第7部:法廷への長い道
第1章:友への銃弾
山荘に到着した春馬が目にしたのは、ドアの前で銃を構え、中に入ろうとする乾伸二だった。
「乾‼」
「春馬さん…来ないでください!」
乾の叫びは、悲痛に満ちていた。
「俺は…もう戻れないんです!」
「なぜだ、乾!なぜお前が!」
「尊敬していたのは、本当です。あなたのような刑事になりたかった。でも、俺には…キングには逆らえなかった!」
乾はキングに弱みを握られ、サークル時代から抜け出せない駒となっていたのだ。キングの命令で春馬の動向を報告する一方、彼を尊敬する心との間で引き裂かれていた。彼が流す情報は、常に一歩遅れていた。それは、春馬を決定的な危険に晒したくないという、彼なりの抵抗だったのかもしれない。
説得は、無意味だった。乾は引き金に指をかける。キングへの最後の忠誠を示すために。春馬は、友を、後輩を撃つことなどできない。その一瞬の躊躇。
銃声が、渓谷に2発響いた。
1発は、春馬を庇おうとした本郷の肩を掠めた。
そしてもう1発は、春馬の手に握られた銃から放たれていた。それは、彼の意志ではなかったが。反射的に放っていた。
「…ありがとう、ございます。春馬さん…」
血に染まりながら、乾は満足げに微笑んで崩れ落ちた。尊敬する先輩の手で幕を引くこと。それが、彼が自らに下した最後の罰だった。春馬の腕の中で、友の体は急速に冷たくなっていく。
第2章:決死のランウェイ
春馬たちは山荘を脱出した。後部座席では、小池清泉が恐怖で理性を失い、うわ言のように「キングはどこにでもいる…」と繰り返していた。助手席の本郷は、肩から流れる血を圧迫しながら、後方を睨みつけている。
バックミラーには、複数の車が、まるで肉食獣の群れのように迫っていた。
「轟、来るわよ」
山道を抜け、札幌へと続く国道に出た瞬間、壮絶なカーチェイスの火蓋が切られた。キングが放った追っ手の車が、巧みな連携で春馬の車を挟み撃ちにする。左右から執拗に車体をぶつけ、スピンさせようと試みる。
「くそっ!」
春馬は、カウンターを当てながら、巧みに追撃をかわす。タイヤが悲鳴を上げ、アスファルトを削る匂いが車内にまで流れ込む。だが、敵の数は多すぎた。一台が前に回り込み、急ブレーキをかける。避けきれない。衝突を覚悟した、その瞬間。
けたたましいサイレンと共に、数台のパトカーが地平線の向こうから現れた。
「轟、管理官、無事か!」
無線から、道警本部の刑事の声が響く。彼らは、本郷が事前に託していた非公式の要請に応じ、自らの意志で駆けつけたのだ。
応援のパトカーが盾となり、追っ手の車との間に割って入る。激しいクラッシュ音と、火花が国道230に響き渡る
「行け、轟!ここは俺たちが食い止める!」
「お前たち…!」
「俺たちも、道警の刑事だからな!」
仲間が、春馬たちのために道を切り開く。春馬は、一瞬だけルームミラーで彼らの姿を確認すると、礼を言う代わりにアクセルを床まで踏み込んだ。目指すはただ一つ、札幌地方裁判所。
第3章:中断命令
法廷が開かれるまで、あと数時間。
だが、最大の敵は、物理的な追っ手ではなかった。
その時、本郷の携帯に緊急警報が入った。
警察庁長官からの、直々の命令だった。
『本郷静香管理官に告ぐ。現在進行中のHAYAMAコーポレーション関連の捜査、及び証人護送任務を、ただちに中断せよ』
「長官自ら?...なぜですか?」
「命令だ!」
電話は切れた。
「…ふざけないで」
本郷の顔から表情が消える。
「命令は絶対……」
「な、わけ、できるかぁ!」
本郷は、きっぱりと言い切った。「私は、警察官である前に、法と正義を信じる一人の人間よ。このまま引き下がれば、死んでいった者たちに顔向けができない」
彼女の瞳には、迷いはなかった。
春馬たちの行動は、この瞬間から、正式な職務ではなく、組織への反逆となった
「…構わないわ。行きましょう」
本郷は、静かに、しかし鋼の意志で告げた。
春馬たちの車は、ついに札幌地方裁判所の前にたどり着いた。
しかし、そこには最後の絶望が待ち受けていた。
第4章:氷の女王の切り札
その頃、「雅宗」のカウンターは、最終決戦の司令塔と化していた。
諒平の元に、暗号化された一つの音声データが届いた。
送り主は、HAYAMAコーポレーションの川村景子、智仁が密かに呼ばれ渡された。あの人とは彼女の事である。
「すごい…これ、やばいですよ!」
諒平が再生した音声は、副総監と警察庁長官が、5年前の事件の隠蔽と、愛甲の殺害について密談している生々しい記録だった。
『愛甲はやりすぎた。我々の計画の根幹を揺るがしかねん』
『処理は済んだ。城田も葛城も手配済みだ。問題は、他のメンバーがいつまで忠誠を誓うかだ…』
データと共に、川村からのメッセージが添えられていた。
『副総監へのリークは、私がしました。5年前、家族を人質に取られ、協力せざるを得ませんでした。でも、愛甲さんが殺されて、いずれは私もだと悟った。このデータを、正義のために使ってください』
氷の女王と呼ばれた彼女が、恐怖と良心の間で葛藤し、命がけで手に入れた切り札だった。
「諒平!」隼人が叫ぶ。
「そのデータを、春馬に送れ!そして、すべてのマスコミにばら撒け!」
「了解!」
諒平の指が、キーボードの上を疾風のように駆け抜ける。北の小さな料理屋から放たれた一筋の光が、巨大な闇を切り裂くべく、電脳の海を駆け巡っていった。
第5章:法廷前の攻防
札幌地方裁判所の前は、異様な空気に包まれていた。
警察庁長官の命令を受けた、重装備の特殊部隊(SAT)が、裁判所の入り口を完全に封鎖していたのだ。
彼らの任務はただ1つ、
「轟春馬と証人の侵入を、実力行使をもって阻止せよ」。
春馬たちの車が、その封鎖線の前に到着する。
「ここまでだ」
部隊を率いる指揮官が、拡声器で冷たく告げる。春馬は絶望に唇を噛んだ。
その時、本郷が一人、車から降りて指揮官の前に進み出る。
第5章:正義の連鎖
「久しぶりね、佐伯隊長」
「…本郷管理官。なぜ命令に背く」
佐伯と呼ばれた男は、本郷の同期だった。二人は、警察学校時代から互いの正義感を認め合う、良きライバルだった。
「私が背いているのは命令じゃない。腐りきった権力よ!あなただって分かっているはず!この先に、本当に守るべき正義があるということを!」
本郷の魂の叫びが、その場にいたすべての隊員の心を揺さぶる。
「どいて。私たちの道を、開けなさい!」
佐伯は、ヘルメットの下で苦悩に顔を歪めた。命令と、己の信じる正義との間で。
その膠着状態を破ったのは、春馬だった。
「これを聞いてくれ!」
手にスマホを掲げた、諒平が送った音声データだ。
春馬は、スマホの音量を最大にし、その密談の内容を再生した。
副総監と長官の醜悪な会話が、裁判所前の広場に響き渡る。隊員たちに動揺が走る。
「これが真実だ!」春馬が叫ぶ。
「俺たちが戦っているのは、こんな奴らなんだ!お前たちは、本当にこいつらの盾になるのか!」
佐伯は、天を仰ぎ、深く息を吐いた。そして、決断する。
「…全隊員に告ぐ」
彼は、部下のほうを向き、静かに、しかし力強く言った。
「我々の任務は、国民の生命と財産、そして法の正義を守ることだ。我々が守るべきは、あの扉の向こうにある。――道を開けろ!」
その言葉を合図に、特殊部隊の隊員たちが、一斉に道を開けた。それは、組織の命令に背く、静かな、しかし最も雄弁な反逆だった。
開かれた道の向こうには、日を浴びて輝く、裁判所のガラスの扉があった。
春馬は、本郷と、そして震える小池と共に、その扉に向かって、最後の一歩を踏み出した。
それは、多くの犠牲と、仲間たちの助けによって繋がれた、あまりにも長く、険しい道だった。
(第7部 了)