第二話 兵(ぴょう) ― 兵法即仏法
鹿沼の冬は厳しい。
朝の空気は鋭く、吐く息は白く、
屋敷の庭に張った薄氷が足音に割れていく。
壬生綱房は、屋敷の広間に家臣たちを集めていた。
父の死から間もないが、
綱房の眼差しには迷いがなかった。
広間の中央には、
小さな護摩壇が据えられている。
家臣たちは戸惑いを隠せなかった。
「殿……軍議の前に、護摩を?」
綱房は静かに頷いた。
「兵は、心だ。
心が乱れれば、軍は乱れる。
心が澄めば、軍は澄む。」
その言葉は、
若い当主のものとは思えぬほど落ち着いていた。
綱房は護摩木を組み、
火を灯した。
炎が立ち上がり、
広間の空気が揺れる。
綱房は低く唱え始めた。
「のうまく さまんだ ばざらだん……」
家臣たちは息を呑んだ。
その声は、
炎とともに広間を満たし、
胸の奥に響いてくる。
綱房は振り返り、
家臣たちに告げた。
「皆も唱えよ。
“うんたらたかんまん”と。」
家臣たちは戸惑いながらも、
声を合わせた。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
その声は次第に揃い、
広間の空気がひとつにまとまっていく。
左馬助は、
綱房の背中を見つめながら思った。
(殿は……
軍を動かすのではなく、
心を動かしておられる。)
炎が揺れ、
綱房の影が壁に伸びる。
その影は、
若き当主のものとは思えぬほど大きく見えた。
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その日の午後、
宇都宮城から使者が来た。
成綱の家中では、
重臣たちの対立が激しくなり、
周辺国衆の動向を探っているという。
使者は綱房に言った。
「壬生殿、近頃、そなたの軍は“異様”と噂されております。
進軍の際に声を揃え、
軍議の前に護摩を焚くとか。」
綱房は微笑んだ。
「異様であろうとも、
心が揃えば軍は強い。」
使者は言葉を失った。
綱房は続けた。
「兵法とは、心を整える術。
仏法とは、心を澄ませる術。
ならば両者は同じ道だ。」
その言葉は、
若き国衆のものとは思えぬほど深かった。
使者は帰り際、
左馬助に小声で言った。
「壬生殿は……
ただ者ではない。
あれは、武将か、僧か……
どちらなのだ。」
左馬助は答えなかった。
自分にも分からなかったからだ。
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数日後、
壬生領の北で小競り合いが起きた。
綱房は二十余の兵を率いて出陣した。
冬枯れの野を進む壬生軍は、
声を揃えて唱えていた。
「うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……
うんたらたかんまん……」
その声は低く、
地を這うように響いた。
敵兵はその声に怯えた。
「な、なんだ……
あの声は……!」
「胸が締めつけられる……!」
綱房は馬上で印を結んだ。
「……兵。」
その一字が切られた瞬間、
壬生軍は一斉に動いた。
声が、
足音が、
息遣いが、
すべてひとつに溶け合っていた。
敵兵は耐えられず、
次々と後退していった。
戦は短時間で終わった。
壬生軍は追わなかった。
ただ、綱房の背中を中心に立ち続けた。
左馬助は、
綱房の横顔を見つめながら思った。
(殿は……
兵を“心”として扱っておられる。
このお方の軍は、
もはや軍勢ではない。
ひとつの“意志”だ。)
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鹿沼へ戻った夜、
綱房は屋敷裏の祠に向かった。
冬の風が吹き、
木々がざわめく。
綱房は祠の前に座し、
目を閉じた。
「……兵。」
その声は、
祠の闇に吸い込まれていった。
綱房の影が、
月明かりの中で揺れた。
その影は、
人の形をしているようで、
どこか“僧兵の像”のようにも見えた。
綱房は静かに呟いた。
「兵は、心。
心を整えれば、
軍は揺らがぬ。」
その言葉は、
優しさと狂気の境界に立つ者の声だった。
そしてこの“兵”の一字が、
綱房の軍を“宗教的共同体”へと変え、
後の密教軍団の萌芽となることを、
この時はまだ誰も知らなかった。




