第一話 臨(りん) ― 発心
日光山の朝は、俗世とは別の時間が流れていた。
山霧は薄く漂い、杉木立の間を白い息のように揺れている。
鳥の声も、風の音も、どこか遠い。
その静寂の中を、若き壬生綱房は僧に導かれて歩いていた。
まだ二十歳にも満たぬ綱房の眼差しは、
山の空気に触れるたびに揺れ、
何かを探すように深く澄んでいく。
「綱房殿、こちらへ。」
案内役の僧が、
古い堂宇の前で立ち止まった。
堂の中では、僧たちが護摩壇を囲み、
火がゆらゆらと揺れている。
綱房は息を呑んだ。
炎はただ燃えているのではない。
炎そのものが“祈り”であり、
“刃”であり、
“道”であるように見えた。
僧が低く唱え始める。
「のうまく さまんだ ばざらだん……」
声が重なり、
堂内の空気が震えた。
綱房は胸の奥が熱くなるのを感じた。
炎が、祈りが、
まるで自分の内側に流れ込んでくるようだった。
(これが……密教の力か。)
僧が綱房に向き直った。
「綱房殿。
乱世にあっても、仏法は滅びませぬ。
むしろ乱世こそ、仏法が必要とされる。」
その言葉は、
綱房の胸に深く刺さった。
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鹿沼へ戻ると、
父・壬生綱重の病が悪化していた。
綱房は枕元に座り、
父の手を握った。
「父上……」
綱重は弱々しく笑った。
「綱房……
壬生は小さな家だ。
だが、民を守る心だけは失うな。」
その夜、綱重は静かに息を引き取った。
綱房は涙を流さなかった。
ただ、父の手を握りしめ、
心の奥で何かが固まっていくのを感じた。
(守らねばならぬ。
この家も、
この地も、
この民も。)
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父の死から間もなく、
綱房は宇都宮城へ呼ばれた。
城中は腐敗していた。
重臣たちは互いを疑い、
讒言が飛び交い、
忠綱の周囲には権力争いの影が渦巻いていた。
綱房はその光景を見て、
胸の奥に冷たいものが走った。
(これが……武家の現実か。)
だが同時に、
日光山で見た炎が脳裏に浮かんだ。
(乱世こそ、仏法を守るべき場。)
綱房は静かに息を吸い、
心の中で九字の最初の一字を思い浮かべた。
臨――。
“臨む”とは、
ただ前に進むことではない。
己の弱さに向き合い、
己の道に踏み出すこと。
綱房は宇都宮城の廊下を歩きながら、
心の中で呟いた。
「私は、仏法を守るために臨む。
この乱世に。」
その瞳は、
日光山の炎のように静かに燃えていた。
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鹿沼へ戻った夜、
綱房は屋敷裏の小さな祠の前に座した。
月明かりが祠を照らし、
風が杉の葉を揺らす。
綱房は両手を合わせ、
静かに目を閉じた。
「臨。」
その一言は、
祠の闇に吸い込まれ、
綱房の心に深く刻まれた。
その瞬間、
綱房の中で“何か”が動き始めた。
それは、
後に鬼とも仏とも呼ばれる男の、
最初の一歩だった。




