第9部:雪解けの残響
第1章:法廷の独白
札幌地方裁判所、第3号法廷。
その日、日本中の注目が、証言台に立つ一人の男に集まっていた。小池清泉。彼の表情には、かつての冷静さも、ホテルで見せた恐怖もなく、全てを終わりにしようとする静かな諦観だけが浮かんでいた。
春馬と、肩に包帯を巻いた本郷静香が、検察側の席で見守っている。傍聴席の片隅には、目立たないように座る古海、諒平、そして智仁の姿があった。
「最初は…シュミレーションでした」
小池の独白は、静かに始まった。
「大学サークル『応用論理研究会』OB会。そこで我々は、キング、現警視庁副総監の指揮のもと、思考の限界に挑む様々なシミュレーションを行っていました。そして、その集大成として計画されたのが、5年前の北海道銀行3億円盗難事件です」
彼の口から語られる事実は、あまりに常軌を逸していた。警備体制の穴を突き、警察の通信システムを掌握し、完璧なアリバイを作り上げる。それは、彼らにとって最高の知能ゲームに過ぎなかった。キングは計画を立案し、その片腕だった警察庁長官が警察内部の情報を操作した。城田と葛城は、実働部隊として動いた。HAYAMAコーポレーションは、防犯カメラ、Nシステムのハッキング、盗んだ金を洗浄し、海外に送金するための装置だった。
「愛甲は…裏切った」小池の声が、わずかに震える。「彼は、新人の森谷愛さんが、かつての自分の妹に似ていると言っていました。彼女がこの会社に入ってきたことで、彼は罪の意識に耐えられなくなった。そして、我々の計画をリークしようとした。だから…彼は消されたのです」
法廷は、水を打ったように静まり返っていた。一人の男の告白が、この国の正義の根幹がいかに脆く、腐っていたかを、白日の下に晒した瞬間だった。
第2章:白亜の城の崩壊
小池が証言台に立っている、まさにその同時刻。東京・霞が関。
最高幹部の執務室が並ぶ、静寂に包まれた警視庁の最上階フロアに、公安部の捜査員たちが足音も立てずに入っていく。
副総監は、デスクで静かにお茶を啜っていた。ドアが開いても、驚きもしない。
「…時間切れ、か。ご苦労」
まるでチェスの終盤、投了を告げるキングのように、彼は穏やかに呟いた。
警察庁の長官室でも、同様の光景が繰り広げられていた。長官は、窓の外の国会議事堂を見つめながら、差し出された逮捕状に視線を落とすと、自嘲気味に笑った。
「我々の作った最高のゲームも、駒の裏切り一つで終わるとはな」
彼らは抵抗しなかった。その紳士的で、どこか芝居がかった態度は、自分たちが法の上に立つ選民であるという歪んだエリート意識の最後の現れだった。
第3章:報道の嵐、国民への問い
事件の幕引きは、新たな嵐の始まりだった。
副総監と警察庁長官の逮捕。そのニュースは、日本中を震撼させた。テレビのワイドショーは連日この話題で持ちきりとなり、新聞の一面には「正義の崩壊」「国家の背信」といった過激な見出しが躍った。
霞が関の警察庁庁舎前には、国内外からおびただしい数の報道陣が詰めかけ、幹部たちの苦渋に満ちた表情を捉えようとカメラの砲列が並ぶ。彼らの問いは、もはや事件の真相だけに留まらなかった。
『なぜ、これほどの長期間、組織ぐるみでの犯罪が見過ごされてきたのか!』
『警察の自浄作用は、完全に機能不全に陥っていたのではないか!』
『我々は、一体、誰を信じれば良いのか!』
その怒りの矛先は、やがて国民一人ひとりへと向けられていく。
ある著名なジャーナリストは、自身の番組で、厳しい表情でこう問いかけた。
「我々は、驚き、怒り、そして呆れています。しかし、本当に問われるべきは、我々国民自身の姿勢ではないでしょうか。我々は、いつの間にか、権力というものを疑うことを忘れ、お上に全てを任せることに慣れすぎていたのではないでしょうか。正義とは、誰かが与えてくれるものではない。我々一人ひとりが、自らの目で見、自らの頭で考え、そして時には、声を上げて勝ち取らなければならないものなのです。この事件は、そのことを、あまりにも大きな代償と共に、我々に突きつけているのです」
その言葉は、日本中のリビングに重く響き渡った。人々は、画面を見つめながら、自問自答せざるを得なかった。自分たちは、本当にこの社会の主権者として、その責任を果たしていただろうか、と。
第4章:春の兆しと残された雪
事件から、数週間が過ぎた。
報道の嵐が吹き荒れる中、札幌の街は、長く厳しい冬の終わりを告げる、柔らかな日差しに包まれ始めていた。道端には、まだ汚れた残雪が塊となって残っているが、アスファルトの乾いた匂いが、確かに春の訪れを告げていた。
「世話になったわね。しばらくは、東京で腐った組織の大掃除よ」
東京へ戻る直前の本郷静香が、春馬に挨拶に訪れていた。
彼女の肩の傷は、まだ痛々しい。
「しかし…」春馬が
「結局、消えた3億円の行方と、ハイドの居場所は分からずじまいか」
「ええ」本郷が頷く。「ハイドは、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。3億円も、完全に洗浄されてしまった後。キングたちは、金そのものより、ゲームの達成感を重視していたのかもしれないわ」
大きな事件は終わった。だが、すべての謎が解けたわけではない。春の陽光の下に残る雪のように、事件の残響は、まだこの街のどこかに凍りついたままだった。
第5章:それぞれのカウンター
いつもの夜。カウンターには、いつもの顔ぶれがいた。
諒平は、ノートパソコンの画面に表示された、海外口座の金の流れを示す複雑な図を眺め、ハイボールを一口飲んでニヤリと笑った。「最高のパズルは、まだ解けてないってことか。面白くなってきたな」
智仁は、黙々と鶏のささみを食べている。あのお調子者の雰囲気は少しだけ影を潜め、その瞳には、試練乗り越えた者の静かな強さが宿っていた。
彼は、本当の強さとは何かを、自問するようにトレーニングを続けている。
古海は、変わらない艶やかな笑みを浮かべて、客たちの与太話に耳を傾けていた。
「ススキノのどこかに、ハイドが隠した秘密のバーがまだあるらしいわよ」。彼女の情報網は、今日も健在だ。
隼人は、黙って厨房に立ち、リズミカルに包丁を動かす。すべてを見守り、すべてを受け入れるように。
最終章:雅宗の暖簾
全ての喧騒が過ぎ去り、店が閉まる時間。隼人と古海、二人で静かにお茶を飲んでいた。
「大変だったわね」
「ああ。だが、終わった」
隼人は、丁寧に磨き上げられたカウンターを撫でた。
「どんなに複雑に見える料理も、突き詰めれば、素材の味と、火加減と、塩加減だ。事件も、人生も、結局は似たようなもんなのかもしれんな。誰が素材で、誰が火を入れるか。それだけのことだ」
春の夜風が、店の新しい暖簾を優しく揺らす。
また明日になれば、新しい客がこの暖簾をくぐってくるだろう。日常は、そうやって続いていく。
隼人は立ち上がり、店の明かりを消そうとした。その時、ふと、店の外の路地の暗がりに、一瞬だけ、誰かの気配を感じた気がした。煙草の火が、小さく光って、すぐに消えたような。
ハイドだろうか。
あるいは、まったくの気のせいか。
隼人は小さく笑うと、店の扉に鍵をかけた。
北の街の闇は深い。だが、この「雅宗」のカウンターには、いつでも温かい料理と、厄介で、それでいて愛おしい仲間たちがいる。
また、いつか。
どんな事件がこの暖簾の前に現れようとも、自分はただ、いつものように「へい、いらっしゃい」と迎え入れるだけだ。
雪解けの水の音が、静かな路地に心地よく響いていた。
(了)
この物語をお読みいただき、誠にありがとうございました。
札幌の路地裏に佇む小さな料理屋「雅宗」を舞台に、料理人・雅宗隼人と、
その仲間たちが織りなす事件簿はいかがでしたでしょうか。
物語の着想は、一杯の出汁から始まりました。丁寧に引かれた出汁が、
様々な食材の味を引き立て、一つの料理を完成させるように、一人の男の持つ、
静かでありながらも確かな「勘」や「観察眼」が、複雑に絡み合った事件の糸を解きほぐしていく。
そんな物語を描きたいと思いました。
隼人は、スーパーマンではありません。彼が持つのは、長年の料理人としての経験で培われた、
物事の本質を見抜く力だけです。食材の声を聞き、客の表情を読む。その日々の積み重ねが、
やがては人の心の奥底に潜む嘘や真実をも見抜く力となる。
そんな、職人の持つ一種の「凄み」のようなものを、感じていただけたなら幸いです。
また、春馬、古海、諒平、智仁といった、個性豊かな「カウンターの上の探偵団」の面々にも、
物語を大いに助けてもらいました。彼らの存在なくして、隼人の推理が日の目を見ることはなかったでしょう。
私たちの日常は、時に、思いもよらない謎や困難を投げかけてきます。そんな時、もしかしたら、
答えはすぐ近くの、いつもの場所にあるのかもしれません。行きつけの店のカウンター、
何気ない会話の中に、全ての鍵が隠されている。この物語が、そんな日常に潜む小さな奇跡を、
少しでも感じていただけるきっかけになれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。
また、いつか、雅宗の暖簾の向こうで、皆様と再会できる日を願って。