「お前の淹れる茶は不要だ」と聖女付き侍女を解雇されましたが、三年分の記帳簿はわたくしの私物でございますので、どうぞそのまま神殿を干上がらせてくださいませ ~辺境の陽だまり喫茶店、開店いたします~
「お前の淹れる茶は不要だ」
朝の四時半。まだ灯りの要る調茶室で、わたくしは湯の温度を計っている最中でした。
振り返れば、神官長オズワルド・ヴァルネ様。金糸の祭服に、大ぶりの印章指輪。
「……朝の四時半でございますよ、神官長様。三年二ヶ月で、この時間に厨へいらしたのは初めてですわね」
「聖女様には東方産の高級茶葉をご用意した。もう、茶汲み女の手間は要らぬ」
押し付けられたのは、一枚の紙と小さな革袋。
解雇証書と、銀貨五枚。
「退職金だ。ありがたく思え」
(銀貨五枚。三年二ヶ月、毎朝四時起き。時給換算して……いえ、やめましょう。胃が痛くなりますわ)
前世の記憶が、いつもこうして勝手に口を挟みます。立花理世、二十八歳、カフェ店長。繁忙期の厨房で倒れて、そのまま目を覚まさなかった女。
今のわたくしは、リゼット・アーレンド。十九歳。西方王国中央神殿、聖女付き調茶侍女——だった者。
「リゼット」
扉の陰から、聖女ミレーユ様が顔を出されました。淡い金髪、薄紫の瞳。微笑むことしか知らないような、十七歳。
「あの、ありがとう。でも、もう大丈夫みたい」
「……さようでございますか」
ああ、と思いました。
怒りではなく、ただ、ああ、と。
(この方は三年間、毎朝の茶がどこから来ていたのか、一度も考えたことがないのですわね)
北の鉱水は、この方の体質に致命的に合いません。だから月の前半は東の井戸。雨の翌日は南の湧水。湯は八十二度、お加減の悪い朝は八十度。乾燥薬草は七種、比率は毎朝書き換え。
一〇九八日分。
わたくしは前掛けを外さず、深く礼をいたしました。
「かしこまりました」
そして、顔を上げて一点だけ。
「——ただ一点。記帳簿はわたくしの私物でございますので、持ち帰らせていただきますわ」
オズワルド様は鼻で笑いました。
「は。茶の落書き帳など好きにしろ」
「確かに、聞き届けられましたわ。証人はそちらのお二人。日付は先月十二日」
(棚卸しもしたことのない方が、資産の価値を判定なさらない方がよろしくてよ)
わたくしは革表紙の記帳簿を胸に抱え、竈の火を落としました。
最後に湯を一口。
【味覚鑑定】——鉱水濃度、やや高。今日の聖女様には、向きません。
でも、もう、わたくしが淹れる茶ではございませんので。
「失礼いたします」
裏門を出たとき、空が白みはじめていました。
泣くかと思いましたが、出たのは欠伸でした。
(そういえば。三年二ヶ月ぶりの、朝寝ができますわね)
◇
金貨三枚。
東の街道、三つの峠が交わる分岐点。南向きの空き家。屋根は傾き、窓枠は歪み、床には十年分の埃。
けれど、朝から夕まで、陽が差し込みます。
「……悪くありませんわ」
(立地は満点。角地、視認性良好、通行量は峠三本分。内装はゼロ点。まあ、内装は自分で直せますし)
証書を握って外に出たところで、影が落ちました。
大きい。
身長は六尺を軽く超え、右腕全体が黒曜石のような鱗に覆われた男。首筋にも硬い鱗が散っています。低く掠れた声。
「……そこは空き家だ」
「今日から、わたくしの家ですわ」
男は少し黙って、わたくしの手元を見ました。前掛け、革表紙の記帳簿、銀貨と金貨の減った財布。
「……君は何ができる?」
問いは短く、値踏みでも嘲りでもなく、ただの確認でした。
わたくしは背筋を伸ばして答えました。
「茶を淹れられます」
沈黙が、三つ数えるほど。
「……ならやってみろ」
そう言って、男は去っていきました。
(それだけのことでしたのに。なぜか膝の裏に、力が戻りましたわ)
三日かけて床を磨き、五日かけてカウンターを作り、竈を直し、窓を拭きました。前世の知識を総動員して、カウンター八席。客の手元に陽が当たる高さ。
看板を吊るします。
『陽だまり亭』
開店初日。
客、ゼロ。
(……まあ、そうですわよね。宣伝ゼロ、開業初日、街道の外れ。前世でもそうでした)
二日目。雨。
扉の鈴が、鳴りました。
◇
「……雨宿りだ」
入ってきたのは、あの竜人の男でした。頭を下げねば鴨居に当たる。鱗の右腕から雨が滴って、床に黒い点をつくります。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。そちら、よく陽が当たりますわ」
「雨だ」
「本日は特別に、雨も当たりませんの」
「……ふん。何を出す」
「ご注文を承りますわ」
「……何でもいい。どうせ味はしない」
その一言で、わたくしは手を止めました。
「——失礼ですが、お口に一つ、含んでいただけますか。ただの白湯でございます」
彼は訝しげに一口。わたくしも同じ湯を一口。
【味覚鑑定】——発動条件、自分の舌で一口含むこと。成分、鮮度、産地、相性が数値で読める。遠隔も戦闘応用も一切できない、地味なスキル。
ですが、相手の舌の反応を「読む」材料には、なります。
「十年前、毒煙を」
「なぜ知っている」
「口の端の筋の動きが、味を探る方のそれではございませんので。ですが——湯気を吸い込んだ瞬間、目を伏せられましたわね」
沈黙。
「鼻は、生きておいでですわね」
「…………だから何だ」
「ですから、香りで成立する一杯をお出しいたします。少々お待ちくださいませ」
竈に火を入れ、麦を燻します。焦げる一歩手前。立ち上る煙が甘く変わるところで止めて、湯を落とし、蜂蜜を——砂糖では出せない厚みの分だけ。
店中に、焼けた穀物と蜜の匂いが満ちました。
「どうぞ。少し冷ましてございます」
(猫舌でいらっしゃるでしょう、その持ち方)
元・西方王国竜騎兵団将軍、ガーヴィス・ドラクト様は、器を持ち上げ、まず深く息を吸いました。
そして、一口。
「……っ」
器が卓に戻る音が、しませんでした。
見ると、彼は器を握ったまま、鱗の手で顔を覆っていました。大きな背中が、ひどく静かに震えていました。
わたくしは何も申しません。スコーンを焼きました。バターが溶けて、店が甘い匂いになるまで。
「……もう一つ」
「はい?」
「……いや」
空の皿を見つめる竜人の耳の先が、赤くなっておりました。
翌朝。裏手で斧の音がしました。
頼んでもいないのに、薪が、きれいに積まれておりました。
◇
「本当にすみません……!」
床に膝をついて謝っているのは、亜麻色の癖毛の青年です。足元には砂糖壺の破片。本日、二つ目。
街道脇で倒れていたところを配達人の少女に拾われ、うちに運び込まれ、そのまま皿洗いをしております。名は、イーノ。記憶はございません。
「イーノ様。三日で砂糖壺を二つは、記録ですわ」
「弁償を……あ、でも、僕、お金が……記憶も、名前くらいしか……」
「働いて返していただきますので、どうぞお立ちくださいませ。膝まで割られては困りますわ」
所作に育ちの良さが滲むのに、本人だけが気づいていない。不思議な方です。
その彼が、わたくしが仕入れ帳を広げた瞬間、横から覗き込みました。
「……あ、その月、合いませんよ。蜂蜜の単価が先月と違うのに総額が同じです。差額、銅貨十七枚」
「……暗算なさいましたの?」
「え? あ、すみません、つい」
灰青の瞳の色が、その一瞬だけ変わっておりました。
(記憶はなくても、数字だけは身体が覚えている。……前世でもおりました。店長より早くレジを締める学生バイト)
扉の鈴が、けたたましく鳴りました。
「配達ーっ! ……と、あと、」
そばかすの散った小柄な少女。背負い鞄が身体より大きい。街道配達人のメロ・ハント、十四歳。
「あと?」
「……あと、雨で、濡れた」
「おかえりなさい、メロ」
少女の動きが、止まりました。
「………………えっ」
「はい、両手で。熱いですからね」
湯気の立つ器を持たせてやると、彼女はそれを両手で抱えたまま、声を上げて泣き出しました。
「……っ、う、うぁぁあ……」
「な、なんで泣くんですか!? え、僕のせい!? あ、皿が、皿がっ」
「別に! ……別に、ついでだし。ついでだから」
それ以来、メロは日に一度は必ず鈴を鳴らします。手紙と、噂を持って。
「……あ。そうだ、噂。聖女様の浄化、三度失敗したって」
わたくしの手が、ほんの一拍、止まりました。
「……三度」
「茶葉はもっといいのにしたのに、効かないって。神殿の人、みんな困ってるって」
(——でしょうね)
バターが焼ける匂いの中で、わたくしは静かに湯温を計りました。
八十二度。
「……誰のためでもない、この店の、今日の湯ですわ」
◇
その数日後、雨宿りに寄った丸顔の商人が、出した一杯を飲んで真顔になりました。
街道商人ギルド辺境支部長、ハウル・ベンジェ様。
「……あんた、西の並品を東方産と偽って売る商会を知ってるか」
「舌でおわかりに?」
「商売柄な。あんたこそ、どこでその舌を鍛えた」
「神殿で三年、毎朝四時に」
ハウル様は、少しだけ黙りました。
「……現物、持ってこようか。神殿に納めてる分だ」
「——ぜひ」
◇
「記帳簿を差し出せ。神殿の財産だ!」
四十一日目の昼下がり、扉の鈴が乱暴に鳴り、金糸の祭服が陽だまり亭に押し入ってまいりました。
オズワルド・ヴァルネ神官長。背後に部下が二人。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
「茶など要らん! あの落書き帳を出せと言っている!」
「かしこまりました。では、順番にまいりましょう」
わたくしは前掛けで手を拭き、カウンターの下から一枚の紙を出して、卓に置きました。
「——まず一点目。所有権のお話ですわ」
解雇証書。
「第四条。『私物の持ち出しを認める』。神官長様ご自身の署名がございます。日付は先月十二日。証人は——」
顔を上げます。
「そちらのお二人ですわね」
部下二人の顔から、さっと色が引きました。
「そ、それは茶の落書き帳のことで……!」
「ええ。『茶の落書き帳など好きにしろ』と仰いました。わたくし、一言一句覚えておりますの。記帳癖がございますので」
カウンターの隅で、ガーヴィス様が薪を置きました。
それだけで、部下二人が半歩下がります。
「な……っ、下がるな、お前たち!」
(薪を置いただけですわよ、あの方。剣に手もかけておりません。ただ、そこにいらっしゃるだけ)
「二点目。数字でございます」
わたくしは記帳簿を開きました。
「聖女様の浄化成功率。わたくしの在籍中、九十四パーセント。退職後の四十一日間で、三十八パーセント」
「そ、それは聖女様のご体調が——」
「茶葉の等級は、上がっておりますのよね? 高級な東方産に」
沈黙。
「——原因は、茶葉ではございませんでしたのね」
わたくしは頁をめくりました。
「聖女様は北の鉱水と致命的に相性が悪い。だから日ごとに井戸を変え、湯温を二度刻みで調整し、薬草七種の比率を毎朝書き換えていた。一〇九八日分。それが、この『落書き帳』でございます」
「返せ! それさえあれば——」
「三点目にまいりますわ」
わたくしは、小さな紙包みを卓に置きました。
「……何だ、その紙包みは」
「先日、商人ギルドのハウル様が届けてくださいました。神殿が『東方産』として購入した茶葉の、現物でございます」
一つまみ、口に含みます。
【味覚鑑定】——産地、西方内陸。収穫、三番摘み。等級、並。市場価格、一斤あたり銀貨二枚。
「神殿の帳簿上の計上額は、月に金貨四十枚。ですがこれは西の並品。実際の仕入れなら、月に金貨六枚が上限ですわ」
カタリ、とオズワルド様の指輪が卓に当たりました。
「差額は三年で、金貨百二十枚。——どちらのお財布に入りましたの?」
「で、出鱈目だ! 貴様の舌の言うことなど、証拠になるものか!」
「あ」
皿を拭いていたイーノ様が、何気なく顔を上げました。
「……何だ、皿洗い風情が」
「神殿の茶葉購入記録の写しって、王室財務庫にもありますよね。納品伝票と照合すれば、すぐ出ると思いますけど」
店が、しん、と静まりました。
「…………なぜ、それを、貴様が」
「え。……え? すみません、僕もいま自分で驚いて——あっ」
砂糖壺が、床で割れました。
「三つ目ですわ、イーノ様」
神官長の語尾が、上ずりはじめました。
「私は……私は神殿で三十年、誰にも名を覚えられなかった! 三十年だぞ!」
「……ああ」
寄進碑に刻まれたお名前。故郷の村への『匿名』の橋。
「だから、他人の三年を、ご自分の名前に換えましたのね」
「違う、私は……」
わたくしは記帳簿の表紙を撫でました。角の擦り切れた、湯気で波打った革表紙を。
「この帳面には、わたくしの名など一度も書いてございません。書いてあるのは、湯の温度と、水の名と、誰かが明日も元気でいるための比率だけですわ」
「それを、あなたは落書きとお呼びになった」
わたくしは深く、丁寧に礼をいたしました。神殿で三年間してきたのと、同じ角度で。
「——どうぞ、そのまま神殿を干上がらせてくださいませ」
◇
扉の鈴が、鳴りました。
旅装の少女が、埃だらけの靴で立っていました。淡い金髪を布で隠し、薄紫の瞳だけがそのまま。
「あ、えっと、あの……」
神官長が連行されていく音が、まだ街道に残っておりました。
「……馬車も、お供も無しで。三つの峠を、ご自分の足で」
ミレーユ様は、カウンターの前で深く頭を下げました。
「ごめんなさい。わたし、何も知りませんでした。あなたが毎朝四時に起きていたことも、井戸を変えていたことも、ひとつも」
「はい」
「……戻ってきて、くれませんか」
わたくしは、記帳簿を手に取りました。
(前世で、レシピをノートに残さないまま倒れた。店は三日で回らなくなった。……だから、書いたんですわ)
「差し上げますわ」
「え……!」
「ただし、写しを。原本はわたくしのものですので」
「……はい」
「そして——わたくしは、戻りません」
「……っ」
少女の唇が震えましたが、涙はこぼれませんでした。それは、この方が少しだけ大人になった証でしょう。
「ここの陽が、気に入っておりますので」
窓から差す光が、カウンターの木目を蜂蜜色に染めています。ガーヴィス様がいつも座る席。イーノ様が割った砂糖壺の、接ぎ目の残る蓋。メロが置いていった濡れた鞄。
「それに」
わたくしは前掛けの紐を結び直しました。三年二ヶ月、一度も使わなかった顔で微笑みます。
「——今度は、わたくしが淹れたい人に淹れます」
ミレーユ様は、写しの束を胸に抱きました。
「……読みます。全部。自分で淹れられるようになるまで」
「——では、お代わりはいかがです」
「え」
「まだご注文を伺っておりませんわ。お客様」
「あ、あの、えっと……し、失礼します……!」
聖女様は、耳まで赤くなって、椅子に座りました。
◇
それから。
神殿の会計帳が公開され、オズワルド・ヴァルネは解任されました。
「聞いた!? 神官長、解任だって! 寄進碑から名前も削られたって! ……別に、ついでだけど。ついでだから」
ミレーユ様は月に一度、私服で峠を越えていらっしゃいます。「いらっしゃいませ」と言うたび、毎回少し赤くなるのは、もう癖のようなもの。湯温は八十二度、雨の翌日は南の湧水。ちゃんと、読んでいらっしゃる。
イーノ様の記憶は、ある朝、砂糖壺を割った拍子に戻りました。
「……あ。思い出しました。僕、エイノルドです。第三王子の」
「砂糖壺を割った拍子に、でございますか」
「三ヶ月後に、また皿を洗いに来ます。今度は、割りません」
「お待ちしておりますわ。……蓋は、棚に戻しておいてくださいませ。割れても、戻れる場所がある。そういう形の蓋ですので」
ハウル・ベンジェ様は、看板に金属の認定札を打ち付けにいらっしゃいました。嘆願書を書いたのはメロで、字が下手すぎて清書はわたくしがしましたが。
「打ち付けたぞ。『街道商人ギルド公式休憩所・陽だまり亭』。——商いってのは、帳面が正直な奴が最後に勝つんだ」
そして茶を一口飲んで、真顔で。
「……おい。これで銅貨三枚? 安すぎる。金貨で払わせろ」
「お断りいたしますわ。原価率が狂いますので」
ガーヴィス様の味覚は、完全には戻りません。
ただ、今日も窓際の席で、大きな身体を丸めて器を持ち上げ、ぽつりと仰います。
「…………ここの茶だけは、味がする」
(湯呑を返すとき、鱗の指先が触れました。見た目より冷たくて、驚くほど静かに震えている)
「スコーン、もう一つ焼きましょうか」
「……ああ」
(耳の先が、また赤くなっておりますわ)
竈に火を入れます。バターが溶けて、店が甘い匂いに満ちていきます。
記帳簿は、今日も開いたままカウンターの端に。
一〇九九日目、一一〇〇日目——数字は、まだ伸びています。
陽が動いて、窓際の席がいちばん暖かくなる時刻。
扉の鈴が、鳴りました。
「いらっしゃいませ。——お好きな席へどうぞ、そちら、よく陽が当たりますわ」




