第九話 前(ぜん) ― 最後の九字
宇都宮城の冬は、骨の髄まで冷える。
北風が城壁を叩き、
城下の家々の屋根には薄く雪が積もっていた。
壬生綱房は、
天守の上からその景色を静かに見下ろしていた。
(私は……
ここに在るべきだから在る。
だが――
この“在り方”は、
いつまで続くのか。)
綱房の胸には、
初めて“迷い”に似た影が差していた。
宇都宮城を奪取してから数年。
綱房は権力を振るわなかった。
ただ、仏法を守るために政を整え、
民を守り、
乱を鎮めた。
だが、
列国はそれを“野心”と見た。
北条、佐竹、那須――
ついに三方から軍が動き、
宇都宮城を包囲した。
家臣たちは震えた。
「殿……
この数は……
もはや……」
「三千を超えております……
我らは三百……」
綱房は静かに言った。
「数は関わらぬ。
心が揃えば、
軍は揺らがぬ。」
左馬助は、
綱房の横顔を見つめながら思った。
(殿……
あなたは……
最後まで“仏法の器”であられるのか。)
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夜。
綱房は広間に家臣たちを集めた。
護摩壇の炎が揺れ、
影が壁に大きく伸びる。
綱房は静かに言った。
「皆、聞け。」
その声は穏やかだったが、
広間の空気をすっと引き締めた。
「私は、前に立つ。」
家臣たちは息を呑んだ。
綱房は続けた。
「前とは、
ただ進むことではない。
己の命を賭して、
守るべきものの前に立つことだ。」
綱房は印を結んだ。
「……前。」
九字護身法の最後の一字。
“先頭に立つ者”を示す字。
その一字が切られた瞬間、
広間の空気が震えた。
家臣たちは、
綱房の姿を“主君”ではなく、
“導師”として見た。
(殿……
あなたは……
もう人ではない。)
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翌朝。
壬生軍三百は城門を開き、
包囲する三千の軍勢へ向かって進んだ。
冬の空気は鋭く、
吐く息は白い。
綱房が手を上げると、
家臣たちは一斉に声を発した。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
その声は低く、
地を震わせるように響いた。
敵兵はその声に怯えた。
「な、なんだ……
あの経は……!」
「心が締めつけられる……!」
綱房は馬上で印を結んだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在――」
最後の一字を切る。
「――前。」
その瞬間、
壬生軍は一斉に突進した。
声が、
足音が、
息遣いが、
すべてひとつに溶け合っていた。
敵兵は耐えられず、
次々と後退していった。
だが――
一本の矢が、
綱房の胸を貫いた。
綱房は倒れなかった。
胸に矢を受けたまま、
前へ進み続けた。
家臣たちは叫んだ。
「殿――!」
綱房は振り返らず、
ただ前を見つめていた。
その瞳は、
静かで、
澄んでいて、
どこか遠くを見ていた。
綱房は最後の力を振り絞り、
印を結んだ。
「前に在りて……
ただ仏を念ず。」
その言葉を残し、
綱房は静かに膝をついた。
家臣たちは駆け寄り、
その身体を支えた。
綱房は微笑んでいた。
その微笑みは、
戦国の武将のものではなく、
仏の前に帰る者の微笑みだった。
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戦が終わった後、
壬生軍は綱房の亡骸を囲んで立ち尽くした。
敵兵は、
綱房の姿に恐れをなし、
戦場から退いた。
左馬助は、
綱房の冷たくなった手を握りながら呟いた。
「殿は……
鬼ではなかった。
仏であられた……」
冬の空に、
朝日が差し込んだ。
その光は、
綱房の身体を照らし、
まるで仏像のように輝かせた。
そして壬生綱房は、
凡庸であった男が、
純粋すぎる信念ゆえに鬼となり、
最後には仏へと昇華した。
その姿は、
壬生家の者たちの心に深く刻まれ、
永く語り継がれることとなった。




