第三章:凍てついた過去
『愛甲達也は事故じゃない。奴は殺された』
匿名のタレコミは、札幌・道警本部に小さな、しかし確実な波紋を広げていた。
事故処理で幕引きを図ろうとしていた上層部の思惑に、世論という横槍が入る可能性が出てきたのだ。
刑事部長城田から呼び出された捜査一課長、一文字と春馬は、エリート然とした冷たい叱責を浴びていた。
「タレコミなぞ、ただの悪戯だ。これ以上、事を荒立てるな」、だが、一文字は
「部長、しかし世間の目もあります。このままでは警察への不信に繋がりかねん」
一文字は分厚い手で顎を撫でると、春馬に向き直った。
「轟。お前に正式な捜査許可を出すわけにはいかん。人員も割けん。だが…」
一文字は一旦言葉を切り、続けた。
「お前にしばらく乾を補佐につける。あくまで『愛甲達也の身辺整理』という名目でな。いいな、深入りはするなよ」
それは、事実上のバディ指名だった。
表向きは監視役をつけられた形だが、春馬にとっては、暗闇に差し込んだ一条の光だった。
その夜、「雅宗」のカウンターで報告を受けた隼人は、静かに頷いた。
「追い風が吹いてきたな。だが、気を抜くなよ、春馬。お前らは光の当たる場所で。俺たちは、影の中から手伝う」
隼人は厨房という司令塔から動くつもりはなかった。
彼の役目は、集まってきた情報を整理し、次の的確な一手を指示すること。
料理の仕込みと同じように、緻密な計算と大胆な勘で、事件という名の食材を調理するのだ。
春馬たちが公式なルートで愛甲の周辺を洗い直している間、「雅宗」の非公式捜査チームは、闇に潜む糸を手繰り寄せていた。
ターゲットは、バー「TILT」に出入りしていた男たちと、謎の男だ。
「正面から行っても口は割らんでしょう。でも、人間、身体がほぐれりゃ心もほぐれるってもんですよ」
智仁はプロテインを飲み干すと、不敵な笑みを浮かべた。お調子キャラで筋肉ナルシスト。
それが彼の表の顔。だが、その裏には武術全般に精通し、物事の核心を突く鋭い思考力が隠されていた。
数日後、智仁はススキノの雑居ビルにある、キックボクシングジムにいた。
目的は、「TILT」に酒を卸している業者の男。
智仁は事前に、諒平の情報網で、男の素性と趣味を、割り出していたのだ。
サンドバッグを叩く男に、智仁は爽やかな笑顔で声をかける。
「いいパンチすっね!よかったらスパーリングお願いできませんか?」
最初は面倒臭がっていた男も、智仁のしつこさに根負けしてリングに上がる。
ゴングが鳴った瞬間、智仁の空気が変わった。
遊びのようなステップから放たれる、重く、鋭いローキック。
男は一発で顔を歪め、二発目で膝をついた。
「どうしました?まだいけますよね?」
笑顔だが、目の笑っていない智仁に、男は完全に戦意を喪失した。
ジムのシャワールームで、男は堰を切ったように話し始めた。
「葛城さんは…最近、妙に焦ってた。『五年前の件がバレたら終わりだ』って…。愛甲って男も、その件で揉めてたらしい。だから消されたんじゃねえかって、もっぱらの噂だ…」
「その人はどんな人だ?幹部か?」
「組織の人間ではない、もっと上の関係の人だ」
具体的に聞き出すと、この間見張っていた男がそうだと確信した。
「写真ないか?」
ハイドと数名写っている後ろに葛城はいた。
「雅宗」に持ち帰られた「五年前の件」というキーワード。
諒平がカウンターの隅でキーボードを叩く指が、ぴたりと止まった。
「…まさか」
画面に表示されたのは、北海道の犯罪史に残る、あまりにも有名な未解決事件だった。
『五年前、北海道銀行本店より現金三億円盗難、警備員二名死亡』
記事の見出しが、重くのしかかる。事件の概要は、完璧としか言いようがなかった。
何者かが深夜に侵入し、現金輸送準備室にあった三億円を強奪。
警備員二名は、首に細い針金のようなもので絞められた跡があり、抵抗した様子もなく殺害されていた。異常だったのは、銀行内外の全ての防犯カメラが作動しておらず、周辺道路のNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)の記録も、事件発生前後の時間帯だけが綺麗に消去されていたことだ。
「まるで、そこに神隠しでも起きたみたいだな…」
隼人が呟く。あまりに手際が良すぎる。
内部に精通した者、そして警察のシステムに干渉できる者の存在なくしては不可能な犯行だった。
(愛甲の死は、この凍てついた事件の亡霊なのか? 彼が怯えていたのは、この過去が暴かれることだったのか?)
春馬と乾の捜査も、壁にぶち当たっていた。
HAYAMAコーポレーションの社員たちは、弁護士を立ててガードを固め、誰もが口を閉ざしていた。
「手詰まりか…」春馬が「雅宗」のカウンターで頭を抱える。
その時、諒平が「ちょっと面白いものを見つけましたよ」とパソコンの画面を彼らに向けた。
それは、道内のある大学の、かなり古いOB名簿のデータだった。
「愛甲達也、同僚の小池清泉、川村景子…。全員、同じ大学の、同じサークルに所属してました」
サークルの名は、『応用論理研究会』。
表向きはディベートや思考ゲームを通じて論理力を鍛えるという、知的な集まり。
しかし、その裏では、完璧な犯罪計画の立案や、セキュリティシステムの突破などをシミュレーションする、危険な遊びに興じていた、という黒い噂が絶えない、サークルだった。
諒平はさらに追い打ちをかけるように、マウスをクリックした。画面に表示された名簿の一覧。
そこには、捜査一課長・一文字圭介の名前。
そして、その数年上には、刑事部長・城田寛治の名前も刻まれていた。
「おいおい、冗談だろ…」
春馬の額に、冷たい汗が滲んだ。
点と点が、一本の歪な線で繋がった。
五年前の三億円事件は、この『応用論理研究会』のOBたちが、自分たちの能力を試すために実行した「完璧な犯罪シミュレーション」の現実版だったのではないか。
愛甲は、何らかの理由で仲間を裏切ろうとした。あるいは、良心の呵責に耐えかねたのかもしれない。
彼が残したメモ『Kのデータを渡せ。奴らを信じるな』。
Kとはこのサークル関係者かあるいはまだ見ぬ裏切り者か。
愛甲の死は、口封じ。自殺に見せかけて、巧妙に殺害された可能性が、極めて濃厚になった。
だが、誰が、どうやって。そして、消えた三億円は今どこに。
「敵は、俺たちが思ってるよりずっと深いかもしれんな」
隼人は、熱い出汁の湯気が立ち上る鍋を見つめながら言った。
警察内部にまで根を張る、巨大な陰謀。
春馬と隼人たちのチームは、知らず知らずのうちに、その巣のど真ん中に、足を踏み入れてしまっていた。
北の街の闇は、さらにその深さを増していく。
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