第六話 陣(じん) ― 陣頭の護摩
日光山の空気は、俗世とは別の重さを持っていた。
杉木立の間を吹き抜ける風は冷たく、
僧たちの読経が遠くから響いてくる。
壬生綱房は、
その読経の音を聞きながら山道を登っていた。
(ここが……
父が敬い、
私が“道”を見つけた場所。)
綱房の胸には、
静かな熱が宿っていた。
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日光山座禅院。
堂宇の前で、老僧・昌源が綱房を迎えた。
「綱房殿、よく参られた。」
綱房は深く頭を下げた。
「昌源様。
日光山の加護なくして、
この乱世を生き抜くことはできませぬ。」
昌源は綱房の眼差しを見つめ、
静かに頷いた。
「そなたの心は澄んでおる。
だが、その澄み方は……
時に人を遠ざける。」
綱房は微笑んだ。
「人を遠ざけても、
仏を遠ざけることはありませぬ。」
昌源はその言葉に、
一瞬だけ目を細めた。
(この若者は……
危うい。
だが、その危うさは“力”でもある。)
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その日の夕刻。
綱房は座禅院の護摩壇の前に座していた。
炎が揺れ、
堂内の空気が震える。
綱房は低く唱えた。
「のうまく さまんだ ばざらだん……」
僧たちが声を重ねる。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
その声は、
まるで山そのものが唱えているかのように響いた。
綱房は炎を見つめながら言った。
「昌源様。
私の次男・勝膳を、
日光山に預けとうございます。」
昌源は驚いた。
「勝膳殿を……僧に?」
綱房は頷いた。
「この乱世、
武の道だけでは足りませぬ。
仏法を知る者が、
壬生には必要なのです。」
昌源はしばらく沈黙し、
やがて静かに言った。
「よかろう。
勝膳殿は今日より“昌膳”と名乗るがよい。」
綱房は深く頭を下げた。
(これで……
壬生は仏法とともに在る。)
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数日後。
宇都宮家中の争いは激化し、
綱房のもとには各地から援軍要請が届いていた。
だが綱房は動かなかった。
代わりに、
日光山の僧兵たちが鹿沼へと下りてきた。
鎧の上に法衣をまとい、
数珠を握りしめた僧兵たち。
その姿は、
武士でも僧でもない。
まさに“密教軍団”だった。
家臣たちは息を呑んだ。
「殿……
これは……」
綱房は静かに言った。
「陣とは、ただ兵を並べるものではない。
心を並べるものだ。」
綱房は印を結んだ。
「……陣。」
九字護身法の六字目。
“軍勢=曼荼羅”という綱房の思想が、
その一字に込められていた。
僧兵たちは一斉に唱えた。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
その声は、
壬生家の兵たちの胸に深く響いた。
左馬助は震えた。
(殿……
これは軍ではない。
陣そのものが“祈り”だ……)
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その夜。
綱房は屋敷裏の祠に向かった。
僧兵たちの声が遠くから響く。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
綱房は祠の前に座し、
目を閉じた。
「……陣。」
その声は、
祠の闇に吸い込まれていった。
綱房の影が、
月明かりの中で揺れた。
その影は、
人の形をしているようで、
どこか“曼荼羅の中心”のようにも見えた。
綱房は静かに呟いた。
「陣とは、心の曼荼羅。
その中心に立つ者は……
人であらずともよい。」
その言葉は、
優しさと狂気の境界を越えた者の声だった。
そしてこの“陣”の一字が、
壬生軍を“密教軍団”へと変え、
綱房をさらに鬼へと近づけていくことを、
この時はまだ誰も知らなかった。




