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空気のような彼女

作者: 片山でこ

空気のような彼女

片山でこ



   1



「――ほら、早く出てけって」


 ドアを押し開いて、正は言った。

 自分をにらむ彼の顔を、美香はじっと見つめた。しばらくそうしてから、スニーカーに足を突っ込んで、無言で部屋を出て行った。

 美香の背中が階段下に消える。それを見送ってから、正は「ふん」と鼻で言って、奥の部屋に消えた。


 ちょうどその時、インターホンが鳴った。苛立ったように何度も鳴らされ、重なった音がうるさく響く。

 憮然と戻ってきた正が、乱暴にドアを開けた。すると、そこには正以上に不機嫌な表情の美香がいた。


「バッグ」


 彼女はずいと手を突き出して、無愛想に言った。


「バッグがなんだよ?」

「バッグ忘れたから、持ってきて」


 その物言いに、正の口がよりきつく結ばれた。


「自分で取りに行ったらいいだろうが」

「こんなところ、上がりたくない」


 お前の顔も見たくないとばかりに、美香が顔を背ける。

 正は一の字に結んでいた口をへの字にすると、大きな足音を立てて、奥の部屋に入って行った。

 すぐさま右手に女物のバッグを掴んで戻ってくる。そして、それを美香に投げつけた。


「二度と来るな!」

「言われなくたって!」


 落ちたバッグを拾い上げると、美香は一瞥もせずに出て行った。その背中を追い払うように、正は強くドアを閉めた。



 もうそろそろ桜が咲こうかという季節。こうして、新階正と戸田美香の春は終わった。

 そもそもこうなったのは、玄関先であったいつものやりとりに原因があった。それは、破局より少し前のこと――



 立て続けに押されるインターホンの音が、部屋に響いた。

 それに急かされるように、カーディガンを羽織った寝間着姿の美香が奥の部屋から出てきた。

 廊下の明かりを点けて、ドアを開ける。すると、そこにもたれていたらしい正が、ずるりと中に入ってきた。


 短髪の頭は耳まで赤く、大きな体は骨がないようにぐにゃぐにゃになっている。コートやスーツは皺だらけで、ネクタイを緩めた首もとも、顔と同様タコのようだ。吐く息はアルコールそのもので、まさに典型的なよっぱらいである。

 美香に支えられて玄関にたどり着くと、正はどすんと腰を下ろした。

 美香は肩の汚れたそのコートを脱がすと、汚れを叩きながら、奥に引っ込んでいった。そして、彼が靴を脱ぐのに手間取っている間に、コップに水を汲んで戻ってきた。

 差し出されたコップを、正は自然に受け取って飲む。飲み終わり、適当に置かれたそれを美香が拾い上げ、靴箱の上に置いた。


 ようやく人心地ついた正が、気持ちよさげに息を吐く。

 すると、その息と同じ臭いがするネクタイを受け取りながら、美香がたしなめるように言った。


「またこんなになるまで飲んできて」

「しょうがないだろお。美香にゃあまだ分からんだろうが、社会人にゃあ付き合いってもんがあるんだよお」


 へらへらと、突き放すように正が言った。

 正と美香は恋人だが、年は七つも離れている。その出会いは一年前、正の参加している地元の少年団活動に、大学に入ったばかりの美香が参加するようになったことだった。

 先輩指導員として、正は公私ともども、美香の相談に乗ってあげるようになった。そうして接しているうちに、美香から告白を受けたのだった。

 彼女のいなかった正は、美香のはっきりとした性格も、強気なルックスも嫌いではなかったので、軽い気持ちで付き合うようになった。お互い一人暮らし同士だったこともあって、自然と広い正の家に居着くようになり、今の関係にいたるのだった。


「そりゃあそうかもしれないど……、でも、もっと考えなきゃ駄目だって」

「分かってるってえ。若いんだから飲まなきゃ駄目なんだよお」

「分かってないじゃない……」


 美香が呆れたようにため息をつく。

 それが癇に障ったらしく、正は彼女を軽くにらみ付けた。


「あのなあ……、多少の無茶は、メリットの方がでかいんだよ」

「多少多少って、いつもいつもじゃ過多になるって。この前の健康診断だって、色んな数値上がってたじゃない」

「多少太ってた方が健康にいいんだよ」


 鼻で笑って、正はシャツからはみ出した腹を叩いた。三十路前にしてみごとなビール腹が太鼓のように音を響かせて、ゼラチンのようにぶるぶる震えた。


「……多少じゃないじゃん」


 美香が先ほどより深いため息を落とす。

 すると、正が床を叩いて立ち上がった。そして、美香より頭一つ高くから、静かに威圧するように言った。


「俺の勝手だろう。なんでお前にそこまで言われなきゃならないんだよ」

「心配してるのよ、恋人として」

「はあ? 心配? 邪魔の間違いじゃないのか?」


 心ない言葉に、美香が目をつり上げた。呆れたようだった語気が強くなる。


「邪魔って……、そんな言い方ないんじゃないの?」

「あのなあ、美香。俺はなあ、社会人として精一杯やってんだよ。一人前になろうとしてんだよ。それを気楽な学生が、お袋みたいにぎゃーぎゃーと。今までは我慢してたけどなあ、はっきり言って、うっとうしいんだよ」

「うっとうしいって……、正くん。知らないよ?」

「何が?」

「もう、何もしてあげないから。料理も洗濯も、全部自分でやってよね」


 突き放すように言った美香を、正は鼻で笑った。


「勝手にやってるだけじゃん。誰も頼んでないんだよ」

「――」


 美香の目が大きく見開かれる。ぐっと右手を振り上げると、正のネクタイをその場に叩きつけた。


「出て行く」

「おう、出て行け」


 にらみ合って、正はドアを開けた。


「ほら、早く出てけって」



 ――後は、先の通りである。


 正は怒りさめやらぬといった様子で奥の部屋に戻ると、通販の梱包用段ボールを引っ張り出し、美香の荷物を放り込み始めた。

 コートハンガーにかかったダウンジャケット、座卓テーブルにある鏡や化粧品、美香用に買った引き出し式の収納ボックスから服を取り出し、本棚からは教科書を引っ張り出す。それらを半ば無理矢理押し込むと、ガムテープで何重にも封をした。

 そばにあった伝票を引っ掴んで、住所を殴り書いて貼り付ける。その伝票には透かし文字で『着払』と入っている。


 作業が終わり、正は額に浮いた汗を満足げに拭いた。すると、その目に日付の変わってからずいぶんと経つ時計が飛び込んできた。


「やば……」


 家を出る時間まで、もう四時間もない。正は大慌てでスウェットに着替えると、小走りで洗面所に向かった。

 自分の緑の歯ブラシを引っ掴む。そうした時、隣に赤の歯ブラシが残っているのに気がついた。


「……、入れ忘れたか」


 赤い歯ブラシをもう片方の手に取って、部屋を振り返る。しばらくそうしてから、もう一度歯ブラシに目を落とし、


「ふん」


 と、何かを振り切るように、足下のゴミ箱に投げ捨てた。



   2



「ん、んんん……」


 朝、ケータイの目覚ましの電子音で、正は目を覚ました。

 寝足りないせいで、とにかく体が重い。体からも酔いが抜けきっておらず、目覚ましの音が頭の中にキンキンと響いた。なのに、左腕だけはやけに軽かった。

 正は少し考えて、


 「ああ、重いもんがなくなったおかげか」


 自分の隣を見て、小さく笑った。

 目覚ましのスヌーズ機能が、早く起きろと急かす。正はどうにかベッドから起き上がると、いまだにしっかりとしない足取りで、洗面所に向かった。

 冷水で顔を洗って、目を覚ます。次に歯を磨き、いつものようにキッチンに向かった。そして、冷蔵庫を開けようとしたところで、ふと正は手を止めた。


「もう、別に朝飯食べる必要ないんだよな」


 確認するように言う。

 正は、もともと朝食は食べない方だった。それが、美香が同居するようになって、血糖値がどうの、集中力がどうの言われ、付き合って食べるようになったのだ。

 そのことを思いだし、鼻で笑うと、正は冷蔵庫から手を引いた。そして洗面台に戻ると、支度の続きを始めた。

 ひげをそり、寝癖で踏み荒らした芝生のようになっている髪を整える。再び部屋に戻って、アイロンのかけられたワイシャツに袖を通すと、コートハンガーに掛けられていたスーツとコートを羽織る。それから鞄を肩にかけて、昨日まとめた段ボールを抱えた。


「行ってきます」


 玄関から声をかけて、誰もいないことに気づく。そうして正が不機嫌な顔をしたのは、いつもより三十分も早くのことだった。



 通勤者で溢れかえる朝の市内は、分単位でそのよそおいを変える。いつもより三十分も変わるとなると、正が考えている以上の変化があった。

 ビルの林の間から太陽が覗かない大通りには、外灯がまだ点いている。正は白い息を吐きながら、途中、荷物を出しにコンビニに寄って、一度も肩をぶつけることなく駅までたどり着いた。

 人が少ない駅のホームは、いつもより呼吸しやすかった。背中を押されることなく電車に乗り込むと、いくつか空いている席から選んで座る。座って通勤するのは、何ヶ月ぶりのことだろうと、正は思った。



 正の勤めているのは、地元ではそこそこ名の通った食品会社だ。彼はそこで、営業の仕事をしている。


「おはようございます」


 挨拶しながらオフィスに入ると、まだ誰も来ていなかった。

 正は自分の机に荷物を置き、パソコンの電源を入れた。少し旧型なので、立ち上がるまでに時間がかかる。その間にコーヒーを作ろうと、隣接した給湯室に入っていった。


 湯気の立つカップ片手に正が戻ってくると、向かいの机に、鮭を捕る熊のような風貌の男がいた。正が指導を任されている、荒巻耕太である。

 耕太は去年採用の新入社員だ。入社当初、嫌がるペットに無理に服を着せたようだったスーツ姿が、最近になってようやく馴染んできた。


「あ、先輩。おはようございます」

「おお、おはよう」


 耕太は、平均以上の背丈を持つ正よりもさらに大きい。そんな体を折り曲げて、彼は深く頭を下げた。根っからの体育会系の耕太は、頭の回転はからっきしだが、こういったところはきちんとしている。

 それに手を上げて返すと、正は自分の席に戻った。すると、耕太が親しげに話しかけてくる。


「先輩、今日は早いですね」

「おお、そうだろ」


 コーヒーをすすっていた正が、機嫌良さそうに答えた。


「何かいいことあったんですか?」

「ちょっと、要らない荷物を整理してな」

「ああ、流行りの断捨離ってやつですか?」


 いいですね、と耕太が笑う。少し考えてから、正は苦笑いを浮かべた。


「……まあ、似たようなもんだ。それよりも、耕太」


 耕太を自分のパソコンが見える位置に呼びつける。それから、二人は今日回る営業先のチェックを始めた。



   3



 夜、帰った正はドア前に立つと、その手をノブに伸ばした。


「……あ」


 どちらにも回らないノブに、鍵がかかっているのを確認する。正はバッグを漁って鍵を取り出すと、ドアを開けた。


「おお……」


 中は、洞窟のように暗かった。正は少し驚きながら、廊下の明かりを手探りで点けて、中に入っていく。


「うわ……」


 同じように部屋の明かりを点けた途端、正は顔をしかめた。

 部屋の中は、足の踏み場がないほど汚れていた。昨日、美香の荷物を取り出すために、色々と引っ張り出したためだ。引き出しは出しっぱなし、本は置きっぱなし、上着などはそこらにかけっぱなし。朝はそこまで気にならなかったが、改めて見るとこれはひどい、と正は思った。

 仮にこの部屋を『誰か』に見られると、彼女は彼をだらしない男だと思うだろう。


「――よし」


 何かに立ち向かうように、正は片付けを始めた。

 まずは、収納場所の決まっているものから手をつける。それで空いたスペースで服を畳むと、次々とタンスに収納していく。それから美香のために置いてあった収納ボックスや本棚を押し入れに片付けて、自分の使いやすいようにレイアウトを変えると、最後に丁寧に掃除機をかけた。

 すっかり物の少なくなった部屋を見回して、正は感嘆の声をあげた。


「この部屋って……、こんな広かったのか」 


 機嫌を良くした正は、そのまま夕食を作りにかかった。時間が時間なので、さっと作れるものだ。

 パスタをゆで、その間に、レタスとスライスした玉葱を水にさらしておく。パスタがゆであがると、冷蔵庫にあった菜の花とツナ、それととうがらしでペペロンチーノ風に仕上げる。そこで、レタスと玉葱を水切りして、彩り鮮やかに盛りつけると、慣れた手つきでテーブルに並べた。


「うん、美味い!」


 一口食べて、正は表情をほころばせた。

 パスタはアルデンテ。塩加減もちょうどよく、オリーブオイルで風味付けした菜の花とツナに、鷹の爪の辛みが絶妙のバランスで、口の中で弾ける。水切りしたばかりのサラダは歯ごたえがよく、ドレッシングをつけずにどんどん口に突っ込んでいく。


「やっぱり、料理はこうじゃないと駄目だよ。臨機応変なんだよ、臨機応変。何でもレシピ通りに作りゃいいってもんじゃないんだよな。そういったところを、誰かさんは分からないんだよ。冷めるなら冷めるで、少し柔らかめに茹でとけばいいし、湯切りした後に少しオリーブオイルを絡ませておいたらパスタ同士がくっつかなくて済む。そういった柔軟さっていうか、気配りがないと駄目なんだよ」


 当てつけるように言って、得意げに口に放り込む。それをひたすら繰り返して、正はものすごい勢いで食事を進めていく。


「だいたい、掃除だって綺麗にすりゃいいってもんじゃないんだよ。いくら綺麗でも、取り出しにくけりゃ駄目だっての。機能性が大事なんだよな、機能性が。洗濯もそう。なんでも綺麗にしとけばいいってもんじゃないんだよ。洗いすぎたら型崩れするっての。冬ならほとんど汗なんてかかないし、だいたい加齢臭なんてするかって言うんだよ。やれ臭いだの汚いだの、潔癖症かって」


 話題を変え、さらに繰り返す。その様子は、まるでしゃべるために口と手を動かしているようにも見える。

 事実そうだったようで、話題がなくなってくると、見る間に食事のスピードは落ちていった。


「だいたい……、まあ、あれだよ、あれ。食費しか出してないくせにえらそうにしやがって。ほんと、何様のつもりだよなあ」


 最後に大きく吐き出すように言うと、食事は完全に止まってしまった。

 しばらくの間、パスタを巻き付けたり解いたりと、暇つぶしのように手を動かす。それから、ふと思い出したようにテレビのリモコンを取ると、電源を入れた。

 少しホコリを被った画面に映像が映る。様々な体型をしたお笑い芸人たちが体操服を着て、小学校のグラウンドで運動会をしている。


「あはは! 馬鹿だこいつら!」


 おっさんおばさんの珍プレー好プレー。それを見て笑い声をあげながら、正は食事を再開した。

 ふと、アヒルみたいな風貌の芸人がキレ始めた。「おう、やってやろうじゃんか!」と腕まくりしながら、相手チームに向かっていく。すると、威勢の良さのわりにあっさりと囲まれて押しつぶされた。さらに、なぜか味方までもが加わって、彼を中心に古い漫画でよく見かけるような袋だたきの状態になった。

 少しして、「おらあああああ!」と叫び声をあげ、アヒル風芸人が飛び出てきた。目には涙、鼻には鼻水。そして体は全裸である。


「ぶわはははははははは! おい、見たか今の!」


 ツボに入った正は、口の中のものを吹き出した。そして、同意を求めるように左を振り向いた。


「あ……」


 今は誰もいないそこは、昨日まで美香が座っていた場所だ。

 正は手を止めると、静かにフォークを置いた。それから、折りたたみタイプのケータイを手に取った。


「あ」


 待ち受けには、メールを受信していることを示すアイコンが表示されていた。

 しばらくそれをじっと見つめてから、正は何気ない素振りでアイコンを選択して、決定ボタンを押し込んだ。


『From:荒巻 耕太

  Sub:明日

   本文:土曜ですし、飲みに行きませんか?』


 キーを左右に押し込む。右で戻せば昨日の、左で進めれば三ヶ月以上前のメール内容が表示される。今日のものは、他にない。

 正は耕太からのメールに表示を戻すと、迷いのないキータッチで返信を打った。


『 To:荒巻 耕太

 Sub:了解

  本文:オールするぞ!』


 送信を完了した内容が画面に表示される。正はクリアボタンを押し、画面を待ち受けに戻した。そこにはもう、新しいアイコンは表示されていない。


「知るかよ、あんな奴」


 言い訳するように言うと、正は音を立ててケータイを折りたたんだ。

 その時、テレビからどっと笑い声がした。画面には、豚みたいな芸人の男女が、周りに背中を押されてキスをさせられている。

 正は乱暴にリモコンの電源ボタンを押して、テレビを消した。


「……、風呂でも入るか」


 気の抜けたように呟くと、正は部屋から出て行った。

 テーブルの上には、冷め切ったパスタと乾ききったサラダが、半分以上残っている。



   4



「――かんぱあい!」


 威勢のいいかけ声で中ジョッキをぶつけ合うと、耕太は一気に中のビールを飲み干した。


「――ぷはあ!」


 至福、といった表情で息を吐く。そうしてから、彼は口周りに残ったビールひげをぐいと拭うと、半分ほども減っていないグラスを持った正を不思議そうに見た。


「あれ、先輩飲まないんですか?」

「え……、あ、ああ。何言ってんだよ、飲むに決まってるだろ!」


 耕太に促される形で、正は大げさにグラスをあおった。のどに直接流し込み、一口で半分も減らす。

 しかし、いつもなら爽快に感じるそののどごしが、今日は砂をかじっているようにざらついて感じられて、正はグラスから口を離した。


「先輩?」


 二杯目を頼もうと店員を呼んでいた耕太が、心配そうに眉を寄せる。それは、彼が取引先との感触がよくなかった時によく見せる表情だ。

 そんな情けない顔を向けられ、正はグラスを机に叩きつけた。


「おい耕太」

「は、はい。何ですか、先輩?」


 耕太が叱られた犬みたいに体を縮める。正はそんな彼に向かって身を乗り出すと、その勢いに反して言葉を探すように言った。


「……お前、たしか、一緒に住んでる彼女いたよな」

「は、はい。友加里のことですか?」

「ああ、そうだ。それで、だ。その友加里ちゃんに、お前が仕事のつき合いで夜遅くまで頑張って、へとへとになって帰って、文句を言われたりするとする。あ、たとえばの話だぞ」

「は、はい」

「それで、だ。そんな時、お前どうする?」


 先ほどの耕太と同じ表情をして、正が尋ねる。その初めて見る顔に、耕太はきょとんとして、


「どうするもこうするも……、つき合いだから理解してくれってなるんじゃないですか?」

「謝るか?」

「謝らないです」

「――だよなあ!」


 正は意を得たりというように、ぱっと顔をほころばした。


「そりゃそうですよ。謝ったら終わりです。何でも言うこと聞いてたら、何も出来なくなりますよ」


 強気な耕太の言葉に、もっともだと正は頷く。


「だいたい、こっちが頑張ってるの知ってるんだから、少しくらい優しくしろって話だよな」

「仕事で疲れてるのに、家でまで疲れさせるなって思いますよね」

「そうだよ、家でくらいゆっくりさせろってんだよな。いっつも堅苦しいスーツ着て歩き回ってんだから、休むときくらいジャージとかパンツ一丁でくつろぎたいってのが人ってもんだろうよ」

「屁こいたら嫌な顔するし。自分ちで我慢してたら、どこで出せって話ですよ」

「健康に悪いってのな。それにいびきがうるさいって、あっちがうるさいし」

「無駄に声大きいんですよね。うるさいなら耳栓してろって話ですよ」

「だよなあ。他にも腹毛がどうのうるさいし」

「買い物無駄に長いですし」

「化粧も無駄に長いし」

「気まぐれですし」


 そこまで一気に言って、二人の男は「はあ」とそろってため息をついた。それから顔を見合わせて、


「「まったく、女ってやつは!」」


 そこで、店員が注文を取りにやってきた。美香と同年代の女の子である。


「それで、ご注文は?」


 笑顔で言うが、その目は笑っていない。

 少し慌てた様子の耕太を前に、正はぐいと残りを飲み干すと、だんとグラスを机に叩きつけた。それから、驚いた表情の彼女に向けて挑発的な笑顔を浮かべると、ピースサインを突き出して、


「大ジョッキ二つ!」

「ふ、大二つですね……。承りました」


 表情を引きつらせて、女店員が逃げていく。それを機嫌良さそうに見送ってから、正は勢いよく耕太を振り向いた。


「おい、耕太。今日は飲むぞ!」

「はい。どこまでもつき合いますよ!」



 日曜の明け方。正のマンションの前に、一台のタクシーが止まった。

 ドアが自動で開くと、もたれ掛かっていた正が滑り落ちるように出てくる。

 正は中に乗っている耕太を振り返ると、タクシーの屋根を掴んで、ブランコのようにして中に顔を突っ込んだ。


「いいかあ、耕太あ。おむぁえ、友加里たんにぃ、がつぅんと言うんらぞお!」

「へえい! 先輩むぅお、美香すぁんにぃ、がつぅうんって言わなきゃあ、らめれすよお!」

「おお! 俺らはあ……、頑張ってるんどぅあ!」

「そうらそうらあ! 今日こそお、言ってやるんらあ!」

「「俺らあ、らあんも悪くなあい!」」


 れろれろと合い言葉のように叫んで、二人は拳を突き上げた。

 その拍子に、よろけた正がタクシーから離れた。

 車中から何度もくりかえされた二人のやりとりを迷惑そうに見ていた運転手は、それを見計らってドアを閉めると、すかさず車を走らせた。


「てことでえ……、うん?」


 タクシーが出たことに気づかなかった正は、再び前を向いて首をかしげた。

 しかし、少しすると何を不思議がってたのかは頭の中から消え、正はいつも通りの顔つきで、階段を危なっかしく上り始めた。

 二階に着くと、まっすぐ歩けない体を壁に押しつけながら、どうにか自分の部屋の前にまでたどり着いた。

 そうしてドアにもたれかかると、インターホンのボタンを連打する。


「ぅおおい、帰ったろおお!」


 何度押しても出てこない相手を、ドア越しに呼びかける。しかし、中から返ってくるのは自分が鳴らす呼び鈴の音ばかりだ。


「おおい、いらいのかあ?」


 反応がないことに、正は少しふてくされた様子で呼びかけた。声のほとんどはドアに跳ね返され、自分の耳に入る。

 途端、正は真顔に戻った。


「ああ、そうかあ。いないんだったあ……」


 言い聞かせるように呟くと、また表情が溶けた。そして、こらえきれないといった様子で、口から笑い声が溢れてきた。


「はははは、そうだあ、いないんだったあ。追い出してやったんだよ、そうだよ! これで文句言われねえ! やったあ、最高だあ! ひゃほおおおお!」


 そうしてひとしきり笑うと、今度は疲れたようにその場に座り込み、正は大きくため息をついた。

 肩の汚れがその目に入る。先ほど、壁にもたれ掛かってきたせいだ。その汚れを、ぱんぱんと叩き落とした。いつもは美香がやってくれていたことだ。

 少し白っぽくなった手のひら見つめる。すると、大量の酒で満たされた胸の中が、ひどく虚しいものに感じられた。


「なんだってんだよ……、くそ!」


 わき上がる苛立ちに、正はがんとドアを叩いた。



   5



「……」


 無言でドアを開けて、正は帰ってきた。

 靴を脱ぎ捨てて、明かりを点けずに廊下を進む。部屋に入ると、足下にあるものを踏みつけながら、蛍光灯のスイッチを入れた。


 部屋はひどく汚れていた。公私問わず、服は床に脱ぎ散らかされて、タンスの引き出しも開きっぱなしになっている。キッチンのシンクには洗われていない鍋や皿、生ゴミまでがそのまま残っており、コンロ周りも油だらけで臭いがすごい。机の上は、食べ残しているコンビニ弁当やスナック菓子に占拠されていて、夏場ならハエが飛び回っていそうな有様だ。

 部屋同様に、正自身も汚らしかった。スーツやシャツには皺が目立ち、羽織ったコートは埃が降りて白っぽい。ひげや寝癖は整えられているものの、頬はこけ、目の周りにはくまがあり、明らかな陰の空気を醸し出している。

 これでは当然仕事も上手くいくはずがなく、今日などは耕太にフォローされる有様だった。


 正はコートをその場に脱ぎ捨てると、キッチン前のテーブルに座った。

 下に落ちるのを構わずにゴミを寄せて、出来たスペースで、さっき買ってきたカツ弁当を広げる。

 ふたを取ると、豚特有の甘い匂いが広がった。こだわりの国産豚で作られた、コンビニ弁当とは思えない一品で、正は嫌なことがあった時には決まってこれを食べることにしていた。

 一切れ食べる。衣の軽やかな口当たりがあって、中から濃厚な甘い肉汁が溢れ出す。そこに添えつけのキャベツが微かな苦みを加え、絶妙な味のバランスを生み出した。

 何度も食べたこだわりの味。その味を、舌はいつも通り伝えてくるのに、今の正には美味いと感じられなかった。


「……」


 正は噛むのを止めて、左隣をじっと見つめた。そこには、今はゴミ以外に何もない。

 口の中のカツをどうにか飲み込む。それだけで箸を置くと、正は苛立たしげに席を立った。



 コンビニに駆け込んだ正は、買い物かごを引っ掴むと、目についた食べ物を片っ端から中に放り込み始めた。

 弁当、おにぎり、サンドイッチ、サラダ、惣菜、パン、菓子、サプリメントにいたるまで。だけど、そのどれも食べられる気がしなかった。

 買い物かごがいっぱいになったところで、足音を立ててレジに向かう。それを見た店員が、上機嫌にレジに立った。


 レジに向かう途中、ふと、正の足が止まった。

 足を止めたのは、食べ物なんてない生活用品コーナーだ。その一点を、正はじっと見つめている。

 その視線の先には、美香が使っていたものと同じ赤の歯ブラシがあった。

 正の手から買い物かごが落ちる。勢いよく落ちたもので商品が飛び跳ねて、その多くが売り物にならなくなった。

 しかし、正はそれを気にする素振りもなく、何もなくなった両手で歯ブラシを掴んだ。そして、それだけを胸に抱えると、再び目の前のレジに向かった。


「あの……」


 店長らしき中年男性が、文句を言いたそうな目で正を見る。

 そんな彼の前に一万円札を叩きつけると、正は時間が惜しいとばかりにコンビニを出た。



 大通りに立ち並ぶ店にはまだ明かりがあり、人通りも多い。そんな町中を、正は歯ブラシを胸に駆け抜ける。

 当然、奇妙な目で見て笑われ、肩をぶつけて怒鳴られる。運動不足の体には、全力疾走が足に来る。それでも、一度も足を止めることなく。正はぶつかりながら部屋のドアを開けた。

 もどかしげに靴を脱ぎ捨て、明かりがつけっぱなしの部屋の中を、ゴミを蹴飛ばしながら洗面所に向かう。


 たどり着いた先の鏡には、汗まみれでひどい形相の自分が映っている。その前にある歯ブラシ立てでは、緑の歯ブラシだけが寂しげに揺れていた。

 買ってきた歯ブラシを取り出そうとする。しかし、慌てているためか上手くいかない。最後は破り捨てるように歯ブラシを取り出すと、自分の歯ブラシの隣に並べた。

 赤と緑のブラシヘッドが横に振れ、軽くキスをする。少し前までは当たり前だった、その光景。それを見て、正の目には涙がにじんだ。


 振り返って、正は部屋を見回した。

 ここは、社会人になってからずっと暮らしてきた正の部屋だ。家具も電化製品もそのレイアウトも、全部自分が選んだものだ。……なのに、目に映るその風景がひどく息苦いと、正は感じた。

 正は部屋に戻ると、片付けておいた美香のものを引っ張り出し始めた。一心不乱にゴミをどけ、自分にとって少し使いづらいレイアウトに家具を移動させる。

 綺麗なだけで、余計な物がありすぎる部屋の中。美香がいた頃は当たり前だったその風景。


「……なっさけねえなあ、俺」


 止まらない涙を拭いながら、正は自嘲するように言った。

 ようやく気づいたのだ。美香という存在が、いつのまにか自分にとってあたりまえになっていたことに。いつのまにか自分の一部になっていたことに。軽い気持ちで始まって、いなくなっても構わないとさえ思っていたのに。今はもう、美香がいないとどうやって暮らしていいのかすら分からない。


 正はズボンからケータイを取り出した。そして、にじむ視界の中で、電話帳にあるフォルダの一つから、間違いようのない名前を選択した。

 もどかしいキータッチで文章を作り、ああでもないこうでもないと何度も書き直す。


 出社時間までそれ繰り返して……残ったのは結局、真っ先に打った二つの言葉だった。


『 To:戸田 美香』

 Sub:無題

  本文:俺が悪かった。

     帰ってきて欲しい。』



   6



 夜、ようやく仕事を終えた正はドア前に立つと、バッグの前ポケットから、迷いなく鍵を取り出した。

 鍵口に差し込み、回す。すると、最近手が覚え直したロックの外れる感覚はなかった。

 正は弾かれたように顔を上げた。そして、慎重にドアノブを回した。ドアは、なんなく開いた。

 玄関に明かりはなかった。だけど、そこには見慣れた小さなスニーカーが綺麗にそろえて置かれていて、洞窟のような廊下の向こうには、出口のような明かりがあった。

 正はその場に靴を脱ぎ捨てると、廊下を走って奥に向かった。


「あ……」


 部屋に入ると、掃除をしていた美香が正に気づいた。振り返ったその表情は、どこか気まずそうだ。

 そんな彼女に向かって、正はまだ埃の残る床の上を駆けだした。そして、彼女の前に立つと、その小さな体を両手で強く抱きしめた。


「え……、え?」


 突然のことに、驚いた美香が体を強ばらせる。照れからか、腕を突き出してもがこうとする。だけど、正の太い腕はまるで動かなかった。

 やがて、受け入れるように体から力を抜くと、彼女自身も正の背中に腕を回した。

 広い胸の中で、語りかけるように言う。


「正くん、痛いわ」

「ああ、悪い」

「それに、臭いし」

「ああ、悪い」

「朝、食べないと駄目でしょ」

「ああ、悪い」

「部屋だって、掃除しなきゃ駄目じゃない」

「ああ、悪い」


 そこで少し間を置いて、


「……私も、ごめんね」


 と、美香は言った。

 正は何も言わずに、そっと美香の体を離した。それから彼女と向き合って、柔らかく笑った。


「おかえり」


 美香の目が驚きに大きくなる。じっと正の顔を見つめて、それから目を細めて、彼女も笑った。


「ただいま」

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

短編小説二作目です。評価、感想よろしくお願いいたします。

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