェ行って、パフェでも食べといで」

 モモカは嬉しそうに先に立って、書斎の出口に向かった。

 しかし、ドアノブに手を触れることもなく、じっとドアが開くのを待っている。

「そこ、自動ドアじゃねぇ!」

 モモカは由紀に言われ、やっと気付いた。

「なんだー。そっかー。自動じゃないドアなんて、久し振りだぁー」

 モモカは珍しそうに、骨董品でも見るかのようにドアノブを眺め、押して開けるドアを内側に引っ張った。

「逆だ、逆! …ったく、ドン臭ぇな」

 後ろから由紀が手伝ってやった。



 4



 オープンカフェのウッドデッキ、純白レザーの椅子が並ぶ。

 暖かな午後の陽射し、微風にテーブルクロスの裾と、デッキ出口の薄いカーテンが揺れている。


 モモカはずっと浮かれてはしゃぎ、由紀はすねたように沈黙して、日菜だけが気まずい思いをした。

「日菜ちゃんて、変わった名前だね。白菜(はくさい)と書いて、ひなと読むの?」

 モモカが無邪気に言う。

「いや、白じゃないから。お日さまの日だから」

「あっ、そっちか。…だよねー。あはは…」

 モモカは頬を赤く染めたが、気にしないで次の話題に移った。

「日菜ちゃんて、剣道部だったんでしょ。教授から聞いたよ。男子部員より強かったって!」

「おお、こいつはすげぇよ。負けず嫌いだし、凶暴だし、運動神経もそこそこだから。女子にはモテたんだよな、日菜ー」

 突然、由紀が話に戻ってきた。

「うるさいぞ、由紀。あんたなんか、エロ過ぎて女子から嫌われてたじゃない」

「言ったな。ブス日菜…」

 由紀が日菜の、長い髪の一束を掴んだ。

 二人のやりとりを見ていたモモカは、おっとりした口振りで、

「あれ? 何だろ? 由紀くんて、私の知ってる人に似てる…」

 と呟き、首を傾げた。

 由紀は眦を釣り上げて怒った。

「そんなの、よくある話だろ。先に言っとくけど、俺、おまえみたいなのタイプじゃねぇから!」

 彼の暴言には、日菜の方が顔色を変えた。

「ちょっと、由紀! やめなよ。告られてないじゃん。あんた、それだからモテないんだよ!」

 日菜が由紀の椅子を、横から蹴った。

 険悪な空気が流れ、揉め始めたその時に、

「ここ、座ってもいいっスか?」

 先刻、小林教授の書斎に居合わせた研究生が二人、椅子を持って割り込んできた。


 日菜と由紀は、その研究生と顔見知りだった。

 でも、彼等とろくに話したことがなかった。

「トキオ…だっけ? 誰を捜してんの?」

 研究生の一人が聞いてきた。

「覚えてないんですか? マジで? たぶん、ケッズさん、トキオと相当親しかったと思いますよ」

 由紀が答え、ケッズは沈痛な表情を見せた。

「そうなの? わかんねーわ、俺。何でだろ?」

「さっぱり、顔が出てこないっス」

 もう一人の研究生・イリエも、気になって仕方ないらしい。

 空気の読めないモモカが、

「誰の話? トキオって、すごく有名な芸能人?」

 と、質問した。

「日菜ちゃん、トキオのフルネームを教えてくれる?」

 イリエがノートPCを取り出した。

「荒川トキオ、東京と書いてトキオです。何を調べるんですか?」

 日菜はイリエのPC画面を覗き込んだ。

「学生簿。あ、…やっぱり無いな」

 イリエが次々と画面を展開させていく。

「Y市の住民票にも無いな。今ここでわかる範囲は知れてるから、後で詳しく見てみるよ」

「えっ、イリエさん。そんなとこ、見れるんですか? 見ていいんですか? 個人情報…」

 由紀もつられて、PCを覗こうとしたが、そこでイリエは閉じてしまった。

 既に、トキオは最初から存在しなかったことになっている、日菜は心の中で思った。

「俺達、協力するよ。一緒にそいつ、捜してあげるよ」

 ケッズが言った。

 日菜は嬉しかったけれど、すぐ断った。

「もしかしたら、すごく危険なことかも知れないんです。トキオの名前を憶えてるだけで、ヤバいかも」

 日菜はあの死神のような、痩せこけて目ばかりが光っている、黒スーツの男を思い浮かべた。

 あの男は、日菜がK大に進むことを快く思っていなかった。

「秘密、了解っス。危険な方が、俺は燃える」

 ひょろりとしたイリエが、薄っぺらい胸を叩いて見せた。

 由紀は蒼褪め、

「ちょっ…、待って下さい…! なんか、ヤバくねぇ? 大丈夫なんですか、先輩方、人が消されるほどの状況ですよ!?」

 怯えたように言った。

 しかし、ケッズは微笑み、落ち着いて答えた。

「わかってるよ。だからこそじゃないか? その人を放ってはおけない。ましてや、俺の友人だったかも知れないんだし」

 ケッズの決意は変わらなかった。

 イリエは日菜に、

「よし、トキオ捜索チーム結成だ。日菜ちゃん、トキオが行きそうな場所とか、店とか、もう捜してみた?」

 と話を更に具体的に進めてきた。

 日菜は戸惑いつつ、嬉しくて仕方なかった。

「バイクショップはもう行ってみたけど、やっぱり誰もトキオを憶えてなかったです。どうやって、こんな大勢の人の記憶を消すのかな? トキオと関わった人全部の記憶が、奪われたのかな?」

 日菜の疑問に、イリエも深く頷く。

 記憶を奪われた当人なのに、そのトリックが見えない。

「どうして、日菜ちゃんと由紀くんだけが、トキオを憶えてるの?」

 モモカが口を挟んだ。

「俺はアメリカに留学行ってて、消しゴムのリストから漏れたんだろ。日菜は記憶喪失のふりしてたからだろ」

 由紀が不愉快そうに、ちゃっかり仲間に入っているモモカを睨んだ。

 モモカは由紀の冷たい視線を気にすることなく、

「トキオが消えて得をする人が、誰かいるの? トキオを消そうとする人が、今までにいたの?」

 と、鋭い指摘をした。


 静まり返る中で、日菜は思わず口を滑らせた。

「そう言えば、トキオが言ってた。未来人に追われてる、そいつらは俺を消そうと考えてる…とか」

 聞いていたケッズは、コーヒーにむせた。

 口にタオルを当て、

「はあ? み…未来人!? 未来人て…何だ、そりゃー!?」

 ケッズは余りの意外さに訝しみ、日菜に聞き返した。

 日菜は真っ赤になって、小さくなった。

 当然の反応だったし、信じてもらえなくても仕方ない。

 日菜は七夕の夜のことを初めて、人前で話した。由紀も全て聞くのは、初めてだった。

 ケッズもイリエも、モモカも、由紀も、みんなぽかんとして話を聞いていた。

 聞き終わっても、一切の質問は出なかった。

 みんな、面食らって、一歩引いてしまっていた。

 そのままでは、誰もが半信半疑だっただろう。


 日菜は先刻、小林教授の書斎から借りてきた、物理の専門書をテーブルに開いた。

 後半のページの端に、とても汚い殴り書きがあった。ミミズが這うような、汚くて子供っぽい字だ。

「これ、トキオの字なの。さっき、偶然に見つけた。これは前に、トキオに借りたことがある本なの」

 日菜が殴り書きを、一堂に見せた。

 四行に分けて書かれた、短い文。


『俺と同じ名前の街へ行った

 そこに、俺がもう一人いた

 ほんのわずかな未来なのに

 巨大なスラム街と難民キャンプになっていた』


 重い沈黙がその場に流れた。

 信じるか?

 自分の胸に問いを投げかけ、答えが出るまでの時間には、個人差があった。


 沈黙を最初に破ったのは、由紀だった。

「これ、トキオが近未来の東京に行ったって話なのか? 何があって、東京がそんな事態に陥っちゃうの? 大震災か、富士山の噴火? それとも、戦争? そういう暗い話、俺は御免なんだよ!」

 いつも陽気な由紀が、嫌悪を込めて言い放つ。

 日菜は狼狽えながら、本を閉じた。

 話が飛躍し過ぎており、ケッズとイリエはどう反応していいか、わからないようだった。

 一人、マイペースのモモカだけが全面的に話を受け止め、日菜を案じた。

「日菜ちゃんが心配になっちゃったー。私、泊まりに行こうかな。日菜ちゃん、一人で寝るの怖くない? 大丈夫?」

「こいつ、剣道二段なんだよ。しかも、男付き。心配ねぇし」

 モモカに由紀が反発した。

 由紀はもしかしたら、日菜が今まで伏せていたことを怒っているのかも知れない。

「ヤバいのは由紀くんじゃないのかな。話を冷静に分析すると、その消しゴムに、次に狙われるのは由紀くんだろ?」

 ケッズが心配したのは、由紀のことだった。

 気の弱い由紀はガタガタ震え始め、目に見えて蒼くなった。

「チェッ。俺はトキオなんてやつ、知らねぇって、誰に言や助かるんです? 俺は巻き込まれたくない…。へタレで結構。ああ、俺の記憶も消されちまうってことですか?」

 由紀はびくびくして、恐ろしそうに言った。

 日菜は頼りない幼馴染に、今更ながら、少しでも期待していたことが情けなかった。

 いや、由紀は元からこんなものだ。

「ねぇ、このメンバーで、由紀くんの部屋で未来人を待ち伏せしたらどうかな?」

 モモカが手を叩き、迷案を提案した。

「泊まってもらえば? 由紀、一人じゃ怖いんでしょ?」

 日菜が皮肉と冷やかしを込めて言った。

「冗談だろ?」

 由紀はげんなりした。



 








 


 


 




 




  




 










 



 



 




  


 

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