第8部:静寂のカウンター
第1章:もう一つの戦場
春馬たちが札幌地方裁判所の前で、国の最高権力と対峙していた、まさにその同じ日。ススキノの裏通りでは、もう一つの戦いが静かに始まっていた。舞台は、バー「TILT」。
定山渓での死闘は捜査本部内にも報告されていた。
これまで春馬たちを冷ややかに見ていた捜査員たちの間にも、明らかな動揺と変化が生まれていた。
警察内部への不信と、真実を求める者たちへの共感が、彼らを動かしたのだ。
捜査本部で、春馬とは別の班に所属していた数名の刑事が集まっていた。彼らが追っていたのは、未だ解明されていない愛甲達也の直接の殺害犯。
「愛甲を殺したのは、TILTの人間だ」
第2章:筋肉と心理のチェス
法廷騒動の二日前。汗と鉄の匂いが立ち込める、ススキノの古びたボクシングジム。そこに、TILTのボディーガードの男はいた。サンドバッグに、まるで何かを憎むかのように重いパンチを叩き込んでいる。
そこに、場違いなほど明るい声が響いた。
「うわー、すっげえパンチ!キレッキレじゃないですか!でも、俺のこの大胸筋のカットも、負けてませんけどね!」
派手なトレーニングウェアに身を包んだ智仁が、鏡の前で自慢の筋肉にポーズをつけながら立っていた。男は、鬱陶しそうに一瞥するだけだった。
「よかったら、スパーリングお願いできません?俺、自分の筋肉が実戦でどれだけ通用するか、試してみたくて!」
しつこく、無邪気に、そして少し馬鹿なふりをして食い下がる智仁。男は舌打ちし、面倒くさそうにヘッドギアを手に取った。この筋肉馬鹿を軽く捻って、黙らせてやろう。その目に浮かぶ侮りを見逃さず、智仁はリングのロープをくぐった。
ゴングが鳴る。男は、プロの重いジャブを放った。しかし、その拳は空を切る。智仁は、まるで戯れるかのように最小限の動きでそれをかわす。男が焦って大振りのフックを繰り出せば、その懐に蝶のように潜り込み、ボディにトスッと軽い、しかし芯に響く一撃を入れた。
「どうしました?そんなもんじゃないでしょ!」
笑顔だが、目は全く笑っていない。男は、自分が完全に弄ばれていることに気づいた。目の前の男は、ただの筋肉馬鹿ではない。自分とは次元の違う、本物の「武術家」だ。恐怖が、じわりと背筋を這い上がってくる。数ラウンド後、男は完全にスタミナを奪われ、膝に手をついて喘いでいた。
智仁は、汗一つかかずに男の前に立つと、声を潜めて言った。
「あんた、強いな。でも、所詮は鉄砲玉だ」
男の顔色が変わる。
「葛城優って男がいた。あんたと同じ、主人のために手を汚す忠実な犬だった。だが、どうなった?あっさり切り捨てられて、独房で死んだ」
智仁の言葉は、男が心の奥底で抱いていた恐怖そのものだった。
「あんたがやったんだろ、愛甲を。ハイドの命令でな。だが、キングの組織が崩壊しかけてる今、ハイドがあんたを守ると思うか?プロは、損切りが早い。真っ先に切り捨てられるのは、あんたみたいな現場の人間だ」
智仁は、ポケットから小さなビニール袋を取り出し、男の目の前に突きつけた。中には、一本の短い毛髪が入っている。
「愛甲が殺された渓谷で見つかったもんだ。あんたのだろ?警察はもう掴んでる。あとは、誰が最初に口を割るかのチキンレースだ。自首か、それともハイドに消されて海に浮かぶか。どっちがいい?」
もちろん、毛髪はハッタリだった。だが、完全に戦意と理性を失った男には、それが真実に見えた。彼の顔から、血の気が引いていく。
智仁は、震える男の耳元で囁いた。
「俺は、消防士だ。警察じゃない。だが、人を助けるのが仕事だ。あんたが助かる道は一つだけだ。すべてを話せ」
その数時間後。男は、指定された公衆電話から、震える手で道警本部に電話をかけていた。智仁の書いた脚本通りに。
第3章:空っぽの城
智仁が仕掛けたタレコミと、刑事たちの捜査が、ついに一本に繋がった。
実行犯であるボディーガードの男の身柄は、彼の自供通り、秘密裏に確保された。
彼の証言は、極めて具体的かつ詳細だった。
「愛甲が持っていたデータを取り返すため、ハイドに命令された。データは見つからなかった。気絶させてその後、自殺に見せかけて渓谷から突き落とした」
決定的証言を得た刑事たちは、裁判所前の混乱に乗じて、ハイドの逮捕状とTILTへの家宅捜索令状を裁判所に請求し、異例の速さでそれを手に入れた。
夕暮れ時。刑事たちがTILTの重い鉄の扉を破って突入する。しかし、そこにハイドの姿はなかった。
店内はもぬけの殻。グラスはすべて磨き上げられ、一本の酒も残されていない。カウンターの上には、ただ一枚のタロットカードが置かれていただけだった。
「吊るされた男」。自己犠牲、あるいは身動きが取れない状況を意味するカード。
ハイドは、キングの組織が崩壊することを予見し、すべてを捨てて逃走したのだ。
それは、あまりにも用意周到な、完璧な逃亡だった。
第4章:残された謎
ボディーガードの男は、取調べで全てを自供した。彼は、ハイドに才能を見出され、裏社会に引き込まれた元格闘家だった。金と、ハイドへの歪んだ忠誠心のために、彼は殺人に手を染めた。しかし、キングや副総監といった上層部のことについては、ほとんど知らなかった。彼にとっての王は、あくまでハイドだったのだ。
「ハイドは、どこへ消えた…?」
捜査員たちは、彼の足取りを追った。しかし、どの空港にも、港にも、彼の出国記録はない。まるで、札幌の街に溶けて消えてしまったかのように、その痕跡はどこにも見当たらなかった。
TILTの謎めいたマスター、ハイド。
彼が何者で、なぜキングに加担し裏社会を仕切っていたのか。そして、彼はどこへ消えたのか。
(第八部 了)