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仏道の鬼将 ― 壬生綱房戦記 ―  作者: 双鶴


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第八話 在(ざい) ― 在るべき道

宇都宮城の空は、重い雲に覆われていた。

夏の終わりの湿った風が吹き、

城下の空気はざわついている。


宇都宮尚綱が戦死した――

その報せは、雷のように下野一円を駆け巡った。


綱房は鹿沼の屋敷でその報せを聞き、

静かに目を閉じた。


(ついに……

 この時が来たか。)


家臣たちは動揺していた。


「殿、宇都宮家は混乱しております。

 今こそ動くべきかと……」


「いや、殿。

 今は静観すべきです。

 列国が壬生の動きを見ております。」


意見は割れた。

だが綱房は、

ただ護摩壇の炎を見つめていた。


炎は揺れ、

その揺らぎが綱房の瞳に映る。


綱房は静かに言った。


「私は、仏法のために在る。」


家臣たちは息を呑んだ。


綱房は続けた。


「宇都宮が乱れれば、

 民が苦しむ。

 民が苦しめば、

 仏法は乱れる。」


綱房は立ち上がり、

印を結んだ。


「……在。」


九字護身法の八字目。

“在るべき姿”を示す字。


その一字が切られた瞬間、

広間の空気が震えた。


左馬助は、

綱房の背中に“決意”ではなく“宿命”を見た。


(殿……

 これは野心ではない。

 殿は……

 “在るべき場所”へ向かおうとしておられる。)


---


壬生軍は宇都宮城へ向かった。

僧兵を含む三百余。

その歩みは乱れず、

声を揃えて唱えていた。


「うんたらたかんまん……

 うんたらたかんまん……

 うんたらたかんまん……」


その声は、

城下の民の胸に深く響いた。


「壬生の軍が来たぞ……!」


「いや……

 あれは軍ではない……

 祈りだ……」


城門は混乱していた。

尚綱の死で家中は割れ、

誰も指揮を執れない。


綱房は馬上で印を結んだ。


「……在。」


その一字が切られた瞬間、

壬生軍は一斉に動いた。


声が、

足音が、

息遣いが、

すべてひとつに溶け合っていた。


城門は抵抗らしい抵抗もなく開いた。


宇都宮城は、

ほとんど戦わずして綱房の手に落ちた。


---


城内に入った綱房は、

広間に座し、

静かに目を閉じた。


家臣たちは歓声を上げた。


「殿!

 ついに宇都宮城を……!」


「これで壬生は下野の覇者……!」


だが綱房は、

その声に応えなかった。


ただ、

護摩壇の炎を見つめていた。


左馬助は恐る恐る問うた。


「殿……

 宇都宮を手に入れた今、

 我らは何を……?」


綱房は静かに言った。


「私は、権を求めぬ。

 ただ、仏法を守るために在る。」


家臣たちは言葉を失った。


綱房は続けた。


「宇都宮城は、

 仏法を守るための方便にすぎぬ。

 私は、ここに在るべきだから在るだけだ。」


その言葉は、

野心の欠片もなかった。

だが、

その“無欲”こそが恐ろしかった。


左馬助は震えた。


(殿……

 あなたは……

 人の欲を超えてしまわれた……)


---


夜。

綱房は宇都宮城の天守に立ち、

月を見上げていた。


風が吹き、

衣が揺れる。


綱房は静かに呟いた。


「……在。」


その声は、

夜空に吸い込まれていった。


綱房の影が、

月明かりの中で揺れた。


その影は、

人の形をしているようで、

どこか“仏像の輪郭”を帯びていた。


綱房は目を閉じた。


「私は、ここに在る。

 仏法のために在る。

 それ以外は、いらぬ。」


その言葉は、

優しさと狂気の境界を越えた者の声だった。


そしてこの“在”の一字が、

綱房を“人の存在”から遠ざけ、

「前」へと導いていくことを、

この時はまだ誰も知らなかった。

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