第五話 皆(かい) ― 皆是仏性
鹿沼の春は遅い。
三月も半ばを過ぎてなお、
朝の空気は冷たく、
霜が田畑に薄く残っていた。
壬生家の屋敷では、
家臣たちが広間に集まっていた。
那須氏との国境で小競り合いが続き、
ついに那須の別働隊が壬生領へ侵入したという。
左馬助は、
広間の中央に座す綱房を見つめた。
綱房は静かに目を閉じ、
護摩壇の炎を見つめていた。
(殿……
この数日で、さらに静かになられた。
静かすぎるほどに。)
家臣たちは、
綱房の沈黙に息を呑んでいた。
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やがて綱房は目を開いた。
その瞳は、
炎の揺らぎを映しながらも、
どこか遠くを見ているようだった。
「皆、聞け。」
その声は柔らかかった。
だが、広間の空気をすっと引き締めた。
「敵も、味方も、
皆、仏の子だ。」
家臣たちはざわめいた。
「殿……
敵も、でございますか。」
綱房は頷いた。
「そうだ。
皆、仏の子。
皆、迷いの中にある。」
綱房は護摩壇の炎に手をかざした。
「迷いがあるから、争う。
迷いがあるから、刃を向ける。
迷いがあるから、己を守ろうとする。」
左馬助は胸がざわついた。
(殿……
その言葉は、慈悲か……
それとも……)
綱房は続けた。
「だからこそ、
迷いを断たねばならぬ。」
その声は、
優しさと冷酷さが同居していた。
「敵の迷いも、
味方の迷いも、
皆、断つ。」
綱房は印を結んだ。
「……皆。」
九字護身法の五字目。
“すべての者は仏の子である”という綱房の解釈が、
その一字に込められていた。
炎が揺れ、
広間の空気が震えた。
家臣たちは、
綱房の姿を“主君”ではなく、
“導師”として見た。
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壬生軍は那須領との境へ向かった。
春の陽光が差し始めた野を、
二十余騎の小勢が進む。
綱房が手を上げると、
家臣たちは一斉に声を発した。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
その声は低く、
地を震わせるように響いた。
那須の兵はその声に怯えた。
「な、なんだ……
あの声は……!」
「胸が締めつけられる……!」
壬生軍は声を揃え、
綱房の背中を中心に進んだ。
その動きは、
軍勢というより、
“ひとつの意志”のようだった。
綱房は敵の前に立ち、
印を結んだ。
「……皆。」
その声は小さい。
だが、
敵兵の胸に深く響いた。
壬生軍は一斉に突進した。
声が、
足音が、
息遣いが、
すべてひとつに溶け合っていた。
敵兵は耐えられず、
次々と後退していった。
壬生軍は追わなかった。
ただ、綱房の背中を中心に立ち続けた。
左馬助は、
綱房の横顔を見つめながら思った。
(殿……
敵を憎んでおられぬ。
ただ、迷いを断とうとしておられる……
それが、かえって恐ろしい。)
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戦が終わった夜。
綱房は祠の前に座し、
目を閉じた。
「……皆。」
その声は、
祠の闇に吸い込まれていった。
綱房の影が、
月明かりの中で揺れた。
その影は、
人の形をしているようで、
どこか“仏像の輪郭”を帯びていた。
綱房は静かに呟いた。
「皆、仏の子。
ならば私は、
皆を救うために刃を取る。」
その言葉は、
慈悲と狂気の境界を越えた者の声だった。
そしてこの“皆”の一字が、
壬生軍を“宗教的軍団”へと変え、
綱房をさらに鬼へと近づけていくことを、
この時はまだ誰も知らなかった。




