エピローグ 炎のあとに
冬の雪が溶け、
鹿沼の大地に春の気配が戻り始めた頃。
壬生綱房の亡骸は、
静かに日光山へと運ばれた。
山道には、
僧兵たちが数珠を握りしめて並び、
読経の声が風に乗って響いていた。
「のうまく さまんだ ばざらだん……
うんたらたかんまん……」
その声は、
綱房が生前に唱え続けた九字の響きと重なり、
山全体が祈りの器となったかのようだった。
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日光山座禅院。
老僧・昌源は、
綱房の亡骸の前に座し、
静かに目を閉じた。
「綱房殿……
そなたは、仏のために生き、
仏のために死んだ。」
昌源の声は震えていた。
「だが……
そなたの道は、
果たして仏の道であったのか……
それとも……
魔道であったのか……」
その問いに答える者は、
誰もいなかった。
ただ、
護摩壇の炎が揺れ、
綱房の顔を照らしていた。
その顔は、
戦場で息絶えた者のものではなく、
深い瞑想の中で眠る僧のように穏やかだった。
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鹿沼では、
民たちが綱房の死を悼んでいた。
「殿は、いつも田畑のことを気にかけてくださった……」
「戦の前に、必ず祈ってくださった……
あの祈りがあったから、
わしらは生き延びられたんだ……」
「殿は……
仏さまのような方だった……」
涙を流す者もいれば、
静かに手を合わせる者もいた。
だが一方で、
こう囁く者もいた。
「いや……
あれは仏ではない。
鬼だったのだ……
人の心を断ち、
迷いを焼き尽くす鬼だった……」
民の間で、
綱房は“仏”と“鬼”の両方として語られた。
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壬生家では、
左馬助が綱房の遺品を整理していた。
その中に、
一枚の紙があった。
綱房の筆跡で、
こう記されていた。
「我、前に在りて、ただ仏を念ず。」
左馬助は紙を胸に抱き、
静かに涙を流した。
(殿……
あなたは最後まで、
己の道を疑わなかった……
それが、どれほど恐ろしく、
どれほど美しかったか……
殿は、誰よりも“人”であり、
誰よりも“人ならざる者”であられた……)
左馬助は紙を丁寧に巻き、
綱房の位牌の前に置いた。
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日光山の春。
桜が咲き始め、
山の空気は柔らかくなっていた。
昌源は、
綱房の墓前に立ち、
静かに呟いた。
「綱房殿……
そなたは成仏したのか……
それとも……
魔道へ堕ちたのか……」
風が吹き、
桜の花びらが舞った。
昌源は目を閉じた。
「答えは、
そなたを見た者の心の中にあるのだろう。」
その言葉は、
春の風に乗って山へと消えていった。
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壬生綱房――
凡庸であった男が、
純粋すぎる信念ゆえに鬼となり、
最後には仏へと昇華した。
その生涯は、
人々の心に深く刻まれ、
やがてこう呼ばれるようになった。
「九字の炎」 と。
そしてその炎は、
今もなお、
日光山の風の中で揺れている。




