第七話 列(れつ) ― 列国を揺るがす
下野の夏は、湿り気を帯びて重い。
鹿沼の空には雲が垂れ込み、
遠くで雷が鳴っていた。
壬生家の屋敷では、
家臣たちが広間に集まっていた。
北条、佐竹、那須――
列国からの使者が相次いで訪れ、
綱房の動向を探っているという。
左馬助は、
広間の中央に座す綱房を見つめた。
綱房は静かに目を閉じ、
護摩壇の炎を見つめていた。
(殿……
この数ヶ月で、
もはや“国衆”の器ではなくなっておられる。)
家臣たちは、
綱房の沈黙に息を呑んでいた。
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その日の午後、
那須氏の使者が鹿沼を訪れた。
使者は険しい表情で言った。
「壬生殿。
近頃、そなたの軍が国境を越えて動いておると聞く。
これは、那須家への挑戦と受け取ってよいのか。」
綱房は微笑んだ。
「挑戦ではない。
“行”だ。」
使者は眉をひそめた。
「行……?」
綱房は護摩壇の炎に手をかざした。
「国境とは、人が引いた線。
だが、仏法に境はない。
迷いを断つためなら、
どこへでも行く。」
使者は言葉を失った。
綱房は続けた。
「列とは、境を越える理。
私は、ただその理に従っているだけだ。」
使者は震えた。
(この男は……
武将ではない。
僧でもない。
何か……
もっと大きなものだ。)
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数日後。
壬生軍は那須領との境へ向かった。
夏の湿った風が吹き、
草木がざわめく。
綱房が手を上げると、
家臣たちは一斉に声を発した。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
その声は低く、
地を震わせるように響いた。
那須の兵はその声に怯えた。
「な、なんだ……
あの声は……!」
「胸が締めつけられる……!」
壬生軍は声を揃え、
綱房の背中を中心に進んだ。
その動きは、
軍勢というより、
“ひとつの意志”のようだった。
綱房は敵の前に立ち、
印を結んだ。
「……列。」
九字護身法の七字目。
“境界を断つ”という綱房の解釈が、
その一字に込められていた。
その瞬間、
風が止み、
空気が張り詰めた。
壬生軍は一斉に突進した。
声が、
足音が、
息遣いが、
すべてひとつに溶け合っていた。
敵兵は耐えられず、
次々と後退していった。
壬生軍は追わなかった。
ただ、綱房の背中を中心に立ち続けた。
左馬助は、
綱房の横顔を見つめながら思った。
(殿……
これは戦ではない。
境を越える“行”だ……)
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戦が終わった夜。
綱房は祠の前に座し、
目を閉じた。
「……列。」
その声は、
祠の闇に吸い込まれていった。
綱房の影が、
月明かりの中で揺れた。
その影は、
人の形をしているようで、
どこか“国境を越える鬼”の輪郭を帯びていた。
綱房は静かに呟いた。
「境を越えれば、
人ではなくなる。
だが――
仏を守るためなら、
それでよい。」
その言葉は、
優しさと狂気の境界を越えた者の声だった。
そしてこの“列”の一字が、
綱房を“国衆”から“列国を揺るがす存在”へと変え、
次の「在」へと導いていくことを、
この時はまだ誰も知らなかった。




