1-8 敵
選手控室で休憩中だった革鎧の少年とタマキへ不意に掛けられた声は、波打つ長い金髪を優雅に垂らした、落ち着いた雰囲気を持つ女性の物だった。
「えっと……なにか用かな?」
小首を傾げ、女の方へと向き直る少年。薄暗い控室の中で見た金髪ロングヘアの女は、冷たい雰囲気を湛えた菱形の目でこちらを値踏みしているかのように感じられた。
その女性はタマキと同じ白い制服を身に着けている事から、聖王騎士養成所の生徒である事は間違いなさそうだ。けれど年齢的には自分やタマキよりも少し上であるように思える。
そして彼女の横に立つ長身の青年……赤い髪をした細面の男だ。金髪の女と同程度の歳に見えるこちらは、明らかな蔑みの表情でもって少年とタマキを見やり、口を真一文字に引き結んで腕を腰の後ろで組み、真っ直ぐに立っている。
「タマキ、知り合いか?」
少年はタマキに尋ねてみた。
なんとなく嫌な感じだ……少年の勘が警鐘を鳴らしている。こういった時はさっさとお暇するのが賢い選択だと、これまでの経験は告げていた。けれど……。
「……あ、あぁ」
少年の隣で、タマキが震えていた。
歯を食いしばり、拳を固めて、額に汗を薄ら浮かべながら……タマキは怒りと屈辱、そして恐怖に震えている。
「お元気そうで何より、タマキさん」
金髪の女が口を開く。それと同時に、タマキの身体が小さくビクリと跳ねた。
「予選出場者の中に恥知らずが居ると聞いてみれば、やっぱり貴女でしたか」
カツン、と女が一歩を踏み出す。するとタマキはまるで押されているかのように一歩下がった。肌から滲み出す汗は量を増し、震えは歯の根が合わぬ所まで来ている。
「誰だよ、アンタ?」
言って、少年はタマキと金髪女の間へ身体を割り込ませ、強い意志を込めて女を睨みつける。だが金髪女は少年の視線を「あらあら勇ましい」と軽く笑って受け流し、逆に睨み返して来た。
「……!」
少年の背筋を悪寒が走る。蛇に睨まれた蛙とはこういった気分なのだろうか? 不気味な視線に肌が粟立ち冷や汗が滲む。彼女の身長は少年とそう変わらないはずだ。しかし何故か今はやけに巨大に……圧し掛かってくるように感じられる。
「貴男が噂の、タマキさんの新しい鎧……ですね?」
鼻を突く香水と白粉のニオイ。金髪女が腰を屈め、少年に顔を寄せて来た。その際、制服の襟首から中々に豊満な胸の膨らみが見えかけていたのだが……少年は自分でも不思議なくらい、そちらに興味が向かう事は無かった。
「なるほど、噂に違わぬ礼儀知らず。言うに事欠いて誰だよ、とは……貴男の主人から他人に名を尋ねる時はまず自分から、と教わっていないようですね」
出来の悪い使用人を咎めるような口調で言って、金髪女は顎の先で少年を指し示した。「名を名乗れ」と要求しているのだ。
「名前は……無い」
精一杯の気を張って、少年は答えた。すると金髪の女は意外にも驚いたような表情を見せ、一瞬言葉を詰まらせた。
「無名……?」
「ああ、だから名乗る名前は無い! ほら、今度はそっちの番だろ?」
そう切り返した少年に対し金髪の女は何事か考えている様子で、真顔になり目を泳がせていた。ところがしばらくして一転、今度は破顔して甲高い笑い声を上げ始める。
「ホホッ! オホホホホッ! そうですか、無名! これはこれは……ほほほ……」
余程面白かったのか、金髪の女は息も絶えん程に笑い続ける。気味の悪い笑い声が控室に響き続け、少年がその声に狂気を感じ始めた頃……。
「ほほほ……ああ、可笑しい。まさか無名だったなんて……知らぬ事とはいえ、そんな貴男に対して名を名乗れだなんて酷な事を言ってしまいましたわね」
ようやく笑いの治まった女が、少年へと向き直って口を開く。
「名乗らせて頂きます。私の名は、マルグレィテ・グラティール。フルネームは省きます、どうせ覚えきれないでしょうから」
金髪の女ことマルグレィテは髪をかきあげ胸を反らし、何故か自慢げに言った。そしてニヤリと口の端を歪めると、自らの横合いに立つ赤髪の青年を示す。
「こちらの彼は、私の鎧。名はクレイス……けれど今更そのような説明は不要ですわね?」
言いながら、マルグレィテはタマキへと視線を送る。するとタマキは悔しそうに俯き眉根を寄せて視線を逸らす。
そんな彼女の様子にマルグレィテは角ばった目を見開き、心底楽しそうな表情を浮かべる。
「おほほっ! たった数日で良い表情をするようになりましたわね。今のタマキさん……惨めな負け犬の顔をしておりますわよ?」
調子に乗ったマルグレィテが更に続ける。
「高慢ちきな小娘が優秀な武具という鍍金を剥ぎ取られて、ようやく地金が出たという所ですか。少々目立ったからと調子に乗ったりさえしなければ……なんて今更後悔しても遅いですわ。もう貴女は私が……」
「そこまでにしてもらえるか」
意気揚々と連ねられるマルグレィテの言葉を、少年の声が遮った。
「事情は知らないが、聞いてて気分の良いモンじゃないんでね!」
少年の声には、明らかな怒気が含まれている。事実、彼は怒っていた……物凄く、だ。もしも服の裾をタマキが掴み彼を引き留めていなかったなら、とっくに少年はマルグレィテの横っ面を引っ叩いていた事だろう。
「ふん……興が削がれましたわ。クレイス、もう行きますわよ」
少年の本気に気圧されてか、マルグレィテの軽口が止まった。不承不承といった様子でクレイスに声を掛け、控室を後にしようとする。
だがその退室をクレイスが引き留めた。
「お待ち下さい、お嬢様。私からも彼女らに一言、伝えておきたい事がございます」
こいつ、何を言い出すつもりだ?
少年の胸で鳴り響いている警鐘の音が、どんどん大きくなって行く。
「よろしいクレイス、伝えておあげなさい」
「ありがとうございます、お嬢様」
主人へ一礼を返し、クレイスが仮面のような無表情でこちらへと近付いてきた。
近くで見ると彼は思っていたよりもずっと大柄だった。身長は少年よりも頭一つ高く、身体つきもがっしりとしており肩幅も広い。もし戦ったなら少年など一捻りにされてしまうだろう。
クレイスは表情を変えぬまま二人の前に立ち、詩でも読むかのように語り始める。
「タマキ……私の、元契約者よ」
「……!」
知り合いだろうとは思っていたが、そういう関係だったとは。クレイスの言葉に少年は少なからず衝撃を受けた。
かつての鎧に声を掛けられ、それまで貝のように口を閉ざしていたタマキが何かを言おうと口を開く。
「コウ……」
「その名で呼ぶな、タマキ。私はもうマルグレィテお嬢様のクレイス。過去の名は、捨てた」
だがクレイスは彼女の言葉を聞く事無く、すっぱりと切り捨てる。
「あ……す、すまない。つい……」
冷たくあしらわれ、しゅんとするタマキ。彼女になにか声を掛けてやりたいと思う少年だったが、言葉が見つからない。
「ふん……『道具として生まれし者』を失えば諦めるかと思ったが……革鎧と仮契約を結んで予選に参加するとは。なんとも与し易い若者を見つけたものだ。どうやって見つけた? 色仕掛けか?」
「ち、違うっ! この少年は……彼は……」
タマキがクレイスの問いかけに焦り、声を荒げる。けれど最後まで言葉を紡ぐ事は出来ず、語尾が小さくしぼむ。
「恥を知れ、タマキ。卑しい女子よ。お前のしている事、そしてこれからしようとしている事は、騎士にあるまじき下劣な行為だ」
「なにを……っ! う、裏切者がよくぞ言ったものだっ!! その言葉! クレイス、お前にそっくりそのまま返してやる!!」
タマキが長身の青年を見上げ必死に反論している。けれどその声は震え、力は無きに等しい。
「タマキ、最初に裏切ったのはどっちだ? 騎士を目指すと甘言を用い、されどその歩み牛歩の如く、好機に置いても我が身ばかりを庇い痛みを恐れて前に進まず、挙句……」
畳み掛けるクラウスの口撃を前にタマキは反撃もままならず、どんどん押し込まれて行く。そんな時……。
「うるせぇ!」
少年の怒声がクラウスの声を阻む。
「テメェは一言が長ぇんだよ!! 元契約者だかなんだが知らないが、もうアンタ達とタマキは関係無いんだろ? だったらほっとけよ! しつこいんだよ!」
強引に割り込んで来た少年にクラウスは軽く表情を強張らせ、それからまるで憐れむような視線と共に少年へと向き直り、語りかける。
「名も無き革鎧の少年よ、真っ直ぐな志、良い事だ。けれどそこな女……タマキの本性を知った時、お前は必ず幻滅する。彼女は……」
「そんなモンわかんねぇだろ!? アンタが決めるなよ!」
大声で怒鳴り返す少年に、クラウスの表情が憐憫から否定に変わり、そして……蔑みへ。
「今は見目麗しい容姿に謀られているが良い。いまに、わかる」
「俺がタマキの見た目にコロッとやられたみてぇに決め付けてんじゃねぇぞコラぁ!」
少年の声を最後まで聞く事なく、クラウスは踵を返し、二人の前から立ち去る。
「終わりましたか、クラウス?」
「はい、お嬢様」
そしてマルグレィテと合流すると、最後に何事か……小さな声で呟いて、控室を後にした。
「なんなんだよ、あいつら……言いたい放題だな、くそっ!」
壁を叩き、憤る少年。その後ろではタマキが元々小さな体をさらに小さく縮め、深く深く項垂れていた。