第四話 者(しゃ) ― 人心の迷い
鹿沼の空は、冬の曇りに覆われていた。
陽は差さず、風は冷たく、
村の屋根には薄く霜が降りている。
壬生家の屋敷では、
家臣たちが広間に集まっていた。
綱房が宇都宮城から戻って以来、
家中には奇妙な緊張が漂っていた。
綱房の統率は強まった。
だがその強さは、
どこか“人ならざるもの”の気配を帯び始めていた。
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その日の朝、
家臣のひとり・大関弥六が左馬助に囁いた。
「左馬助殿……
殿のやり方、あれは……
武家の道ではありますまい。」
左馬助は眉をひそめた。
「どういう意味だ。」
弥六は声を潜めた。
「護摩を焚き、
進軍のたびに“うんたらたかんまん”を唱え、
戦を“行”と呼ぶ……
あれでは、まるで僧兵の軍ではないか。」
左馬助は反論しようとしたが、
胸の奥にざらついた感覚が残った。
(確かに……
殿は変わられた。
だが、それが悪いとは限らぬ。)
だが弥六は続けた。
「殿は……
人の道を外れつつあるのではないか。」
その言葉は、
左馬助の胸に深く刺さった。
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その日の夕刻。
綱房は家臣たちを広間に集めた。
蝋燭の火が揺れ、
壁に映る影が長く伸びる。
その影が、綱房の背にまとわりつくように揺れていた。
綱房は静かに座し、
家臣たちを見渡した。
「皆、聞け。」
その声は穏やかだったが、
広間の空気をすっと引き締めた。
「人は、弱い。」
家臣たちは息を呑んだ。
綱房は続ける。
「弱いから、迷う。
弱いから、疑う。
弱いから、己を守るために刃を向ける。」
弥六の顔が強張った。
綱房は、
まるで弥六の心を見透かしたように言った。
「迷いは、軍を乱す。
疑いは、家を壊す。
弱さは、己を滅ぼす。」
左馬助は胸がざわついた。
(殿……
まさか……)
綱房は立ち上がり、
ゆっくりと指先を揃えた。
「だからこそ――
弱さを断たねばならぬ。」
その瞬間、
広間の空気が震えた。
綱房は印を結んだ。
「……者。」
九字護身法の四字目。
“人の弱さを断つ”という綱房の解釈が、
その一字に込められていた。
蝋燭の火が揺れ、
影が壁に大きく伸びる。
弥六は震えた。
「殿……
まさか、私を……」
綱房は静かに首を振った。
「弥六。
そなたを責めぬ。
弱さは、誰の中にもある。」
その声は優しかった。
だが、その優しさの奥に、
冷たい刃が潜んでいた。
「だが――
弱さに呑まれる者は、
軍を乱す。」
綱房は歩み寄り、
弥六の肩に手を置いた。
「そなたの迷いは、
今日ここで断つ。」
弥六は涙を流した。
「殿……
私は……
殿を疑ったわけでは……」
綱房は微笑んだ。
「分かっている。
だからこそ、断つのだ。」
綱房は印を結び、
低く唱えた。
「臨・兵・闘・者――」
その瞬間、
弥六は崩れ落ちた。
命は奪われていない。
だが、
弥六の心から“迷い”が消えていた。
弥六は震える声で言った。
「殿……
私は……
殿に従います……
命の限り……」
綱房は静かに頷いた。
「それでよい。」
左馬助は、
その光景を見つめながら震えた。
(殿……
これは……
粛清ではない。
儀式だ……
心を断つ儀式だ……)
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夜。
綱房は祠の前に座し、
目を閉じた。
「……者。」
その声は、
祠の闇に吸い込まれていった。
綱房の影が、
月明かりの中で揺れた。
その影は、
人の形をしているようで、
どこか“鬼の輪郭”を帯びていた。
綱房は静かに呟いた。
「弱さを断つは、慈悲である。」
その言葉は、
優しさと狂気の境界を越えた者の声だった。
そしてこの“者”の一字が、
壬生家を“恐れと忠誠の共同体”へと変え、
綱房の権力を揺るぎないものにしていくことを、
この時はまだ誰も知らなかった。




